5.出会い
白音と共に京都に向かった僕は、出発してから三日後、京都に辿り着いていた。霧の門が持つ隠れ家のうちの一つを拝借して、そこに寝泊まりをする。荷物を整理した後、任務の資料を再び取り出して白音と共にそれを見た。
「どう思う、白音」
顎に手を当て、資料から目を離すことなく考え込んでいた白音に僕は尋ねた。その言葉に一瞬白音は僕を見、それから再び資料に視線を戻して口をひらく。
「おかしいですね。明らかに不自然な任務かと」
白音の言葉に僕は頷く。不自然な任務。なぜ令嬢が死ぬ結末しかないのか。ならば単に暗殺してしまえば良い。それなのに情報収集して令嬢の思惑をはっきりさせることは義務付けられていて、たとえ白だとしても殺すという内容。
「まるで令嬢が何かを企んでいるのは最初からはっきりしていて、それを対処したいと言わんばかりです」
僕は「そうだよな」と返した。令嬢が怪しい、ではない。令嬢は黒なのだろう。その謀の内容を知り、事態を収拾した上で首謀者である令嬢を殺す。この任務が意味しているのは何度考えてもそういうことだ。
「それに、この任務の内容は最終試練と呼ぶほどの難しさなのか疑問です」
「—そうなのかい?」
目を見開いた僕に白音は静かに頷く。
「確かに江戸から遠く離れた京都での任務であること、暗殺に加えて情報収集を含んでいること、標的が二条家であり接触が難しいこと、何か不自然な点があることはその通りです。でもそれだけだ。最終試練と呼ばれるに値する任務に何か明確な基準があるわけではありません。けれど綾目さまもご存知のはずだ。それは必ず暗殺という内容を含み、一人前の忍びと呼ぶに値する冷酷さが求められると」
僕をまっすぐに見る白音の瞳は、どこか、過去のものに重なって見えた。彼の夢を奪った僕に憎しみを抱いている、あの頃の目に。固い意思を持った目に。細められた目の鋭い眼光が閃いた。
「僕の時、その標的は僕自身の父だった」
冷たい声が響く。僕は白音の言葉に目を伏せる。耳の奥で、細く長く続いた幼い子供の泣き声が聞こえる。僕の服の裾を掴んで崩れ落ちるように、けれど押し殺すように悲鳴をあげた、雛菊の声が。
「綾目さまの一度目の試練の標的は誰でしたか」
静かに尋ねる白音。僕は顔をあげ、彼を見た。口を開こうとして顔が歪む。歪まないように、冷静さを装おうとすればするほど、僕の顔は歪んでいく。
「—見知らぬ少女、でも、僕の妹だった女の子だ」
当時の記憶に蓋をするように、僕は瞼を落とした。けれどそこに映ったのは、命を失って力なく腕の中で目を閉じる少女、そして彼女が自分の妹と聞いた瞬間の心臓と喉の痛みだった。
長く息を吐いた後、僕は目を開く。頭を切り替えて、白音を見る。
「なるほどね。確かに求められる冷酷さが足りない。令嬢が白であったとしても、善人を手にかけることなんて今までにもあったんだから」
「その通りです。最終試練というのはいわば初めての暗殺任務であり、身内殺しです。綾目さまは既に暗殺任務を幾度となくこなし、二度目の最終試練です。—それがこんなにも簡単なはずがありません」
「—何かまだ、裏がある。絶望と呼ぶに値する何かが…」
資料に目を落とした。一体、この任務には何が隠されているのか。僕に最終試練だとこの資料を手渡した時の長の顔がフラッシュバックする。妙に得意げな、黒い笑みだった。
資料の写真に映る、令嬢の顔。僕はそれを見つめた。写真の中で優しく微笑み、綺麗な服に身を包んだ彼女は一体何者なのか。もしかしたら、一度目の時と同じように、僕が知らなかっただけで彼女も僕の縁者なのか。
「…明日、一人で二条家に行ってみようと思う」
僕がそう言うと、白音は頷いて
「では僕は二条家や令嬢について、もう少し情報を探ります」
と言った。明日、ほんの少しでも良い。何か、少しでも分かったならば。そう願いながら僕は資料の写真を見つめていた。
◯◯◯
翌日、僕は忍び装束ではなく町人と同じ様な少し古ぼけた着物を身に纏い、街へ繰り出した。出がけに白音が
「綾目さまの着物姿は久しぶりですね。どうせなら女性物の着物を纏えば公家の令嬢に見えて接触しやすいかもしれないのに、もったいないです」
とやたらニヤニヤしながら言ってきたが聞かなかったことにした。昔のことなど忘れてしまえばいいのに、白音はよく覚えている。
京都の町へやってきたのは2度目だった。昔に1度だけ、父に連れられてやってきたことがあったがそれももう随分と昔の話で、ほとんど覚えてはいない。そのせいか、歩いて見る景色は新鮮で、二条家に向かう道すがらその様子を眺めていた。
ふと、あまじょっぱい良い香りに誘われて、その方向へと視線を向ける。そこにあったのは団子屋らしい、店の前の椅子に腰かけて、子供2人がみたらし団子を頬張っている。そんな、平和な光景に顔が緩むのを感じた。何も知らない、平和な世界。「表」の世界。それに憧れる気持ちから、僕は目をそらす。僕に彼らと並んで団子を頬張る資格は無いのだ。
「ねぇ、団子食べたいの?」
ふと、後ろから声が聞こえて僕は振り返る。最初に視界に入ったのは市女笠。そして、垂れ布の間から覗いた唇の紅だった。僕よりも身長が小さいその女は淡い桜柄の着物を身に纏う。顔こそ見えなかったが、育ちの良いどこかの令嬢だということは見て取れた。
「…いや、別にそういうわけじゃないよ」
僕がそう答えると、彼女の市女笠が横に傾いた。首を傾げたらしい。
「あら、でもさっきまであんなに物欲しそうな顔をしてたじゃない。いいなぁって顔に書いてありましたから」
そう答えた彼女に心臓が跳ねたのを感じる。顔が緩んだとは思ったが、そんなに表情に出ていただろうか。欲しかったのは団子ではなく平穏だったが、それでも物欲しそうに見えたのだろうか。
戸惑う僕に彼女の唇は弧を描き、笑みを浮かべた。
「私、感情の機微を読み取るのが得意なのよ」
その言葉に僕はまたドキリとする。心の中を見透かされているようでどこか恐ろしいとさえ思う。目の前にいる彼女の笑顔とその物言いが白音に重なって見えたのは気のせいだろうが、そこに共通点を感じたのは確かだった。白音もまた、人の感情を読み取るのが得意だったからだ。
彼女は僕の手を取った。小さな手が控えめな力で僕を掴む。え、と短く困惑の声を上げた僕を他所に彼女は僕の手を引いて団子屋へと足を進めた。
「おばちゃん、団子2つね!」
慣れたようにそう叫ぶ彼女。店の奥で団子を焼いていた女もそれに笑って「あいよ」と答える。
店の中に入り、椅子に腰かけたところで彼女はようやく僕の手を離した。
「ごめんなさいね、強引に連れてきて。でも安心して、私の奢りだから」
脚をプラプラと遊ばせながら彼女は僕の顔を覗き込むようにして笑った。屋内だと言うのに市女笠を被ったまま。
「ここは屋内だ。団子だって食べにくい。…市女笠、外さないのかい?」
僕の言葉に彼女は自分の頭に乗る市女笠に軽く触れた。屋内でもかぶったままの市女笠。高貴な女性であれば顔を見られることを嫌がりそうするかもしれないが、彼女の行動を踏まえるとそうは思えなかった。
上等な着物、市女笠、佇まい。どれをとっても公家の令嬢と判断するに十分な根拠だ。けれど、一方で彼女はただの街の団子屋に意気揚々と足を向け、見ず知らずの僕に奢ると言う。椅子に腰かけた足はぷらつかせる。妙に不釣り合いな不用心さと品のなさだった。
彼女はきっと、夫でもない男に顔を見られたくないという、公家の令嬢の伝統的な考え方には囚われない。だから市女笠を取る事に抵抗はない。もしも、他に何も理由がなければ、の話だが。
「あー、これ?着けたままだと気になるかしら」
「…いや、別に。ただ君がそのままだと過ごしにくいだろうと思っただけさ」
「そう、なら申し訳ないけれどこのままにするわ。私、顔に大きな傷があってあまり見てくれが良くないから」
あっけらかんと言ってのけた彼女に、僕は何も言わなかった。顔に大きな傷があるというのは令嬢にとってみれば屈辱だろう。そこに、身分云々は関係ない。だからこそ思う。普通、知られたくなくて隠している事実をわざと口にするだろうか、と。突っ込みにくい理由をあげることで市女笠を取らなくてはならない状況を避けるための嘘ではないか、と。
彼女は言った。感情の機微に敏感だと。ならば彼女は分かるはずだ。どういう言葉をどういう調子で紡げば人の顔色がどう変わるのか。
ー確証は、何も無い。何も無いが、僕は思う。きっと、彼女は嘘をついている。顔を見られたくない理由が何かあるのだ。
「はいよ、お待ちどおさま。団子二つね」
快活な声が響き、団子屋の女将が僕らの間に団子二つを差し出した。
「おばちゃんありがとー!」
彼女もまた、明るい声を出しそれを受け取る。空いた女将の手には彼女が金銭を乗せた。その様子は慣れたもので、値段を尋ねた訳でもないのにお釣りは無かった。おそらく彼女はここの常連だということを感じさせる。彼女は団子を1つ僕に差し向け、市女笠の下、唇が弧を描く。
「さ、冷めないうちに食べちゃおう!ここのお団子、美味しいんだから!」
僕は渡された団子を手に持ち、それを見つめた。琥珀に輝くみたらしが美味しそうな香りを漂わせ、僕の空腹を刺激する。彼女を見た。彼女は団子を口にして、口元へと手をあてがいながら嬉しそうに頬を緩める。
僕の視線に気がついた彼女が、こちらを見た。
「どうしたの?食べないの?」
美味しいのに、と少し残念そうにする彼女に僕は肩を竦めた。
「お金を払っていなのに食べられないよ。これは君が食べたら良い」
そう言って僕は団子を彼女の方へと差し向ける。彼女はそれを渋々受けとった。
お金を払っていないからとか、そんなことは本当はどうでも良かったが、幼い頃からの習慣で知らない人の作ったものを食べるのは憚られた。忍びは恨みを買いやすい。どこかで毒を盛られても不思議じゃないし、そうでなくても食あたりか何かを起こせば任務に支障が出る。だから僕は、食べられない。
「ねぇ、そういえば名前、聞いてなかったわ」
僕が渡した団子を手でクルクルと回しながら見つめる彼女は不意にそう言った。本来ならばたとえ偽名であったとしても顔と名前が一致されることは任務の支障になるため避けなくてはならないが、今回の場合、彼女は恐らくどこかの令嬢だった。そこから二条家の情報を引き出せる可能性を考えると、名前を名乗り関係を持つことは悪いことではなかった。少し考えて、僕は口を開いた。
開いたら、口に何かを突っ込まれた。
僕はわけも分からず、目を丸くする。市女笠の彼女は楽しそうに笑った。舌に乗ったあたまじょっぱい風味。美味しい。
「ね、ほら、美味しいでしょう?」
イタズラな笑みを浮かべてからかうように言った彼女が僕の口に突っ込んだのはみたらし団子だった。僕が返した、みたらし団子。僕が団子を一つ口に含むと、彼女は残りを僕に渡してしまった。僕は驚きに声が出なかった。彼女のあまりに奇想天外な行動に。初めて食べた、みたらし団子の味に。
「…美味しい」
ぽつりと零すように言ってしまった言葉に、彼女は嬉しそうに笑う。市女笠に隠れた目が優しくこちらを見ているような気がした。それに僕は少し恨めしくなる。
「名前を聞きたかったんじゃないのかい」
彼女は僕の声に悪びれもせずに頷いた。
「えぇもちろん。名前を聞きたいわ」
「でも君は僕の口に団子を入れたじゃないか」
「この味を知らないなんて人生損してるわよ」
ああ言えばこう言う。僕は何かを持っていかれたような気分になり、げっそりとした。感情の機微に敏感だと言う彼女と言い合っても勝てる気はしなかった。
諦めたと分かったのだろう、彼女は笑みを深めて「それで?」と続けた。
「あなたの名前は?」
ぶれない彼女に僕は苦笑する。奇想天外。自由気まま。けれど、一緒にいて悪い気はしない。
「僕の名前は綾瀬。君は?」
咄嗟に思いついた偽名を口にした。白音が聞いたら額に手を当てながら呆れた表情を浮かべそうな出来栄えだった。僕の答えに彼女は「綾瀬」と口の中で音を転がし、それに嬉しそうに笑った。
「綾瀬、ね。よろしく。私の名前は杏。杏よ」
ー杏
告げられた名前に、感情が表に出ないように細心の注意を払って笑顔を浮かべた。ただ名前を知ったことを喜ぶだけの笑顔を作る。
彼女の「杏」という名前が本名かどうか、推し量りながら。
彼女は顔を隠した。見られたくなかったからだ。もしもその理由が素性を知られたくないというものだったとすれば、一般人に扮した僕にさえ素性を知られたくないほどの何かがあるということになる。そんな彼女が、本名を名乗るだろうか?
ー名乗らない、だろうな。
密かに頭をよぎる、ある可能性。彼女が二条家の令嬢であるのではないか。あまりにも都合が良すぎる、半ば願望とさえ言えてしまう想像。顔隠し、偽名を名乗る。それだけでは根拠がない。それに、仮に彼女が本当に二条家の令嬢だったとすれば1人で街を歩き、知らない男に話しかけるのは不用心すぎる。彼女が知っているのかは知らないが、命を狙われているのだ。
「杏、団子ありがとう。美味しかった」
食べきった串を見せながらそう言うと、彼女はまた笑う。
「ほんとに。あんなに拒んでいたのに食べてしまったんだからよっぽど気に入ったのね」
正直その通りだったが、なんとなく認めるのは癪で僕は肩を竦めた。
「じゃあまた奢ってくれるかい?」
また会おう、という誘い文句だった。この団子屋でまたいつか。
彼女はそれに頷いた。
「良いわよ。私の話し相手になってくれるのならいくらでも奢るわ」
○○○
その夜、隠れ家に戻ると白音も既に帰宅していたらしく、晩御飯を用意して待っていた。
「おかえり、綾目さま。二条家はどうだった?」
部屋の中、夕食の名である鮭を並べながら白音は尋ねる。それに僕は肩を竦めた。
「あれは無理だね、中に忍び込むのは相当な難易度だ。想像してた通り見回りが多くいたし、塀も高くて分厚い。忍び込むのは出来なくはないが、やりたくないな」
白音が用意してくれた料理が乗る座卓の前に僕は腰を下ろす。それを見て、ちょうど用意も終わったのか、白音も僕と向かいあわせに座った。
「なるほどね、他には?」
「他…他、かぁ…」
白音の問に僕は遠い目をする。他にあったことといえば、二条家の偵察に行く前に出会った杏のこと。団子が美味しかったことくらいだ。杏が二条家の令嬢であるのではないか。頭をよぎった根拠薄弱な推測を白音に話すか迷った。
「ーいや、何も無いな。白音の方は?何か二条家や令嬢について分かったことはあったかい?」
そして、僕は彼女のことを白音には話さなかった。白音は僕の様子に片目を僅かに細めたような気がしたが、それ以上何かを聞いてくることは無い。さすが、と言うべきか。杏と同じく感情の機微に敏感な白音。けれど、杏はそこに容赦なく突っ込み、白音はあえて尋ねることは無い。
白音は何事も無かったかのように話を始めた。
「分かったことは多くないのですが、町の人の印象は概ね資料にあったとおりでした。高貴な家柄の娘で、優しく美しいという噂です。まぁ、町人の彼らは実際に彼女を目にしたことは無いでしょうけど」
それから、と白音は続けた。
「調査中に噂好きのおば様に会いまして」
「おば様」
普段聞きなれない白音の言葉遣いに僕は目を丸くする。白音はそれに若干機嫌を損ねたようだったが、変わらずに話を続けた。
「その女性はいわゆる成り上がりのようで、商売で大儲けして最近社交界に参加するようになったようでした。さすがに公家の人達に接触することはありませんでしたけど、お陰で少しだけ分かったことがあります」
「おば様」の指摘がよほど気に食わなかったらしい。白音は少しだけ声を張って「女性」という言葉を強調する。僕はそれに苦笑いした。
白音は少し得意げな笑みを浮かべて僕を見る。
「資料に載っていなかった二条家の令嬢の名前、それから令嬢が行っているという慈善事業の内容が分かりました」
白音の声に僕は思わず体を揺らした。僕の反応に、また白音が訝しむ様な目を向ける。
「…慈善事業?」
僕が誤魔化すようにそう言うと、白音はため息をついて口を開いた。
「なんでも、数年前に流行った疫病で親を失った子供たちに経済的な支援をしている、とか。まぁ、僕が話を聞いた女性も噂で聞いたようで、令嬢が直接その話をしたことはないそうですから信ぴょう性は分かりかねますけど」
その話に僕は首を傾げる。
「…良い話、だな?」
「えぇ、良い話です」
白音もまた頷く。良い話、だ。悪い話、ではなく。
「僕はその慈善事業が令嬢の企みなのではないかと思ったんですが、仮にそうだったとすればこのことはもはや公然の事実。それに、こんな良い話を聞いて恨みを持つ人がいるとは思えません」
白音の主張に僕も同意した。彼女のその話が本当ならば、どこかで救われる人がいる。家の名は上がり、彼女自身の評判も上がる。けれど、どこかにどうしても令嬢を殺したい人がいる。悪人のために善人を殺すことは何度もしてきたが、その場合で言う「善人」は「悪と対峙する」という意味での善人だ。令嬢のような善人を疎んでの殺害というのは経験がない。
つまり、この慈善事業は任務の内容である企みとは違っているということになる。
「それから、令嬢の名前ですが」
考え込む僕に白音は口を開いた。「名前」という言葉に、また僕は思わず反応してしまう。白音を見ると呆れたような視線が向けられていた。それでも仕方がないと言わんばかりに首を振り、ため息を落として口を開く。
「紅、というそうです」
僕はそれにほんの少し目を見開く。心臓がどきりとした。紅。杏、ではない。
予想が外れたことに驚きながらも、彼女が言った名前は偽名だろうということを思い出す。
杏ではない。けれど、杏かもしれない。
どうしてか、ずっと杏のことが頭をよぎる。根拠はない。そう言いながらも自分の中ではもう、決めつけてかかっている。
杏は、二条家の令嬢かもしれない。
名前を聞いてもなお、僕はそう思ってしまった。