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しのぶれど。  作者: 朝月夜
◆『杏』編
37/37

32.杏(陸)

 紅葉さんに手伝ってもらった刺繍の販売は思いのほか好調だった。私が直接街に売りにいくことはなく、私が縫い上げた刺繍を紅葉さんに渡すと、紅葉さんはその売り上げを持ってきた。私の父が街にお金を稼ぎに行き、そうして帰ってこなかった事実を思えば街に出ずに済むのは安心だった。その一方でどうやって売ったのかを尋ねれば紅葉さんは小さな笑みを浮かべて「伝手を頼ったのよ」と答え、それ以上の内容は明かさなかった。


 好調とはいってもいきなりお金持ちになったりするわけじゃあない。小さなお金を少しずつ貯めて。紅葉さんにもらった綺麗な着物を纏って身なりを整え、こっそり街に出たりして。ほんの少しの美味しいお菓子を買って、三人で分けて。ちょっぴりの贅沢とちょっぴりの貯金を繰り返した。煌びやかな街は目が眩み、目に飛び込む全てのものがまるでこの世のものとは思えないほどふわふわと浮いて見えた。街ゆく人から向けられるだろう差別の視線を恐れていたが、紅葉さんの着物のおかげか、そこまで露骨に感じることはなかった。


 そんな日々を繰り返して一年。私が十歳になった年。


 私の刺繍は徐々に人気を集め、売れ行きは伸び、ついに着物を買える貯金を作ることができた。嬉しそうに笑った紅葉さんから今までの貯金を入れた巾着を受け取り、私も思わず笑ってしまった。六歳になった春香も私に嬉しそうに抱きつく。私はしゃがみ込んで春香に視線を合わせ、春香の頭を撫でた。


「ねえ、春香。どんな着物が欲しい?」


「…着物?」


 私の言葉に春香はその目を丸くした。まさか自分の着物のためにお金を稼いでいたとは思っていなかったのだろう。


 本当は、もっと早くに着物をあげたかったのだ。五歳の頃にはもうすっかり着物は小さくなっていて、今も少し寸足らずになっている。けれどそれでも、自分で稼いだお金で春香に着物を着せられると言う事実だけで胸がいっぱいだった。


「—杏お姉ちゃんが貯めたお金だよ、お姉ちゃんが使って」


 春香が困ったように言う。私はそれに笑顔を浮かべた。


 やっぱり春香は、紅葉さんの娘なのだ。昔から面影はあったが、成長して一層紅葉さんに顔が似て、優しく儚げな美人になった。その心も、紅葉さんと同じ。優しさで人を包み込む。


 こんな人たちだから、私は尽くしたいのだ。


「うん。だから私が使いたいように使うね。—春香の、着物を買いたいの」


「…良いの?」


「うん。お願い。どんなものを着たいのか教えて」


 控えめに頬を染めて嬉しそうに笑った春香は、一年前に私が彼女に似合うと想像していた淡い桃色の着物を望んだ。


 ◯◯◯


 その日、私は街に出て着物を買いに行った。春香も紅葉さんも笑顔で送り出してくれて、日が暮れる前に帰ることを約束した。


 —約束、していたのに。


 私はその日、家に帰らなかった。いや、その先もずっと。


 もう二度と、あの暖かい家に帰ることは、なかったのだ。


 ー何がいけなかったのだろう。


 いつも、何か思いもよらなかった不幸に陥る度に、そんなふうに涙した。


 食べるものがなくて困った時も、お母さんが死んだ時も。そして、今も。


 何がいけなくて、誰が悪くて。どこかにあるはずの原因を、いつも探している。そんなもの本当は無くて、全部ただの偶然にすぎないかもしれないのに。そう、冷静な頭では考えているのに。それでも、ヒビがはいりそうな心を守る方法を私はそれしか知らなかった。


「聞いているか」


 がたがたと揺られる牛車の中。私は虚ろな目で窓の外を眺め、紅葉さんに手渡されたお金の入った巾着を、力のこもらない両手で膝に抱えていた。目の前に座る身なりの整った貴族の男が低い声で諌めるように言う。私はその声に僅かに肩を揺らして巾着を握りしめた。


「…はい」


 絞り出した声は力なく、生気がない。男はそれにため息をついてもう一度口を開いた。


「もう一度言う。お前はもう、二条家の人間だ。あの町に戻ることも、貴族らしからぬ振る舞いをすることも許さない。私の期待を裏切ることも」


「…」


「破れば…ー分かるな?」


 一層低い声で紡がれた言葉。言外に人質に取られたのは私自身ではなかった。


 乾いた唇を噛み、両手できつく拳を作った。それからまた、繰り返す。生気のない、力無い返事。


 男はそれに何も言わず、ただ不満げに窓の外を見やった。その瞳には何一つ、喜びが浮かんでいない。私のような下民を家に迎え入れることが気に食わないのだろう。それならば、放っておいてくれれば良いのに。放っておいて、そのまま私はあの暖かい場所に居たかったのに。


 つきりと痛んだ胸に、私はそっと瞼を落とす。牛車の揺れに身を任せ、私は深い眠りに落ちた。


 ○○○


 貧民街を出てすぐだった。


 街へ向かう森の中の道。そこに、一台の牛車が停まっていて私はそれに目を奪われた。牛車は貴族が乗るものだ。貧民街の人間がここに牛車を呼べるはずもないし、なにより、貴族の人間が貧民街に用事なんてないはずだった。私は胸に小さな疑問を秘めたまま、そっと通り過ぎようとして、急に開いた扉から牛車の中へと引きずり込まれた。


 引きずり込まれた先、いやに暗い牛車の中にいたのは不機嫌そうな顔をした、この貴族の男だった。男は私を見るなり値踏みするような視線を向け、私の顔に目が行き着くと、そこで暫く固まった。それから深くため息を着く。


 男の仕草すべてが恐ろしかった私は、ただただ、自分の手で必死に体を抱いて震えていた。男はそのまま眉間に皺を寄せ、額に手を当てて俯く。やがて小さく舌打ちをこぼし、「出せ」と見えない馭者に向かって低い声で言った。


 え、と声を漏らす間もなく動き出す牛車。震えて動かない足。言葉にならずに掠れるだけの空気。ー息が、吸えない。


 雷が酷くうるさくて、眠れなかった夜も。飢えた野犬に追いかけ回された時も。大人に囲まれ、食事を奪われそうになった時も。


 ー母さんが、死んだ時だって。こんなに、恐ろしいと思ったことはなかったのに。


 震えるばかりの体と、はくはくと開閉を繰り返すだけの口。私は辛うじて視線だけは男から逸らすことをせずに見つめた。男はそんな私を冷たく見下ろし、また舌打ちを零す。


「お前、名前は」


 舌打ち、低い声。不満気な顔。けれど意外にも問われた質問はそんな、ありふれたものたった。


「…」


「なんだ、口が利けないのか?」


 答えを急かされても、怯えきった体は言うことを聞かなかった。男はまた舌打ちをこぼし、私を見下ろした。


「ー下賎な女の産んだ子供もまた下賎、か」


 その言葉に私は一瞬で思考が止まり、目を見開いた。恐怖で震えていたはずの体は嘘のようにぴたりと止まり、凪いだ思考が冷たく冴える。


「ーお母さんは、下賎なんかじゃない」


 かすれた小さな声が漏れる。男はそれにほんの少し目を見開き、小馬鹿にしたように笑った。


「貧民街で飢えに喘ぎながら暮らしていた女のどこが下賎じゃないと?子供1人満足に育てられなかった女の、どこが」


 その言葉に私は男を睨んだ。


 お金があれば。貧しくなければ。せめて、満足に食べていければ。ー薬を買えたなら。


 そんなことは、ずっと前に後悔して、そして今もずっと悔やんでいる事だった。刺繍を売るようになって、お金を手にして。決して大きな金額ではなかったけれどそうやって自分でお金を稼いで分かったことがある。


 どうして、懸命に働いた人が今もなお貧困に喘ぐのか。どうして、必死に生きている人が嘲られなければならないのか。


 ー貴族は、統治者は。何もせずにその地位に甘えているのではないか。


 心の奥に秘めていた、ある種の確信。そして、恨み言。ぶつけるには絶好の機会だったかもしれないが、私の命の軽さは私がいちばんわかっていた。喉元まででかかったそれをぐっと押し込んで、私は口を開いた。


「…貧しいことは、下賎じゃない。少なくとも母は、誰かを恨むことも妬むこともせず、誰かに手を差し伸べようとすらした。私はそんな母を下賎だとは思わない」


 思いのほかすらすらと紡がれた言葉に男は鼻で笑った。何も響いていないし、響かない。男は何も感じた様子はなく、変わらぬ見下した視線を私に向けた。


「母親を信じているか」


「…」


「それならば信じたお前に、お前の母親が遺した()を教えてやろう」


「…嘘?」


 私の言葉に男は初めて愉快そうに笑った。それが、気持ち悪かった。


「お前の父親は貴族だ」


 男の言葉は、信じ難いものだった。

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