第2話 嘘つきな彼女と心理観察ゲームの始まり
私立明鏡学園――かつての皇族の別邸を改装した名門校だ。広大な敷地には「七つの幻影スポット」と呼ばれる不思議な場所があり、特に「願いの藤棚」は願い事が叶うと噂されていた。
教室は5月の陽光に満ちている。
窓際に座る生徒たちの頬は桜色に染まり、黒板の反射光が湊の眼鏡に一瞬煌めいた。
微かに開いた窓からは体育の授業の掛け声と新緑の香り、そして中庭の藤棚に吊るされた風鈴の音色が聞こえてくる。
明鏡学園の「鏡月祭」は関東屈指の文化祭だ。すでに生徒たちは準備に追われていた。
2年B組の教室の中央付近、窓から3列目の席。
そこに座る桐島湊は、黒板に向けられた視線の奥で、何か別のことを考えているようだった。冷たい琥珀色の瞳は何かを探るように周囲を観察し、時折ペンを指で回す仕草がそれを物語っていた。
湊の髪は少し長めで、前髪が時折目にかかる。
黒縁の眼鏡をかけているが、実はそれは視力矯正のためというよりは、「目立たないための装備」だった。
眼鏡の奥の鋭い瞳は、周囲の様子を静かに観察している。
制服のネクタイは緩め、シャツの第一ボタンは外したままという、どこか気怠げな雰囲気を纏っていた。そのスタイルは、上級生にのみ許された暗黙の逸脱だったが、目立たない湊は教師にも注意されることはなかった。
「今日の放課後、各種委員会があるから、委員の人は忘れないでください」
朝倉ひなたが前に立ち、クラスに告知していた。彼女の声は透き通るように澄んでいて、教室の隅々まで届いていた。まるで春の小川のせせらぎのような、聞く者の心を落ち着かせる声音だった。
彼女は身長161センチと小柄ながら、凛とした佇まいで皆の視線を集めていた。
黒髪のロングヘアは揺れるたびに光を反射し、整った顔立ちと相まって、「学園のアイドル」の名にふさわしい美しさがあった。
制服のリボンは完璧な形に結ばれ、スカートの丈も規則通り、一糸乱れぬ姿だった。
しかし、よく見ると彼女の左手の小指には小さな絆創膏が貼られており、その完璧な外見に小さな綻びを見せていた。
胸元にはさりげなく「鏡花賞」と刻まれた小さなバッジが光っていた。明鏡学園では、成績上位5パーセントの生徒にのみ与えられる特別な栄誉だ。
「今日も委員会か。面倒くさい」
図書委員である湊は小さくため息をついた。
しかし、そんな内心を表に出すことなく、湊は手を少し上げて応答した。
湊が図書委員になったのは、静かな場所で本が読めるという理由だけだったが、最近は文化祭もあってか委員会活動が増えて本来の目的からかけ離れていた。
ひなたの視線が一瞬、湊に向けられる。
彼女の青紺色の瞳が、一瞬だけ湊と合った。そして、微かに眉をひそめると、すぐに視線をそらした。
瞳孔がわずかに開き、まつげが通常より早く瞬いている。
その仕草は一瞬で、他の生徒が気づくことはなかったが、湊は見逃さなかった。
(これは……期待? どうして俺に期待するような目を向けるんだ?)
湊の能力が反応した。人の微細な表情や仕草から、その本音を読み取る心理観察力。それは彼にとって、時に呪いのような、時に武器のような存在だった。
「あと、来週の模試の件ですが……」
ひなたの話が続く間、湊は窓の外を眺めていた。
五月晴れの空の下、校庭では体育の授業が行われており、赤白に分かれたクラスが熱心にサッカーの試合をしていた。藤棚の下には数人の生徒が集まり、何やら内緒話をしている。明鏡学園特有の「幻影スポット」と呼ばれる場所で、そこに集まる生徒達は皆、願い事が叶うという言い伝えを信じているようだった。
彼にとって、学校生活はただの通過点でしかなかった。目立たず、余計な関わりを持たず、平穏に過ごす――それが湊の方針だった。
チャイムが鳴り、昼休みが始まった。
教室内がざわつき始め、友達同士で昼食を共にする輪ができていく。
湊はいつものように、一人で教室の席に残っていた。弁当を広げながら、彼は周囲の会話に耳を傾けていた。別に興味があるわけではない。ただの習慣だ。
視界の端で、ひなたが友人たちと話しているのが見える。彼女は笑顔で会話に応じているが、時折視線が湊の方に向かうのを感じた。
「桐島くん」
突然、声がかかった。
振り向くと、そこにはひなたが立っていた。
「この問題の解き方、分かる?」
彼女は数学の問題集を開き、指さしていた。爪が整えられた細い指が複素数の問題を指している。その指先は微かに震えており、平静を装おうとする意図が見え透いていた。
湊は一瞬、彼女の表情を観察する。
眉が少し下がり、視線が泳ぎ、指先が微かに震えている。
そして、彼女の瞳には「期待」の色が滲んでいた。瞳孔が少し開き、まつげがわずかに早く瞬いている。
(わざわざ俺に聞くために来たのか? これ、そんな難しい問題じゃないよな。しかも朝倉は数学得意なはずだし……)
「ああ、これは……」
湊は問題を見て、説明を始めた。彼の声は穏やかで、不必要に感情を表に出さない。
「まず、この式を変形して、xについて解くんだ。それから……」
説明を聞きながら、ひなたの視線は時折、湊の横顔に釘付けになっていた。黒縁メガネの奥にある瞳、集中している時にわずかに眉間に寄る皺、説明するときの落ち着いた口調――湊が気づかないふりをしていても、彼女の視線は彼から離れなかった。
そして、彼が問題の解き方を説明し終えると、彼女はふと我に返ったように視線をそらす。
「ふーん、なんだ、そう解けばいいんだ」
彼女は無関心を装い、わざとらしく退屈そうな表情を作る。
首を少し傾げて、髪を耳にかけるしぐさは明らかに演技だった。瞼のまばたきが増え、声のトーンはわずかに高くなっている。演技の指標は全て出ていた。
「ありがとう……お礼はいらなかったかな?」
湊は内心で笑った。
(この嘘、バレバレじゃね? こんな基本問題、朝倉なら一瞬で解けるだろ。なのに、わざわざ俺に聞きに来るなんて……)
表情は変えずに、彼は答えた。
「別に、お礼なんて期待してないよ」
湊はノートを閉じながら言う。
「朝倉が分かったなら、それでいいじゃん」
「桐島くんって、本当に他人に興味ないよね」
ひなたはふと、本音が出たような言葉をこぼした。
その声には僅かな寂しさが滲んでいた。窓から差し込む光が彼女の横顔を照らし、まつげの影が頬に落ちる。
「だから私も、桐島くんになんて興味ないよ」
その言葉に、湊はちらりとひなたを見た。
彼女の耳が赤くなっている。視線は合わせようとせず、手は無意識にスカートの裾をいじっている。平静を装っているつもりだが、首筋にかすかな紅潮が広がっていた。声は少し上ずり、通常より早口になっている。
(またまた、嘘ついてるな。こんな分かりやすい反応……。興味がないどころか、明らかに俺を気にしてるだろ?)
「そうだな、お互い興味ないってことで」
湊は微笑み、わざと彼女の嘘に乗った。
ひなたは少し拗ねたような表情を見せると、席に戻っていった。背中を向けた彼女は、小さくため息をついていた。その肩がわずかに落ちている様子に、何かが引っかかるような感覚があった。