2.霧の里
—霧の里。
それは江戸の街からは少し離れた山の中にある。山の麓から鬱蒼とした森を進んでいくと、次第に地面のぬかるみが酷くなり、湿っぽい匂いが充満する。生き物の気配が徐々に薄れ始め、そしてやがて霧が立ち始めて視界が白に染まる。一年間霧の消えない場所にあるそれは、まるでこの世からは隔絶された異空間であり、正しい道順を知っている者しか辿り着くことのできない「裏」の世界だった。
霧の里に拠点を構えているのは「霧の門」と呼ばれる忍びの名家であり、そして僕が生まれ育った場所だ。忍びというのはどうにも排他的でしきたりにうるさいらしい。この里には一人たりとも女性は存在していない。母親は子供が生まれれば里を追われ、娘が生まれれば母親とともに外へと放り出される。忍びとしての戦力になり得ない女はいらないということなのだろう。そんな意味もあってか、生まれた子供は幼いうちから忍としての教育を受けることになるが、一人前と認められるための最終試練に合格していない者はまるで女性のように花の名前で呼ばれていた。
「綾目さま、おかえり」
暗殺から帰った僕が里の門に立つと、大きな木造のそれは不思議と音を立てることなく開き、その向こう側で霧の中提灯を手に立つ人影がわずかに腰を折り曲げた。濃い霧の中で提灯の灯りは怪しげに揺らめき、踊る。月のない夜でただでさえ姿が見えにくい中、霧のせいでその人物の輪郭は一層滲んでいた。それでも僕にはその人物が誰なのか、声ですぐに判別できた。
「白音、長はいつもの場所にいるかい?」
一族の中でも本家と呼ばれる者たちには、幼少の頃から補佐のような者が慣習としてあてがわれた。長は代替わりの際に最も有力な本家の忍びから選出されることになるが、おそらくこれは長に選ばれた際の仕事を考えたものだろう。祖父が先代の長であった僕にもこの白音がついており、彼とは幼少の頃からの顔見知りだった。
僕の問いかけに、白音は僕の方へと歩みを進めた。距離が近づき、その表情がはっきりと目に映る。緩く微笑んだ幼い顔立ち。丸い目。これで僕と一つしか違わないというのだから驚きだ。
「長ならいつもの場所に。—綾目さまが大っ嫌いな継承の間だよ」
その答えは予想していたものと全く同じだったが、僕は白音の声に眉を顰めた。そんな僕を見て白音も慣れたように肩を竦めて笑う。
「さぁ、長も綾目さまをお待ちかねだよ。このまま案内して大丈夫だよね」
白音が手に持った提灯を軽く道の先へと差し向けながら尋ねた。霧の中のうすぼんやりとしたその明かりが、殺した男の絶命した瞬間を思い出させる。握りこんだ拳の爪が手のひらにくい込んだ。
「…よろしく頼むよ、白音」
喉から絞り出した声の硬さに、僕は思わず苦笑する。白音もそれに気がついているのかいないのか、何事も無かったかのように恭しく礼をして僕の前に立ち、その歩みを進めた。
霧の里の中は、里にたどり着くまでとは比にならないほどの濃霧に包まれている。すぐ目の前を歩いているはずの白音の姿でさえ捉えることは出来ず、頼りになるのは霞んだ提灯の明かりだけだった。
ふわりふわりと明かりが揺れながら前へと進んでいく。その明かりを見逃すまいと、じっと見つめてそれを追う。任務を終えた後、長に報告するために毎回こうしているが、いつも夢の中なのではないかと思い始める自分がいる。あの男を殺したのも夢で、この忍びの家に生まれたというのも夢。現実には忍びなんてものは存在していないし、僕の両手も汚れてはいない。
—全部、悪い夢なんじゃないか。
もしそうだったらどんなに良いだろうかと。もしそうだったなら、一体僕は何者で、何をして生きているのだろうと。そんな都合の良い夢の中で生活をする自分を思い描く。
「…着きましたよ、綾目さま」
—いつもそこで、夢が終わる。
振り返り、僕の顔を見た白音はその瞳に何を映したのだろうか。いつも、どこか苦しげに顔を歪めてはそれを隠すように礼をする。
白音の手の中、提灯が揺れた。男の声が聞こえる気がする。「俺を殺したお前に幸せになる価値などない」と。しわがれた祖父の声が聞こえる。その声が、いつも僕に忍びとは何なのかを説いてくる。まるで、呪いのように。
目を閉じ、思い描いた馬鹿な夢から頭を切替える。これは現実だ。あの男を殺したのも自分で、命令されたとはいえ自分で決めたことだった。それを無かったことにしようというのは汚い権力者と何も変わらない。向き合うことだけはやめてはならない。
濃い霧の中、開いた目には目の前にそびえる朱塗りの門が映る。礼を終えた白音の、どことなく心配そうな表情が提灯の明かりにかすかに照らされる。それを見て、僕は表情を僅かに弛めた。
「行ってくる」
僕の声に、白音は唇を引き結んでもう一度礼をした。
朱塗りの門の向こう側には継承の間と呼ばれる部屋が主の屋敷がある。僕がまだ子供だった頃、それはまるで光り輝く城のようだった。質素だが確かに上質な木材で作られた屋敷には様々な装飾が施され、屋敷の庭にも立派な枯山水や鯉の泳ぐ池があった。継承の間も掛け軸や生け花が飾られ、襖には美しい鶯が描かれた景色が並んでいた。それが、かつての門の向こう側だ。
僕は朱塗りの門に片手を乗せ、それを軽く押す。するとそれは音もなくするりと開き、白く濁った霧の中、門の向こう側へと誘う。僕はその中へと足を踏み入れた。
この里が不気味だと恐れられるのは一年中濃い霧で覆われているからだ。それは間違いない。けれど僕は、もっと他に不気味な理由があると思う。不思議なことに、屋敷のある門を1つくぐるとその中はなぜか霧が全くないのだ。
足を踏み入れ、目の前に急に広がった景色。かつての記憶にあるとおり、確かにそこには大きな屋敷と枯山水、池がある。けれどそれは、光り輝く城ではない。
枯山水は手入れされずに朽ち果て、かつての面影は大きな岩や伸びきった松の木、そしてただ転がるばかりの砂利だけに感じられる。池を囲う岩も苔むし、池の表面は緑色の藻が覆っていて鯉の姿など見えない。もはや鯉がいたことさえ夢だったのではないかと思わせるほどだ。
そして何より、屋敷。屋敷全体を覆う不穏な、淀んだ空気。上質な木材で作られていた柱は長らく磨かれておらず、さらに刀傷が目立つ。施されていた装飾も焼けたようなあとが見えるものや、欠けているものがある。襖に何か大きなものでもぶつかったのだろうか。所々、大きくくぼみ内側の木がむき出しになっている。
それを見ながら屋敷の中を歩き、損傷が激しい方へと進んでいく。やがて、僕の前には1つの部屋が現れた。一際美しく装飾が施されていた襖。そして今、一際酷く傷ついている襖。僕はその襖に手をかけ、そっと開いた。