3.継承の間
襖を開けると、部屋の中央には和装の男がひとり座っており、その傍の燭台にろうそくが点っていた。薄暗い部屋の中、男の厳つい顔と身に纏う着物の一部、それから部屋の内装が僅かに浮び上がる。掛け軸は何か鋭いものでずたずたに切り裂かれ、畳の上には割れて散らばった花瓶の欠片。部屋の外とは比にならないほどの損傷。そして何より、襖に飛び散った赤黒い何かと鉄の錆びたような匂い。
継承の間と呼ばれるその部屋は、かつての輝きはとうに失い、今や最も荒れ果てた部屋となっていた。そして、この継承の間こそ、霧の門の抱えた闇だった。
部屋に踏み入ることなく半端に開いた襖の傍で部屋の中を睨んでいると、中にいた男が声を出した。
「綾目、いつまでそうしているつもりだ」
祖父のしわがれた声とは違う、太く重い声。けれどどこか祖父を思い出させるその声に、僕は反射的に拳を握りしめた。少しだけ礼をして部屋に入り、男の前に立つ。男と僕が数秒睨み合い、やがて僕が彼の前に座った。
「男の暗殺は恙無く完了しました」
座って間もなく、相手の言葉を遮るように僕は告げた。目を合わせることも無く、声に何の感情も乗せること無く。そんな僕に目の前の男は鼻で笑ってみせた。
「それが長に対する態度か、綾目。…お前はいつまでそんな態度を取り続けるつもりだ」
目の前の男、霧の門の長である僕の伯父はそう言う。僕はそれに何も答えることなく、ただ変わらぬ態度のままで尋ねた。
「それで長、僕に話があるのでは?白音が長が僕を待っていると言っていましたが」
僕の言葉に長はまた鼻を鳴らした。白々しい、と声が聞こえたような気がする。僕は相も変わらずに目を合わせることは無い。この男を長だなんて僕は思わない。みんなが認めても、僕だけは。
長はゆるりと立ち上がり、それから襖の方へと目を向けた。視線の先にあったのはこの部屋の中でもいちばん酷い、酸化した血で真っ黒に染めあげられた襖だった。
「綾目、お前に最終試練を言い渡す」
その言葉に僕は目を見開き、初めて長を見た。長もこちらを見ており、皮肉のように唇の片端を上げて笑う。
「ようやく目が合ったな」
その言葉に僕は何か言おうとしたが言うことが出来ず、バツの悪さに目を逸らそうとしたが逸らすことも出来なかった。爪は手のひらにくい込み、心臓が早鐘を打つ。思いっきり表情をゆがめそうになるのを、幼い頃からの教育のおかげか、なんとか冷静さを装おうとして変な顔になるのを感じる。喉が渇いて、ひりついた。
「…なんで、今更」
「今更?」
僕の言葉に長はすかさずそう返し、僕の額に指を突きつけるように腰を曲げて顔を寄せた。
「今更なのはなぜだと思う?普通は15歳で行うべき最終試練が18歳の今になってなぜ言い渡されると?」
目の前に迫った長の表情は雄弁だった。原因はお前にあるのではないかと、確かに僕に詰め寄っていた。
「—綾目、これは最後の機会だ。再び失敗するようなことがあればもうお前に機会など巡ってはこない。一人前の忍びになれぬ者は一族にはいらない。これがどういう意味なのか、お前はわかっているはずだ」
長はそう告げると突きつけていた指を離し、腰を元に戻した。ろうそくの光は揺らめき、長の顔を下から照らし出す。僕は逃げるように顔を俯けた。膝の上に握った拳が目に映る。
『夏生おじさん、あのね…』
一瞬蘇った過去の光景と幼い自分の声。夏生おじさんと呼ばれているのは僕の叔父。父の弟。
柔らかい日差しの中、美しい庭で僕は一生懸命に夏生さんに話しかける。夏生さんもそれに心底嬉しそうに笑って答えてくれていた。夏生さんは腐ったこの家の、唯一の光だった。
拳を開けば、その中には何も入っていない。何かを掴もうと必死だったかのように食い込んだ爪の跡とわずかに滲んだ血があるばかりで。そう、僕は結局掴めなかったのだ。家を出る機会も、明るい未来も、夏生さんの命も、何も。
「…最終試練の、内容は」
喉の渇きが潤うことはない。張り付いた喉の奥を無理やり開くように言葉を紡いだ。
最終試練は通常の任務とは少し異なる。通常は長のもとに依頼が届いたものが割り当てられ、依頼人に直接会って内容を確認、遂行、報告する。報酬も依頼人から直接受け取り、長への報告はその後に行われる。
一方で最終試練というのは、忍びとして一人前と言えるだけの能力を備えているか測るための試験だ。よって報酬は発生せず、また依頼人も存在しない場合がある。長の判断でどのような内容のものを行うのか、その標的や評価ポイントが変化する。一つ言えることがあるとすれば、総じてその難易度は高く、また、殺しの任務であることが多いということだ。忍びとして一人前かどうかの基準に冷酷でいられるかというのは大きな分岐だからだ。
僕は過去に一度、最終試練に失敗している。本来なら失敗した者はそれでお終いであり、処分される。僕は例外的に許されたのだ。失敗した理由が特殊だったために—
顔を上げた。長はまっすぐに僕を見つめている。言い渡される任務は何だろうか。二度目の最終試練というのは過去に例が無い。しかしおそらく、いや確実にその難易度は一度目をはるかに上回るはずだ。必要となる冷酷さも。
背筋を伸ばし、再び硬く拳を握った。一度目、僕は逃げ出してしまった。だから何も守れなかった。二度目、僕は何があっても逃げ出すわけにはいかない。
長は一度目を閉じ、何か考えるような素振りを見せた後で再びその目を開いた。そこにはもう迷いはなく、僕に対する嫌悪もなかった。ただ、長としての威厳だけがそこにはあった。
「最終試練の内容はとある女に関する情報収集、およびその暗殺だ」
僕はまだ知らなかった。この試練が僕にとってどれほど過酷なものになるのかを。
僕は思いもよらなかったのだ。この試練で僕は敬愛してやまない、一人の女性に出会うことを。




