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幕間2.雛菊(後編)

  「顔合わせ」というのがどのようなものかなんて僕は知らない。知らないけれど、おそらく僕らの顔合わせはひどいものだったのだろう。交わした言葉は少なく、別れの言葉もなく。本当に簡単な自己紹介をして顔と名前を一致させただけだった。


 僕と綾目さまは主従関係だ。綾目さまは僕の主人であり、本来ならば顔合わせを済ませた後、綾目さまに付き従うことになる。僕はすっかりやる気をなくしていたが、綾目さまに毎日会いに行っていた。それが僕に与えられた忍びとしての役割だったからだ。けれど綾目さまはまるで僕を避けているかのようだった。毎日やってくる僕を見ては困ったように笑い、綾目さまの後を着いて歩けば「着いて来なくても構わない」と言う。手伝うことは何かあるかと言えば「何もしなくて構わない」と言った。


「僕はあなたに何かしてしまいましたか」


 ある日、自室で静かに書物を読んでいた綾目さまに僕はそう尋ねてみた。綾目さまは僕の言葉に書物から顔を上げ、障子のそばで控えている僕を見た。


「急にどうしたんだい?」


 手にしていた書物を閉じ、綾目さまは僕に向き合って座る。柔らかく微笑んだ綾目さまに僕は目を逸らした。


「—綾目さまは僕を避けていらっしゃるように思います」


「避ける?僕が、雛菊をかい?」


 綾目さまは驚いたような声を上げた。僕は膝の上に乗せた拳を握りしめる。


「あなたはいつも僕を見て困ったように笑いますよね。僕があなたに着いていくことも、あなたのために何かをすることもしなくて良いとおっしゃいますよね。あなたは僕に関わりたくないんじゃないですか」


「それは—」


 綾目さまが何かを言いかけて、やめた。不自然に途切れた言葉尻が妙な沈黙を僕らの間に落とす。僕は唇を噛んだ。やった。やってしまった。そう、後悔する。綾目さまは僕の主人だ。逆らうなど、不満を言うなど、あってはならなかったのに。


 しばらくして、綾目さまは口を開いた。


「…ずっと、聞こうと思っていたのに、聞けなかったことがあるんだ。雛菊、君はずっと、霧の門の長になりたかったんじゃあないのかい」


 紡がれた言葉に、僕は反射的に顔を上げる。綾目さまの目は真っ直ぐにこちらを見ていて、まるで隠された本音を暴くかのように光る。目の前にいる少年は綾目さまなのか。そう、疑いたくなった。嘘のように固い決意を孕んだ表情に僕は思わずたじろいだ。


「…どうして、それを知っているんですか」


 この人に隠し事は通じない。直感でそう思った。そうなると僕が懸命に仕舞い込んでいた思いというのはあっけなく外へこぼれ出す。歪んだ唇が、開いた喉が、きつく絞られるように痛む心臓が、僕の黒く重い感情を外へと誘う。


「そうですよ、僕はずっと、自分が霧の門の長になると思っていたし、そうなりたかった。努力をして、才能を磨いて、周囲にも天才だと言われて…それなのに、『血』というだけの理由で僕はあなたに夢を取り上げられたんです」


「…うん」


「それが僕にとってどれだけ苦しいことだったか分かりますか…?夢を取り上げられる気持ちが。才能や努力や人望が、『血』だなんて訳のわからないものの下に否定されたあの瞬間の絶望が。それなのに、僕は夢を奪ったあなたのために尽くさなくてはならないんです」


「それが長の命令だから、かい?」


 控えめに聞かれた問いに僕は頷いた。


「そうですよ、綾目さまだって知っているでしょう?長の命令には絶対服従だと。そこに僕の意思はありません。僕は僕自身を殺すしかない」


 ねぇ、綾目さま。僕はそう呟いた。綾目さまは僕から目を逸らさない。今まではさりげなく逸らされていたのに。僕はこの人の瞳の奥を、こんなにきちんと覗いたことがあっただろうか。決して全てではなかったが、それでも吐き出すことのできた僕の黒い感情。そのおかげか、僕は少しずつ冷静さを取り戻していた。


「僕も聞きたいことがあります。—綾目さまは霧の門の長になりたいのですか」


 綾目さまは目をふせ、自分の手を見つめた。閉じて、開かれたその手を見て、一度目を閉じ、やがて開く。そうして再び真っ直ぐに僕を見る。その目に、迷いはなかった。


「そのつもりは無い。—僕は霧の門の長になりたくない」


 はっきりと告げたその声も、迷いを孕んでいないしっかりとした声だった。その言葉に僕は動じなかった。薄々、そうでは無いかと思っていたからだ。綾目さまも僕が勘づいていることに気がついていたのだろう。「いつから気が付いていたんだい?」と諦めたように笑って尋ねた。


「最初からです。綾目さまはいつも自信がなさそうで、悲しそうに笑うばかりでした。それに、綾目さまは父上を異様に恐れていらっしゃる。そんなあなたに長が務まるはずがないと思いました。—あなた自身にその意思がないということも。」


「そうかい。…雛菊、君はやっぱりすごい。天才だよ。人の感情を読み取るのに長けている」


 悔しそうに笑う綾目さまに僕は胸が苦しくなる。すごい。天才。綾目さまはいつもすぐに人を褒める。僕を認める。いくら彼が認めても、僕の夢は叶うことはない。彼は優しい、けれど残酷だ。


「もっと言いましょうか。—綾目さまはそもそも忍びになりたくないんじゃあないですか」


 僕がそう言った時、わずかに肌がピリついた。思わず体をこわばらせ、懐のクナイを取り出そうと手が動く。けれど実際に取り出すことはなかった。放たれた殺気はすぐに霧散し、僕の緊張が解けたからだ。


「…ごめん」


 ため息と共にそう告げた綾目さまに僕は「いえ」と半ば放心状態で答えた。何だったんだ、今の殺気は。綾目さまは長いため息をつき、それから顔を上げた。無表情だった。


「そうだよ、僕はこの家が嫌いだ。忍びが嫌いだ。—全部、無くなれば良いとさえ思っている」


「…」


「で、雛菊はどうする?僕は将来霧の門を滅ぼすかもしれない、いわゆる叛逆の芽だ。もし君が僕の叛逆の意思を裏付ける証拠を手に入れて長に伝えることができたなら、君は賞賛されるだろう。君の夢を潰した僕は処刑され、君は屈辱を味わうこともなく、ひょっとすると長の座に着く挑戦権が得られるかもしれない。—君は僕を殺すかい?」


 淡々と他人事のように、何の感情も乗せずに語られる言葉に僕は目を見開く。綾目さまはただ僕を見る。無表情のまま、静かな殺気を放って。


 僕は、誤解していた。


 その事実に今、ようやく気が付いた。綾目さまは決して弱くはない。僕と同じだった。忍びたる者。そう、幼い頃から言われ続けたことで自分の中にある「あってはならない感情」を押し殺し続けてきた、自分で自分を殺すしかなかった人間だ。


 綾目さまが僕を避けた理由も、もはや明確だった。僕は長の座を望み、彼はその座を疎んでいた。夢を潰された僕への申し訳なさや優しさ、負い目ではない。僕と彼では根本で考え方が違っていたのだ。故に彼は僕を避けた。いや、僕を蔑み、憐れんだのだ。己が最も憎む椅子に座ろうと必死になる僕が馬鹿らしくて、それでいてその馬鹿らしさに気がつかない僕が滑稽だったのだろう。


「もう一つ、聞いても良いですか」


 震える声でそう尋ねた。自分が目の前の女のような少年を恐れているのだと、嫌でも分かった。綾目さまは何も答えなかったが、僕は口を開いた。


「綾目さまはなぜ、忍びを憎むんですか」


 綾目さまの表情がほんのわずかに動いた。僕は目を逸らさない。ここで逸らして仕舞えば、一生後悔するような気がしたからだ。綾目さまはしばらくして、ゆっくりと口を開いた。


「—間違っているから」


 綾目さまはわずかに目を伏せた。僕はその言葉をおうむ返しのように口の中で転がす。


「人を殺すのは善かい?相手がもし善人だったら?たとえ悪人だったとしても誰かの命を奪ってお金を稼ぐのは正しいと思うかい?僕らにとっての善悪は、僕らの長が決めたものだ。僕らの長にとっての善悪は己の利益になるか否かだ。それは私利私欲としか言えない」


 僕らはみんな、腐って汚れている。そう呟く綾目さまの言葉は、分かるようで分からなかった。それは今まで刷り込むように何度も何度も告げられてきた言葉や価値観、正義が崩れ去るものだったからだ。


 困惑する僕に綾目さまが表情を緩めた。


「なんてね。どう?作り話としては面白かったでしょう」


 先ほどまでの息苦しさが霧散する。にこりと穏やかに笑って見せた綾目さまに、僕は笑みを返せなかった。


 作り話?いや、あれは間違いなく綾目さまの本音だった。


 僕は唾を飲む。そして握った拳に力を込めた。心臓が早鐘を打つ。体が、震えた。


「—僕は綾目さまを殺しませんよ」


 僕の言葉に、綾目さまは目を瞬かせる。僕は震えた声でそのまま言葉を紡いだ。


「綾目さまが作り話だというのならそれで構いません。正直、僕にはまだ何が正しいのか分からないけれど、でも、僕は綾目さまを信じてみようと思います」


 綾目さまは何かを探るように僕を見た。僕は目を逸らさない。僕は、綾目さまの補佐だ。綾目さまは僕の主人だ。これはもう、長の命令なんて関係なかった。僕は僕の意思で、綾目さまに仕える。信じてみるというのは、そういう意味だ。


 綾目さまは目をふせ、困ったように、少し嬉しそうに笑った。


「そう、じゃあ僕は君に本当は何が正しいのか教えないとね。君が人生を賭けて信じるに値する人間になるよ」


 雛菊、これからよろしく。そう告げた綾目さまに僕はようやく力が抜けた。長いため息をついた僕に綾目さまは苦笑する。


「無理をさせてすまなかったね」


 そう言って笑う綾目さまに僕は「まったくですよ」と返した。


「でも綾目さま、あんまり悪いと思ってないですよね」


「え、そんなことは…」


「僕は人の感情を読み取るのが上手な天才ですから。綾目さまがそう言ったんですよ」


 仕返しのつもりでそう言った。綾目さまが「しまった」と言わんばかりの顔をする。前のようなよく分からない儚げな表情よりも、今の方がずっと良い。感情を表に出す難しさを僕は知っている。だから不思議だった。綾目さまといると、今では少し、息が楽になったことが。自分でも驚くくらい、表情筋が動いていることが。


「ねぇ、綾目さま。そんな天才があなたの右腕になるんです。上手く使ってくださいね」


 これが僕と綾目さまの始まりの話。雛菊と呼ばれていた僕は、15歳の時に最終試練を突破して名前を授かることになる。「白音」という名前を。


 —僕が僕自身の父を手にかけることによって。


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