28.杏(弐)
春香、と名乗った少女。彼女の母親だという女性。
ー母親
「…いいなぁ」
ぽつりと呟いた言葉に、不意に、目が熱くなる。ここ数日泣きっぱなしだったのに。止まらずに細く、ゆっくりと頬を伝うそれに、私は自嘲した。顔をふせ、地面に着いていた土だらけの手で顔を拭う。
泣くな。泣いても、誰も助けてくれない。何も変わらない。泣いたって、お母さんは帰ってこない。
ー理性と感情は、別物だ。
理性は感情の手網を握る。それでも、絶対的な支配をしている訳じゃない。
だから、そう。今のこの涙も、止まらない。自分が止まってくれと願ったって、そう簡単にこの張り裂けそうな悲しみが無くなるわけじゃない。
止まらない嗚咽と涙。目の前で戸惑う春香。それに気がついている。分かっている。
迷惑をかけたくない。それに…それ以上に、これ以上、弱みを見せてはならない。ここは貧民街。どんなに人の良さそうな笑顔をうかべていても結局最後にみんな裏切っていく。自分が可愛いのだ。生きるのに必死なのだ。
ー誰も悪くない、自然の摂理。
だから早くー…
その時だった。不意に、暖かい何かに包まれて驚いて顔を上げる。おどおどした春香と目が合った。私を抱きしめていたのは、春香の母親。私に声をかけてくれた女性だった。
「…え?」
困惑に止まった涙と、ポツリとこぼれた戸惑い。私の声に、女性は私を抱きしめる腕に力を込めた。何も言わず、ただそうしていた。
ー言葉は何も無かった。彼女が私に同情の言葉を紡ぐことは、なかったのだ。
それなのに、どうしてか分かってしまった。彼女がどうして、どういうつもりで私を抱きしめたのか。私に向かって手を差し伸べたのか。
それは、到底貧民街ではありえないものだった。
「ー偉い、よく頑張ったよ。ね、うちに来よう。一緒に、暮らそう」
引っ込んだはずの涙があふれる。目の前の景色がぼやけて滲み、春香の顔が歪んで見えた。土だらけの手で、私は女性にしがみつく。
「うっ…うあぁぁぁぁぁぁぁぁあああああ!!」
ようやく、泣けた。
あの時、確かにそう思ったのだ。肩にあった重い何かを女性が下ろしてくれて、すっと息が吸えて。吐き出せて。あぁ、生きているって、そう思えたのだ。
泣きついた私を彼女はずっと抱きしめた。日が暮れても、私が泣き止むまで何も言わず、止めなかった。彼女がどうして私が1人になってしまったことを悟ったのか、どうして貧困の中で私を助けようと思ったのか。彼女の心の内は何一つ分からなかったけれど、でも、彼女の手は母のものと同じように暖かかった。
貧民街では、人を信じてはいけない。だまされ、奪われるからだ。そしてそれが、死に直結するからだ。でも、それでも良いと思った。母のいない世界に未練はなかったし、それになにより、彼女を信じたかったのだ。
『ね、杏。良いこと教えてあげる』
『…良いこと?』
母がボロ屋の中、凍えながら言っていた言葉を思い出す。僅かな月明かりの中、壁によりかかって二人で薄い布にくるまって。鼻先を赤く染め、口から凍る息を吐き出した母は私を見つめて微笑んだ。
『お金がなくて生活がどんなに苦しくても、心まで貧しくしてはだめよ』
『…』
『ー良い人でいなさい。助けることを恐れず、また助けられることに怯えないで。人の優しさを信じることの出来る、良い人に』
母の綺麗な微笑みが月明かりに浮かんでいて、私はその意味もよくわかっていないまま頷いていた。そうだ、母は良い人だった。そしてそんな母が大好きで、私は母を信じていたのだ。
だから、今度こそー…
涙が止まった頃、私は彼女の手を取り、彼女の家に行く。少し歩いてたどり着いたのは私の家とはあまり変わらないボロ屋だった。明かりも灯っていない。けれど、どうしてか心がぽかぽかと暖かくなった。
ドアを開け、2人が振り返る。私の方を見て微笑み、手を伸ばす。
「おかえりなさい、杏」
胸に込み上げた何かに、また涙がこぼれそうになった。私はそれを堪えて、服の裾をぎゅっと握り、前を見て笑う。
「ただいま…っ!」
それが、私と春香、そして紅葉さんでの生活の始まりだった。




