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4.葛藤

 二条家。京都にある有力な公家の一族。それは、江戸に住む者であっても知らない人はおそらくいないだろうと思えるほどの名家である。古くは皇族に由来するとかしないとか、そんな噂が飛び交うこともあり、高貴な家として格式も高い。そんな二条家には一人の娘がいた。


 令嬢はいわゆる社交界の花であるらしい。気さくで優しく、家柄が良く、おまけに見目が良い。流行にも敏感であるが決して悪戯に飾り立てることはなく、シンプルでありながらも美しいその佇まいに憧れる令嬢は多い。常に噂の尽きない、けれどもまるで意図したかのように悪い噂が一切表に出てこない令嬢。果たして彼女は噂通りに清い人物であるのか、それとも何か闇を抱えた詐欺師なのか。


 最終試練と言って渡された標的の資料を自室でぼんやりと眺めながら、僕はため息をついた。どうか後者であってくれと強く願いながらそんな自分を笑う。僕は結局卑怯者なのだろう。良い人間を殺したくはないし、自分の手は極力汚したくない。汚すのならばそれは悪を成敗する時であってほしい。そしてその善悪は僕にとっての、という意味を持っている。僕は僕の大切な人が一番大切で、いつもどこかに優先順位を持っている。僕は、僕が嫌悪する側の人間だ。


 昨夜、継承の間で言い渡された最終試練の内容はこの二条家の令嬢に関する情報収集、および暗殺だった。この任務が霧の門以外の誰かから依頼されたものであるのか、それとも長が決めたものであるのかは分からない。分からないから誰がどういう思惑で彼女を排除しようとしているのかは渡された数少ない資料から推測することしかできない。


 —本来はこういうことは考えるべきでは無いのだろう。なぜ標的が標的であるのか、命を狙われなければならないのかなんて考える必要はない。忍びは何も考えず、ただ任務を忠実にこなすのみ。それが良い忍びであり、同時に己の身を守る方法でもあった。知りすぎる忍びというのは扱いづらいものであり、邪魔になるからだ。


 それでも僕はいつも考えてしまう。僕が僕の手を汚す理由を相手に求めてしまう。何か、相手に欠点はないだろうかと。実は隠し事があり、何かとんでもないことを企んでいるのではないかと。僕が殺す、言い訳を探す。


「はぁぁぁ…」


 あまりの憂鬱さに僕は長い息を吐き、畳の上に寝そべって資料を顔の上に乗せた。目を閉じ、紙のわずかな重さを感じながら任務について考える。


 言い渡された任務のうち、暗殺の方は至極シンプルな内容だった。ただ必要な情報を得たのちに誰にも気づかれることなく静かに命を刈り取ること。それだけだ。とはいえ二条家ともなれば警備は厳重であり、昨夜忍び込んだ依頼人の家よりもずっと侵入は難しいはずだ。それに部屋の前にも見張りがいたっておかしくはない。それでも情報収集で屋敷に潜入することになるのは間違いないのでそのまま屋敷内に留まっていれば機会は必ずやってくるだろう。あとは僕自身の覚悟の問題だけだ。


 何より、一番問題なのはおそらく情報収集の方だ。二条家令嬢に関する情報収集とは簡単に言うが、これはそんなに優しい任務ではない。有力な公家の屋敷に使用人のふりをして入るというのはまず無理だ。古参の使用人がほとんどで顔見知りが多いだろうことは容易に想像がつくし、たとえ新規に募集していたとしても二条家の使用人ともなれば倍率は高くなるはずだ。そんな中で過去にどこかの屋敷で使用人をしていた経験を持たない僕が通ることはまずないだろう。何より僕は男だ。屋敷に入れたとして、年頃の娘に僕が接触するのは二条家としての体裁を考えたときに断固阻止されるはずだ。おそらく令嬢も僕に進んで接触しようとはしないだろう。つまり直接的な令嬢との接触は期待できないのだ。


 集める情報についても疑問が残る。資料に書かれた情報によると、最近令嬢の様子がどうにもおかしいらしく、何か企んでいるのではないかとのことだ。何か企んでいるのか、企んでいたとしたら一体何をしようとしているのか。それらを明らかにしたのちに殺せ、という任務。けれど具体的にどのように令嬢の様子がおかしいのかは一切書かれておらず、また、この書き方では令嬢が何も企んでいなかった場合にも暗殺対象であることを意味している。つまりはなからこの任務は暗殺という結末が用意されているのだ。


 一言で言えば違和感。変な任務。明らかに誰かの思惑を感じる。どうしても令嬢を殺したい誰かがいる。


「—どうして、命を狙われているんだい…?」


 誰にともなく口から溢れた問いかけは、宙に浮くばかりで答えは返ってこない。


 美しく気高い令嬢。社交界の花。高貴な血筋。何かを企む令嬢。一体どれが正しくて、どれが間違っているのか。どんな人物であっても彼女は死ぬ。僕の手によって。彼女の人格は問題ではなく、これは決まった結末だ。けれど僕は彼女という人物から目を背けてはならない。


 —何も考えるな。ただ任務を忠実にこなせ。


 最終試練に報酬は関係ない。けれど失敗はすなわち僕自身の死を意味する。僕にとって自身の命を賭けても良いほどの大切な人というのはとうの昔に失ってしまった。けれど今の僕の命はその人が守ってくれたものだ。僕自身がどんなに汚れていてももう簡単には手放せない。僕は死ぬ勇気すらない卑怯者だ。


 —忍びたる者、冷酷であれ。非常であれ。情に流されてはならない。


 僕はまた、天秤にかける。一方に載せるのは僕自身の命で、もう一方が令嬢の。傾いているのは、いつも僕の方。僕にはいつだって、優先順位がある。僕は力もなければ勇気もなく、そして何より汚れた人間だ。


 —ただ従順な駒であれ。


 僕は彼女の命を引き換えに自分自身を惨めったらしく守っている。だから僕は彼女という人物から目を背けてはならない。確かにそこに存在していた、僕のために命を落とす人間を。


 ◯◯◯



「白音」


 ずいぶん長い間物思いに耽っていたらしい。気が付けば部屋の外では陽が傾き、徐々に空のオレンジ色が濃紺に塗りつぶされ始めていた。障子をわずかに開いてその様子を見ながら、こぼすように名を呼ぶと空気が揺れる。


「お呼びですか、綾目さま」


 振り返り、そこに控える白音を見た。先ほどまで確かに彼はここにいなかった。音も立てずにまるで瞬間移動のように現れた彼に特に驚くこともなく、僕は彼に向き直って口を開いた。


「僕の最終試練の話、聞いたかい?」


 白音はその言葉に何も言わず、ただ僕をまっすぐに見た。おそらく、僕が長から聞かされるよりも先に話を聞いていたのだろう。僕は彼から目を逸らし、障子の向こう側を見た。もうあと十分もすれば陽は完全に落ちるだろう。僕らの、忍びの時間がやってくる。


「内容は京都にある二条家の令嬢に関する情報収集および暗殺。—なぁ、白音。僕にできると思うかい」


 消えかかる空のオレンジ色に僕はつぶやいた。三年前、初めての最終試練の時のことを思い出し、障子にかけた手に思わず力がこもる。


「—綾目さま、もしかして怖いんですか」


 後ろから聞こえた、白音の明るい揶揄うような声。白音は15歳できちんと最終試練をこなし、名前を授かっている。「白音」というのは一人前になって初めて長から賜った名だった。


「綾目さまは何を怖がっているんですか。また試練に失敗するかもしれないことですか、それとも、人を殺すことですか」


「…怖がっているわけじゃあない」


 僕はそうつぶやいて、白音を見た。揶揄うような声。非難するかのような言葉。けれど白音の目は変わらずにまっすぐ僕を射抜いているだけで、そこには揶揄いも非難もありはしなかった。


「怖いんじゃあない」


 自分に言い聞かせるようにつぶやいた言葉。ただ、自信が無いのだ。


 無言が続いた。互いに何も言葉を発することはなく、僕は白音から目を逸らさない。白音も僕をしばらく見つめて、それから何かを諦めたようにため息をつきながら優しい笑みを浮かべた。それが沈黙の終わりを告げる合図だった。


「大丈夫ですよ、綾目さまは僕の主人だ。天才と言われた僕が唯一認めたあなたなら何も心配はいらない。あの方だって、あなたを誰よりも評価していました」


 白音は幼子に言い聞かせるように、一音一音優しく丁寧に言葉を紡いだ。自信にあふれたその言葉が僕には少し羨ましい。僕は「そうだな」とだけ返して、小さく笑みを浮かべた。


「白音、僕についてきてくれるかい?」


 僕の言葉に白音は両手を膝の脇に置き、頭を下げた。


「綾目さまのためならばどこまでも」


 陽が沈む。冷たい風が障子の隙間から吹き込む。白音の言葉にどこか安心しながら、僕は障子の外を再び見た。濃紺に染められた空が、出発を告げていた。


「…行こう、白音。京都へ。」


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