31.杏(伍)
刺繍を売りたい、という私の願いに紅葉さんは満足そうに微笑んだ。それはこの家におじゃまさせてもらってから初めての私のわがままであり、彼女にとっても私自身にとっても、大きな変化であるのは間違いなかった。
その日の夜。ボロ屋の中で春香を抱いて眠っていると、隣に寝ていたはずの紅葉さんが起き上がる気配を感じて目を覚ました。そっと目を開き、紅葉さんの方へ目をやれば、彼女は屋根の隙間から漏れ出た月明かりの中、なにか手紙を綴っている。その横顔はあまりにも真剣で、寂しそうで、嬉しそうで、苦しそうで。色々な感情が入り交じった、複雑そうな顔だった。それに、私は何も声をかけることは出来なくて、そのままただ、彼女の小さな背中を見つめていた。
ー伝手がある、と彼女は言った。
それが一体何なのか、私には分からない。けれど紅葉さんのことだ。きっと、私の願いを叶えるために、彼女自身が口にした言葉通りの行動をしたのだ。私の刺繍を売るために、その伝手を頼ったのだ。
しばらくして、彼女は細くて長いため息をついた。それから手紙を封にしまって机の上に置く。おそらく手紙を書き終えたのだろう。布団の方を彼女が振り返ったその時、紅葉さんを見つめていた私の視線に彼女の視線がぶつかった。彼女はそれに驚いたように目を丸くし、やがて悲しい顔をした。
「…起きていたの」
ぽつりと寂しげに呟いた彼女の顔は、月明かりに照らされて嫌に青白かった。私は春香を起こさないようにそっと彼女の頭の下から腕を抜き、布団から這い出でる。紅葉さんの前に座って、彼女の顔と机の上に置かれた手紙を見比べた。
「…夜遅くに、手紙ですか?」
それがきっと自分のための行動であると分かっていながら、私はそう尋ねた。紅葉さんは手紙に一瞬だけ視線をやって、それから困ったように笑う。
「えぇ、刺繍を売る手伝いをしてくれる人にね」
「…ありがとうございます。でも、寝てください。私、紅葉さんに負担をかけたい訳じゃあないんです」
私の言葉に彼女は笑った。優しい子ね、と言って頭を撫でて、「そうするわ」と言葉を紡ぐ。消えそうな、儚げな笑みに私は眉を寄せた。
ーいつも、紅葉さんが無理をしているんじゃないかと不安だった。
どこからか彼女が仕入れてくる食料と衣類。決して余裕のある訳では無い生活。あかぎれた手。かさついた唇。僅かに痩せた頬。
私は彼女がお金を稼ぐところを見たことがなかった。家事や育児をしているところはいつも見ている。けれど、働くところは見ていないのだ。だから、実は私たちが知らないところで、例えば夜に、身を削って働いているんじゃないかとか。そんなことばかり、考えてしまう。
寝ましょうか、と口にして立ち上がろうとした紅葉さんの着物の袖を掴んだ。彼女はそれに目を見開き、私を見る。綺麗な色をしたその瞳の中、泣きそうな私の顔が映り、彼女は目を見開いた。
「…紅葉さん」
自分が思っているよりもずっと素直に私の感情を移した声だった。震えてか細く、不安げな声。紅葉さんはただ、言葉を失った。
「ー無理は、しないで」
「…」
「紅葉さんがどうやって食べ物や衣服を買ってきているのかはわからないけれど、でも、お願いだから無理しないで。あなたがいなくなってしまったら…いなくなって、しまったらー…」
ー私はどうしたら良いの?
その言葉は、紡げなかった。私は俯いて「春香はどうなるんですか」と呟き落とした。紅葉さんは私の母ではない。紅葉さんは、春香のお母さんだ。当たり前の事実。私が最初、どうしようも無いほど羨ましくて仕方がなかったこと。ずっと、分かっている。
「…傍に、いてくれるんでしょう?」
「…えぇ、いるわ。あなたや春香が大きくなる、その時まで」
私の頭にそっと乗せられた紅葉さんの手。昼間は暖かく感じたのに、今は温度が分からなかった。母を喪った、あの長く冷たい夜を思い出して、私は手が震える。
「…私、紅葉さんのこと、何も知らない」
「…えぇ、何も話していないわ。でもそれは、あなたを信用していないわけじゃない。あなたに知られたくない訳でもない。ただ、あなたは知らない方が良い事だから言っていないだけ。…春香だって、何も知らないわ」
諭すように突き放されたその言葉に、私は彼女の着物の裾を強く握った。もしも彼女の言う通りだとして、それなら彼女は何もかもを自分一人で抱え込むのだろうか。私の辛さや苦しさは一緒に背負ってくれるのに、彼女の辛さは背負わせてくれない。手紙をしたためる、あの複雑な顔を晴らさせてはくれない。
「…紅葉さんが、話さないならそれで良いの。でも、私は紅葉さんの力になりたい。そばに居るって、きっと、そういうことだから」
私の精一杯の言葉だった。紅葉さんはそれに何も言わず、ただ静かに腰を下ろし、私の前に座り直す。月明かりで白く照らされたその手が、私の肩を抱き寄せてそっと包み込む。吸い込んだ紅葉さんの匂いに、私は目を閉じた。
「…私はきっと、杏と出会っただけで救われているわ」
「…」
「ーでも、そうね。じゃあ一つだけお願いしても良いかしら」
優しく、強く肩を抱き寄せる手。私はその手に自分の手を搦めた。
「ある人に、伝言をお願いしたいの」
「…伝言?」
「そう、伝言。きっと永遠に、伝わることの無い伝言よ」
寂しげな声でそう言った彼女。私はその言葉の意味がわからずに首を傾げた。
「…私には旦那がいたのだけれど、あの人は死んでしまったの」
「…」
「でもね、残された家族は春香だけじゃなかった。本当は、もう一人子供がいたの」
その言葉に私は目を開ける。屋根の隙間から覗いた月が、ぽっかりと口を開けていた。
「…その子供に伝言?」
私の言葉に紅葉さんは柔らかな優しい声で「そうよ」と返した。
「とはいっても、あの子とはもうずっと前に生き別れになってしまって、どんな風に育っているのかも分からないの」
それは寂しそうではあったけれど、どこかあっけらかんとした口調だった。ここは貧民街。さして珍しいことでもなかったからなのか、生きているという確証があるからなのか、彼女は特段暗い声で話をすることはなかった。
「…その子の名前は?」
どう成長しているのかが分からなかったとしても、いくらなんでも名前が分からなければ伝言を伝えるのはほとんど不可能だ。
私の言葉に紅葉さんは小さく笑った。諦めたような笑いだった。
「さぁ。なんて名前なのかしら。…名前すら、呼べなかったもの」
ーあぁ、だから永遠に伝わることの無い伝言なのだ。
紅葉さんの言葉に私は胸が締め付けられるような気がした。彼女は口にしなかったけれど、彼女が私を引き取った理由もきっとそれだったのだ。
紅葉さんが、その子に注げなかった愛情を。春香にいるはずだった兄弟を。私からいなくなってしまった母親を。
ー傷を、埋め合ったのだ。
「…でもね、呼べなかったけれど、つけようと思っていた名前ならあるのよ」
「…どんな?」
私の声に、紅葉さんはそっと息を吐き出した。寒い空気に晒されたそれは空中で白く凝固して月明かりを滲ませる。こんな寒い夜には母と過ごした冬の日を思い出す。紅葉さんも、何を思い出していたのか柔らかな声でその名を紡いだ。
「冬弥。ー冬弥って、名付けたかったの」
それは、春香にいたはずの、兄の名前だった。彼女の声に、私は「素敵な名前ですね」と返す。紅葉さんは嬉しそうに微笑んだ。
「…きっと、辛い人生を歩ませてしまっているわ」
「…」
「そうなるだろうって、分かっていたの。だから、どうか強く生きて欲しいと、そう思って。ひとりじゃないって、あなたには家族がいるんだって知っていて欲しくて。それでー…」
紅葉さんは私の肩を、もう一度強く握った。私はその手を優しく撫でる。紅葉さんは泣かなかった。泣かなかったけれど、心が壊れそうな音を聞いた気がした。
「…私、きっといつか、冬弥くんに伝言を伝えます」
「…」
「ね、紅葉さん。私を信じて」
彼女はまた、あの手紙を認めていた時とおなじ複雑そうな顔をした。それから口を開いて、伝言を紡ぐ。
ー私は未だに、その伝言を伝えられずに、胸にしまったままでいる。




