29.杏(参)
それから時が過ぎ、一年経った頃だった。最初に想像していたよりもずっと、私は2人の生活に馴染んでいた。
「杏ー?ちょっとお願いがあるんだけど」
「はぁい」
家の外で春香と一緒に野菜の世話をしていた私は、紅葉さんの呼ぶ声に春香の手を引いて家の中へ戻った。家はお世辞にも綺麗とは言えず、壁には私の家と同じように隙間があったし、雨漏りだってしていた。でも、どうしてか紅葉さんは綺麗な服や暖かい布団をたくさん持っていて、食料も月に1度、どこからか貰ってきているようだった。だから暮らしには困らない。困らないから、私を招き入れたのだろう。
そこにどんな意図があっても、私は春香や紅葉さんが好きだったし、彼女たちのために生きようと、そう誓っていた。
家に入ると紅葉さんは縫い物をしていた。傍に寄って「どうしたんですか」と尋ねると、紅葉さんは春香にそっくりなその顔で困ったように笑った。
「ほら見て、ここ、破けちゃってるでしょう」
「ーあ、本当だ」
紅葉さんが手に持っていたのは、彼女が私のために分けてくれた着物のひとつだった。大切に着ていたつもりだったのに、どこかで引っ掛けてしまったのだろうか。
「…ごめんなさい、私が不注意でした」
それは決して華やかな着物ではなかったが、暖かく、仕立ての上等なものだった。きっと、高かっただろう。私が申し訳なさに謝ると、紅葉さんはまた困ったように笑う。
「いいのよ、物はどんなに大切にしていてもいつかは壊れるものなの。それに杏が悪いだなんて思ってないわ」
「…でも、」
「馴染んできたと思ったけれど、杏の謝り癖だけは抜けないわね。ーここはあなたの家よ。もっと、気を使わずにわがままでも言ったら良いのに」
ぽんぽん、と軽く私の頭を撫でた紅葉さん。私は申し訳なさと恥ずかしさに、はにかむように笑ってしまった。彼女の向けてくれる、まっすぐな分け隔てない愛情が好きだ。彼女が、良い人だなんてことはもうずっと前から知っている。生活が苦しくても、心の貧しくない人。美しい人。けれど、私はどこまでいっても余所者なのだ。いつか、彼女たちに恩返しをしなくてはならないのだ。お金を稼いで、もっと綺麗な家に住まわせて、それでー…
「それでね、杏。お願いがあるの」
紅葉さんの声に、私は自分が呼ばれてここに来たことを思い出してはっとする。
「なんですか?」
「あのね、ここ、あなたが縫ってみてくれない?」
「ーえ?」
予想外のお願いに私は目をしばたき、それから勢いよく首を振った。
「いやいや、無理ですって!私縫い物なんてしたことないし…」
「だからよ、杏ももう8歳だったかしら。縫い物ができると良いわよ」
「ええぇ…」
笑顔に押し切られ、渡された着物と針を受け取る。紅葉さんの指示で、言われるがままに針を動かす。その動きはぎこちなくて、指先だけではなく肩から、全身を使っていて。しかめた顔を見て紅葉さんは嬉しそうに笑っていた。
この時の私はただ、悪戦苦闘しているだけで。それでも、紅葉さんが時間を割いて私に教えてくれるのが嬉しくて。段々と上達するのが楽しくて。ただ、そればかりで。
ーまさか、この縫い物という技術が、後に自分の人生を変えるだなんて、微塵も思わなかったのだ。




