26.残酷な事実
目の前にいる、杏。初めて見た市女笠の下。そこにあったのは、美しく涙を浮かべた紅姫の顔だった。
「…なんで、」
辛うじて零すように紡がれたその言葉に、目の前の紅姫ーいや、杏は小さく困ったように笑った。
「ね、びっくりしたでしょう?…これが、私が隠したかったもの。綾目にとっては残酷な事実、かな」
僕は杏に握られていない方の手で目を覆った。そのまま天井を仰ぎ、暗闇の中で口を開く。
「…さっき、君に要求することは2つだって言っただろう?」
僕の言葉に杏は相槌を打った。僕の手を握る彼女の手は、もう震えてはいなかった。ただ寄り添うようにそこに重ねられている。
「2つ目に、僕のことを忘れて、僕にはもう二度と関わらないように言うつもりだったんだ」
「…分かってたよ。分かってたから、私が先に教えたの。そんなの、無理だって」
感情の機微を読み取るのは得意だって言ったでしょう?と軽く笑う杏に、僕は唇を噛んだ。そうして、目を覆う手をどけて杏を見る。悪戯っぽく笑うその顔は、どこまでも僕が想像していた杏の顔そのもので、同時に、恐ろしく美しいものだった。紅姫の顔のはずなのに、どうしたって僕にはそれが杏自身の唯一無二の顔に見えたのだ。
「…杏、説明してくれるんだろう?」
僕の問に、杏は笑うのを辞めた。黒く濡れた大きな瞳が、僕の泣きそうな顔を映して閉じられる。そうして次に開かれた時、そこにはもう、僕は映っていなかった。
「いいよ。教えてあげるって約束したしね。でもね、その前に一つだけ約束して」
「…何を?」
「今から話すことを綾目が信じても信じなくても良い。でも、もしも本当に綾目が私を殺してくれるのなら、その時はどうか、私のことを忘れて」
残酷な事実に、残酷な願い。僕は顔を顰めた。
「どうして?」
それに杏は微笑んで、はっきりと答える。
「だって、人の記憶にしがみついてその人を一生苦しめるなんて、そんなの嫌よ」
「…」
「大丈夫。今から話すけれど、綾目が殺さなくたって、いつか私は殺される。それに、綾目があの時私を助けなければ、きっと私はもう死んでいたんだから」
けろりと言ってのけた杏。僕は彼女の手を強く握り、それに彼女は苦笑した。「やっぱり優しすぎるよ」と呆れたように笑う彼女に、僕は笑い返す気にもなれなかった。
「じゃあ、本当につまらない、1人の女の子の話、聞いてくれる?」
「…うん。聞くよ。言っただろう?杏が良いのなら、いつでも付き合うって。話し相手になるって」
あの日、光の中で団子を食べながら。お互いに隠し事をして、きっとそれを察したまま、何も言うこと無く。仮初の平穏の中で、そう、約束したのだ。
僕の答えに杏は笑った。笑って、そうして僕の背中に体を預けながら、ぽつりぽつりと話し始める。
「どこから話せば良いんだろう…」
「…どこからでも。杏の話したいところから話してよ」
市女笠を被らない彼女はふふっと笑った。髪が背中で擦れて擽ったい。けれどそれすらも、泣きそうなほど切なかった。
『いいぞいいぞ、さっきまでの冷たい睨み方より今の方がずっと良い。もっと感情を表に出せ、若造』
夏生さんの言葉を思い出す。きっと、あの頃に比べれば僕は感情的だ。随分素直に感情が表情に出るし、色んなことを感じて、色んなことに怒って、色んなことに、どうしようもないほどの虚しさを覚えた。でも、今は思うのだ。あの時、夏生さんに出会うこともなく、忍びを嫌うこともなく、もっと冷酷でいられたらこんなに苦しまなかったんじゃないかと。
感情があったから、誤りに気付けた。夏生さんや杏と出会い、心通わせた。でも、喪うことが恐ろしくなった。
これから告げられるだろう、杏の正体。杏はそれを残酷な事実と言った。きっと、僕の任務と無関係なはずがない。
まだ何も知らない。それでも、頭のどこかで冷静に結論を出している自分がいる。そうして、それを酷く恐れている。
杏の正体はー…
「私ね、紅姫さまの、影武者なの」
そっと紡がれた言葉に、僕は静かにまぶたを落とした。




