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幕間1.雛菊(前編)

「綾目さまのためならばどこまでも」


 障子の向こうの西陽が消え、顔に暗く影を落とした主人を前に僕は深く礼をしてそう告げた。この言葉に一片も嘘偽りはない。僕はどこまでだってついて行く。その行き先が京都でも、異国でも。たとえ地獄であったとしても—


 ◯◯◯


 物心ついた頃には忍びとして一流になるための教育を受けていた。


 当たり前のように手裏剣やクナイなどの忍び道具を使いこなし、諜報の真似事をする。聞き耳を立てることは悪いことではなく、むしろ褒められることだった。足音という概念さえ忘れてしまいそうになる程、幼い頃から音を立てずに歩くことは当たり前になっていて、誰にも悟られずに動くことは何よりも得意だった。幼少の頃から将来を期待され、「天才」と呼ばれるくらいには。だから僕は信じて疑うことはなかった。きっと僕は将来、一流の忍びになるのだと。霧の門で一番の忍びになって、僕がこの家をまとめるのだと。


 けれどそんなことはあり得ないのだと知るまで、そう時間はかからなかった。


「雛菊、お前が霧の門の長になることは絶対にない」


 物の分別がつく年になったからだろうか。現実を見るべき年だと判断されたからであろうか。10歳になった時、父が僕にはっきりとそう告げた。言葉数少ない父が僕に何かを言葉という形で伝えることはあまり多くなく、それだけにその言葉は真実味を帯びていて重かった。告げられたその言葉が異国の言葉のように聞こえて、何を意味しているのか、ほんの数秒の間思考が止まる。


「どういう、意味です…?」


 引き攣った口元は奇妙に笑みを描いていた。衝撃に呆気に取られた僕はその一言を告げるだけで精一杯だった。


 絶対にない?何が?僕が霧の門の長になることが?なぜ—…


 頭の中はその疑問だけで埋め尽くされる。思考がぐるぐると同じところを回りだす。父は困惑する僕をよそに、表情を何一つ変えないまま言葉を続けた。


「お前にはまだ話していなかったが、この家では決まり事がある。忍びの掟だ。破ることは許されない。」


「決まり事…」


「その一つに定められているんだ。長は()()の中で最も優れた忍びが選ばれる。—私たちは霧の門の忍びだが、本家ではない」


 父の言葉を聞きながら、僕はガラガラと何かが崩れる音を聞いた。—目の前に当たり前に続いていると思っていた道が、激しく崩れ去っていく音だ。


「…本家って、なんですか。それは才能よりも、努力よりも…人望よりも大切な物なんですか」


 呆然としたまま、僕はつぶやくように言葉を落とした。急に体の力が全部抜けるような気がした。唇が震えて、目から何かが溢れそうな気がした。けれど、それが素直に表へと出てくることはなかった。父はそんな僕を見て、容赦無く、はっきりと言葉を紡ぐ。


「本家とは霧の門創始者の血を受け継ぐ者の事だ。霧の門の忍びを『一族』というがそれは血縁関係のつながりを指しているのではない。霧の門の忍びは、大昔に門下に降った忍びも含んでいる。才能、努力、人望が無意味だとは言わない。だが、忍びにとって長というのは絶対の存在であり、唯一服従を誓う相手だ。—『血』だよ、雛菊」


 血。たった、一音で紡がれるその言葉。たった一音で僕の思い描いていた未来は取り上げられた。僕は誰かの上に立つ人間ではない。僕は、誰かに服従を誓う人間だった。


 当時その意味をはっきりとは理解していなかったが、今思い返してみれば幼いながらに絶望を感じていたのは明白だった。詳しいことは何一つ分からなくとも、ただ一つ、夢は絶対に叶わないのだということだけは理解していたのだから。けれど本当の絶望はここからだった。


 父の言葉に項垂れるように視線を落とした僕。そこに父は追い打ちをかけるように変わらぬ声音で告げた。


「だが雛菊、お前には全く無縁の話というわけでもない。お前の評判を耳にした長が、次代の長候補の一人に仕えることを命じられた。—つまりお前が仕えたその相手が長に任命されることになれば、お前は長には成れずとも長の右腕として最も信頼の置かれる忍びになれる。霧の門、二番目の忍びだ」


 おめでとう、と父が言う。僕はまた、呆然とした。頭にもはや疑問すら浮かぶことはなく、ただそこには虚無が広がった。何がおめでたいのだろう。僕は夢を砕かれた。それなのに、僕が夢見た椅子に僕が仕えた相手が座るのをただ見ていなくてはならない。支えなくてはならない。僕は二番目の椅子が欲しかったのではない。欲しかったのは、一番の椅子だ。


 そう主張したかった。心の中で、幼い僕が必死に叫んでいた。けれど、どうしてもそれは表に出てこなくて。どうしても、感情がうまく表現できなくて。


「—ありがとうございます、父上。勿体無い、提案です」


 ただ、感情を押し殺してそう言った。父は満足げに小さく頷き、僕を一人残して部屋を去る。


 忍びたるもの、何も考えずただ任務に忠実であれ。冷静に振る舞い、感情を表に出してはならない。冷酷であれ。


 そう、言い聞かされ続けた僕にはもう、己の気持ちさえも満足にはわかっていなかった。ただ、絶望。けれどそれは許されない感情。僕は拳を握る。それをどこかへ振り上げたり振り下ろしたりすることもできず、ただただ、固く、固く握った。


 ◯◯◯


 それからしばらくしたある日、僕は僕が仕えるという本家の人間に会うことになった。父に連れられ、初めて踏み入れる本家の門の向こう側。今まで霧の里に本家の門というものが存在していることすら知らなかった。おそらく、仲間内での暗殺により本家の血が途絶えることを防ぐためだろう。本家の門の向こう側には、僕が暮らす屋敷よりもずっと大きな屋敷が立ち並び、はるかに豪華な庭が広がっていた。僕はそれに息を呑み、自分が暮らしていた世界の小ささを思い知った。


「雛菊」


 本家の景色に目を奪われ、呆けていた僕に父が声をかけた。僕はそれにハッとして、父の方へと目を向ける。父は相変わらずの無愛想な顔のまま、真っ直ぐにある方向へと腕を伸ばした。その腕の先で、真っ直ぐに伸びた指。その先をなぞるように僕は目を動かす。


 そこにあったのは大きな池だった。中心に浮島があり、そこに向かって朱塗りの小さな橋がかけられている。橋のそばには立派な松の木が生えており、その松の下、橋の上で池を見つめる少年がいた。僕が纏っているような黒一色の忍び装束ではなく、まるで貴族の娘のような華やかな着物を纏った少年が、佇んでいた。


 遠目でもわかるほどの鼻筋が通った綺麗な顔立ちに、憂いを含んだような、どこか儚げな瞳。身に纏う着物も相まって、ここが霧の里でさえなければどこかの公家の令嬢のようにさえ見えた。美しい、しかし、今にも消えそうなどこか危うい雰囲気の少年。彼の周囲だけ時間がゆっくりと流れているような、そんな錯覚を起こさせる。目が、吸い寄せられる。


「あれがお前がお仕えする綾目さまだ」


 父の声が遠くに聞こえた。綾目さま、彼の名前は綾目というのか。どこか他人事にそんなことを考える。彼を見ているとそれまで抱いていた黒いモヤモヤとした感情が一気に霧散していく。本家の人間で、僕の夢を奪った張本人で。憎くて仕方ない相手で、今日何か一言嫌味でも言ってやろうかと思っていたのに、どうしてかそんな気は全く起こらない。


 僕から夢を奪い、豊かな暮らしをして、血に恵まれて。大層、嫌なやつだと思っていた。醜いやつだと。顔を見るだけで怒りが湧いてくるんじゃないかと。まさか、こんなに美しい人間だとは、思っていなかった。


 見た目に吸い寄せられ、絆されそうになった頭を左右に振る。違うだろう、問題は見た目じゃなくて中身だ。それに、あいつは僕から夢を奪ったんだ。憎むべき相手なのだ。それでも尽くさなければならないのだ、僕は。だからせめて、どうか。どうか—


 どうか、憎むに値する人間であってくれと、そう願わずにはいられない。


 心臓がギュッと掴まれたように苦しくなって、思わず顔を顰めた。その時、橋の上の少年がこちらを見た。ハッとしたような、驚いたような顔をした。その表情の幼さのせいか、先ほどまでのどこか儚げな印象が消え失せる。


「綾目…さま…」


 呟くように、確かめるように口の中で音を転がした。綾目さま。僕の夢を奪った憎い相手。けれど僕がこの先一生をかけて尽くす相手。彼の瞳が、真っ直ぐに僕の瞳を射抜いていた。


 そうしてしばらくの間、僕は綾目さまを呆然と見つめていた。それは長い時間だったようで、どこか短かった気がする。父が僕の背中をそっと前へ押し、「綾目さまにご挨拶を」と言うまで僕の思考は絡まったままだった。僕は押された背中の感触をそのままにゆっくりと橋の方へと歩みを進めた。近づいていけば行くほど、その容姿は鮮明に見えてくる。美しい衣の柄が、繊細に映る。


 僕が橋の袂にたどり着いた時、綾目さまは変わらず橋の上に佇んだままこちらを見て少し困ったように笑った。


「こんにちは」


 一言、告げられた言葉に僕はまたも思考が止まる。こんにちは…?今、僕は挨拶をされたのか。


 僕は戸惑いながらも慌てて「こんにちは」と返す。音が喉に張り付いて、声は少し掠れていた。綾目さまは僕の返事に微笑んだ。この家で生まれ育って、あまり見たことのない類の笑顔だった。それだけに、目の前にいる少年が一体どんな感情を抱いて僕に向き合っているのか、全くわからなかった。僕は拳を握り締め、心の奥底で渦巻いている黒い何かを表に出さないよう、必死に顔の筋肉を固定して礼をした。


「—お初にお目にかかります。雛菊です。綾目さまの補佐をするよう、長から仰せつかっています。どうぞよろしくお願い致します」


 僕は前から考えていた言葉を並べる。そこに感情はなかった。僕が目の前の少年に仕えることは決定事項であり、僕の悔しさも、憎しみも、嫉妬心も、何ら一つ問題になり得ないからだ。僕は綾目さまに忠実でなくてはならない。綾目さまを優先し、彼の力にならなくてはならない。なぜなら忍びは長に絶対服従であり、僕は彼を長にしなくてはならないからだ。それが、補佐の仕事だからだ。幼い頃から言い聞かされ続けてきたじゃあないか。忍びは何も考えない。僕の意思には意味がなく、余計な考えは身を滅ぼすだけだ。納得がいかなくても、僕は僕を殺すしかないのだ。


 礼を終え、顔を上げる。綾目さまは僕を見て、眉を寄せて悲しげに微笑んだ。消え入りそうな雰囲気に違和感を覚えながら僕は首を少し傾げた。


「雛菊、君の噂は聞いているよ。何でも才能に溢れる有望な若者だとか。—そんな君が僕の右腕になってくれるのなら、僕は幸せ者だな」


 幸せ者。そう言葉を紡ぐ彼の顔は、とても幸せそうには見えなかった。むしろ、そこにあったのは悲しみと落胆。少なくとも僕にはそう見えたのだ。


「…もったいないお言葉です」


 そう返事をすると、綾目さまはまた静かに笑う。どこか儚い、悲しみを纏った笑顔。僕はそれに何かを言おうとして、口を開きかけたが、自分でも何を言いたかったのかわからず閉じる。綾目さまは僕を見て、それからまた池の表面へと視線を戻した。お互いに何も言わず、目も合わせず。微妙で、けれどどこか落ち着くような変な空気感。


「綾目」


 不意に響いた男の声に、綾目さまはわずかに体をこわばらせ、それから視線を声の方へと向けた。綾目さまの視線を追うように僕も視線を向けると、そこには僕の父と同い年くらいの男が立っていた。男は池の側にある屋敷の縁側に立ち、腕を組みながらどこか不満げな表情でこちらを睨んでいる。


「—父上」


 綾目さまが紡いだ言葉に、僕は思わず綾目さまを見た。その声が震えて聞こえたからだ。綾目さまの顔色は先ほどとは嘘のように青くなり、その目は何かを恐れているようだった。僕は、それにひどく心をかき乱された。押さえ込んだ黒い感情が喉を這い上がってくる。迫り上がるような胸の不快感と心臓の悲鳴に、僕は反射的に口を両手で押さえて俯いた。


 ふらりと綾目さまが動く気配がした。それは僕の横をすり抜け、背後の男の方へと進んでいく。まるで、幽霊のようなおぼつかない足取り。


 綾目さまはそのまま去っていった。綾目さまが「父上」と呼んだ男の気配も消えている。父が「雛菊」と呼ぶ声がした。けれど僕は動けなかった。足の力が抜けていた。それでも逆に手は強く口を押さえていた。


 —駄目だ


 僕はそう、静かに悟った。誰に言われるでもなく、自然に悟る。真っ白な頭の中に、その3文字だけははっきりと浮かび上がっていた。


 駄目だ。綾目さまは決して、長にはなれない。あれは、人の上に立つ器ではない。


 己の父をなぜあそこまで恐れるのだろう。どうして笑う顔に覇気がないのだろう。自信なさげなあの笑みは何を表していたのだろう。何もわからなかったが、僕は絶望していた。僕の人生は、何のために—…


 口を必死に押さえていた。言葉がこぼれないように。喉元まで競り上がってきた黒い感情が外へと溢れないように。僕の叫びが、空気を震わせないように。


 その日、僕が綾目さまに抱いたのは憎しみではなかった。ただ、失望だけが募っていた。


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