24.紅と杏
「なりません、紅姫さま」
小気味よい音を立てて開かれた襖。漏れてくる光。そしてそこに影のように浮かび上がる令嬢の姿と耳に馴染んだ杏の声。
僕は紅姫の首に落とそうとしていた手刀を思わず反射的に止め、短刀にクナイを押し当てたままそちらを見て目をやる。逆光のせいで顔はよく見えないが、浮かび上がる紅の乗った唇に目を奪われる。
「杏…」
紅姫が声を漏らす。呟かれた名前に僕は思わずぴくりと肩を揺らした。僕の上に被さる紅姫は、髪を肩口からひと房垂らしたまま、悔しげに顔を歪めた。
「止めないでくれる?もう終わるから」
そう言って僕を見下ろすその目には冷たい殺意だけが宿っていた。短刀が強くクナイを押す。首を切ろうと力が込められる。僕はそれを受けたまま、ただ混乱に眉を寄せた。
『二条家の令嬢というと、紅姫ね。二条家の一人娘だと聞くわ。彼女、あまり社交界には現れないから私も1度しかお会いしたことないけれど、でもまれに現れるとすごく話題になるの。年頃の令嬢で彼女に憧れない人はいないもの』
僕が杏に紅姫のことを尋ねた時、確かに彼女はそう言っていた。一度しか会ったことがない、と。でも紅姫は明らかに彼女を知っているし、彼女もまた紅姫に何度も会っている様子だ。あの時の言葉は嘘だったのか、それとも、目の前にいるのは同じ声を持つ他人なのか。
市女笠を被り、顔を隠す杏。僕が市女笠を外すように促しても顔に傷があるからと言って頑なだった彼女。偽名を疑った名前。正体の知れない、どこかの令嬢。最初から、彼女の全てがひどく朧げで全部嘘のような気がしていた。彼女が紅姫ではないのかと何度も疑った。そんなはずはないと冷静に否定しながらも、どこか嫌な予感がしていたのだ。
でも違った。紅姫と彼女は別人。でも、明らかに何かの関係がある。
鈍く光る短刀がわずかに首に触れる。その瞬間に杏と呼ばれた女性が小さくため息を落とした。
「おやめくださいと言っているではないですか。ここは四条家。紅姫さまのご邸宅ではありません」
「—だから何だというの。お前も私に逆らうのね、杏」
不機嫌に声のトーンを落とした紅姫。首に食い込む刀の感触に、僕はクナイに力をこめて短刀を弾き、紅姫の下から飛び退いた。首からわずかに滲んだ血を拭い去りながら紅姫と杏を見る。紅姫は体勢を変えずに固まったまま短刀を失った片手を畳にゆっくりとおろし、ため息をついた。
「…逆らう逆らわないではないです。ここで人を殺すのですか。四条家に迷惑がかかります」
「私は二条家よ。四条家なんて知ったこっちゃないわ」
—優しくて、家柄も良くて、見目麗しいみんなの憧れ。
僕は目の前の傲慢で救いようのない貴族の姿に何かが冷えるのを感じた。やっぱり貴族なんて碌でもない。上流階級なんて上辺ばかりを気にするクズばっかりだ。結局あの完璧すぎる紅姫の噂だって作り上げられた外面。慈善事業の話だって嘘なのだろう。だから紅姫は慈善事業の話を出した時、どこか不機嫌そうだったのだ。上部だけを見て褒め称えれば良いのに、僕がそれを真面目に受け取って詳しく聞こうとしたから。彼女の自慢の仮面を剥ぎ取ろうとしたから。
紅姫はゆらりと立ち上がり、開いた襖から漏れる光の中で影になる。その顔はもう、こちらを向いていない。今彼女が見ているのは、自分の行動を妨げた杏だけだった。
「杏、お前が私に逆らって良いと思っているの?」
「…」
「もう一度身の振り方を考えるのね。自分の立場をしっかり理解しなくちゃ。—あぁ、理解できるようにまた私が手伝ってあげようかしら」
くすくすと笑う紅姫。小さく、怯えるように肩を揺らした杏。紅姫はゆっくりと彼女の方に歩みを進めた。着崩れした着物が畳を擦り、音を立てる。影絵のように二人が重なった時、その中で紅姫の手に持つ短刀だけが鈍く光っていた。
「今度はどうお仕置きしてあげようかしら?心配しないで、あなたの生きている意味…その綺麗な顔だけは傷つけないであげるわ」
光る短刀が怪しくゆらめいて、やがてそれは振り上げられる。杏の影を覆うように紅姫の影が被さる。僕は目を見開いて、次の瞬間には紅姫と杏の間に立ち入っていた。
振り下ろされる短刀と、わずかに驚きながらもニヤリと笑った紅姫の醜い顔。音が遠のいて景色がスローモーションに映った。クナイで短刀を受ける隙は無く、僕は舌打ちして左腕を自分と短刀の間に差し入れながら杏を背中で遠くへ押しやった。
ずぶりと短刀が腕に刺さり、わずかに血が顔にはねる。けれど焦っていたせいなのか、まるで痛みを感じることはなかった。短刀が刺さったのを見た紅姫の顔にも血が飛んでいたが、彼女の顔には喜びしか浮かんでいない。僕はそれの方がよほど恐ろしかった。
腕に刺さった短刀をそのままに、紅姫を突き飛ばす。彼女は短い悲鳴をあげ後ろに尻餅をつく。その一瞬の隙を狙って、僕は後ろに庇った杏を肩に抱え上げた。
「え…っ!」
「そのまま大人しくしていて」
驚いたように声を上げた杏は、僕の声を聞いてハッと息を呑んだようだった。「綾瀬…?」と僕の偽名を口にする彼女に僕は胸が痛むのを感じた。
そうじゃなければ良いと思った。紅姫が杏でなければ良いと。でもそれは別人だったら良いというわけではない。僕の問題に彼女を巻き込むことがなければ良いと、そう、思っていたのに。
僕は杏を担いだまま襖の向こうに飛び出し、中庭から屋外に出た。濃紺の世界の中、空に浮かんだ二日月はまるで誰かが嗤っているその口元のようだった。




