23.表裏
ー貴族なんて嫌いだ。特権階級なんて滅びれば良い。
それはずっと、僕の本音で、今も変わることの無い叫びだった。自分の栄華は誰かの努力で支えられている。そんなことも理解せず、“血”だとか“生まれ”だとかに拘っている。高飛車に振る舞い、己の権力を誇示する。自分の手を間接的に汚しているのに、それを見て見ぬふりして僕らに唾を吐きかける。
なんて、愚かな人たち。なんて、救いようのない…
任務の度にそう思った。拳を握り、歯を食いしばって耐えながら、いつも、心の中は荒れ狂っている。冷静な仮面を被って、いつだって怒っている。
それが、僕の貴族への思い。今までずっと、本当にそうだったのだ。
○○○
「こんにちは、はじめまして。紅姫さま」
にこやかな笑みを浮かべ、僕は紅姫の前に立つ。直前まで彼女と話していた令嬢は呆気にとられ、口を間抜けに開いたまま僕を見ていた。紅姫の切れ長な目がこちらを認め、やがて柔らかく微笑む。全てがスローモーションにさえ見える、優美な動き。彼女はそっと口元を着物の袖で隠し、僕に向き直った。
「こんにちは。私は二条家の紅と申します。申し訳ないのだけれど、あなたのお名前を伺ってもよろしいかしら」
にこやかな笑みの裏、けれどそこには確かな意志を秘めた眼差しがあった。ごまかしはきかない。僕は項を伝った冷や汗を無視して、そっと口を開いた。
「私の名前は綾と申します。家名は紅姫さまのお耳に入れるのが恥ずかしいほどの田舎から参りましたので、どうかご容赦ください。ーどうしても、あなたさまにひと目お会いしてみたかったのです」
腰を折り、丁寧にお辞儀する。周囲の令嬢は困惑したような声を上げた。
家名を名乗った紅姫さまに対して、名前だけを伝えるのは無礼ではないか。不躾にも話しかけておきながら先に名乗らせるとは。
ーあれは一体、誰なんだ。
そんな声を聞きながら地面を見ていると、やがて僕の耳に凛とした声が響いた。
「おやめなさい、陰口なんてご令嬢方のすることでは無いわ。ーさあ、綾さんも顔を上げて」
その声に僕が顔を上げると、紅姫はほほ笑みを浮かべて僕の方へと手を差し伸べた。僕がそれをおずおずとると、少し強引に引き上げられる。必然的に、真っ直ぐ立たされる形になった。突然のことに目を丸くしていると、彼女は少しいたずらっぽく笑みを浮かべる。
声も違う。佇まいも、口調も、まとう雰囲気も違う。それは杏のものと、似ても似つかない。けれどどうしてか、こんな一面は杏を思い起こさせる。ものをはっきりと言い、自分の正義を真っ直ぐに信じて、それで少し、強引なところ。いたずらっぽい笑み。
密かに眉を寄せていると、紅姫は僕の手をすっと離してこれまで通りの上品な笑みを浮かべた。
「遠いところからわざわざありがとう。けれど、どうしてそんなに私に会いたかったのかしら」
「…実は、紅姫さまが行っているという慈善事業の話を伺って、興味を持ちまして」
不自然にならず、しかも紅姫自身が僕に興味を持つ口実。思い当たるのは慈善事業の話にほかならなかった。
紅姫は僕の言葉に目を見開き、そして一瞬、あらゆる感情が削ぎ落とされたような虚無を顔に浮べた。それは怒りにも見え、また、哀愁にも見えた。あまりにもこれまでの紅姫からかけ離れたそれは一瞬で消え去ったが、僕はそれをそっと見て、それから何も無かったように無邪気な笑みを浮かべて見せた。
「疫病で親を失った子供たちへの経済的支援ーとても、素晴らしいと思います」
「…ありがとう、そう言ってもらえてとても嬉しいわ」
上品な笑みと優しい声。けれど確かにそこにある困惑。おかしな話だ。その慈善事業は確かに変わってる。でも、彼女自身が始めたことのはずだ。何をそんなに戸惑って…いや、恐れている?
「…そうね、もし綾さんのご都合がよろしければ、少し私と二人でお話しないかしら」
周囲がざわつく。紅姫と二人で会うなんて今までになかったことだろう。僕は笑みを浮かべそうになるのを堪えながら「喜んで」と返す。
紅姫の微笑み差し伸ばされる手を僕は掴む。細く白い指。冷たい手。道は開けたのか、それともー…
僕は彼女の導くままに、個室へと誘われた。
○○○
「…まさか、慈善事業なんてね」
個室へと入り、襖をピシャリと閉めた紅姫はそう呟き、美しいながらもどこか冷たい笑みを僕に向けた。ぞくりと背筋をふるわせるそれに、僕は冷や汗を流しながら微笑む。自分は世間知らずの令嬢であるということを意識しながら。ほんの少し、申し訳なさそうにしながら。
「なにか気に触ってしまいましたか」
意識的に少し声を震わせて言葉を紡ぐ。紅姫はふふっと声を漏らし、それから「いいえ?」と答えた。
「あなたは何も悪くないわ。ーただ、ちょっと思い出して腹が立っただけよ」
紅姫はそう言うと、部屋の奥へと移動して腰を下ろした。僕の方へも座るように促し、僕は彼女の目の前に腰を下ろす。紅姫の後ろ、部屋の隅にある行灯の中、蝋燭がゆらゆらと揺れる。灯りが、ちらつく。
「紅姫さまも腹を立てられることがあるんですね」
口元を袖で隠してそう言い、小さく笑う。それに紅姫も同じように小さく笑って返した。
「えぇ、そりゃあもう。私だって人間ですから」
紅色の衣。そこに描かれた大きな芍薬の柄。
「ねぇ、綾さん。お伺いしたいことがあるのだけれど」
「なんでしょう?」
目の前の、まさに芍薬のような女性が微笑む。
「あなた、田舎の令嬢だなんて嘘でしょう」
嘘のように綺麗な笑みのまま、彼女は淡々とそう言ってのけた。あまりにも自然すぎて、僕は一瞬反応が遅れる。
ー今、なんて言われた?
さっきからずっと、頬を伝う汗。嫌な音を立てる心臓。ひきつりそうになる笑顔。僕は頭の片隅で鳴る警鐘を無視したまま、「なんのことでしょう」と首を傾げた。
「もしも家名を申し上げなかったのが気に触ったのでしたら謝罪申し上げます。ーですが、本当に田舎から出てきたのです。この京の町ではなく、もっと南の方から」
紅姫は社交界の花。彼女に憧れる年頃の令嬢は大勢いる。彼女の名前はみなが知っている。でも、紅姫は令嬢の名前と顔を全員把握している訳では無いはずだ。一体、何人の令嬢がこの世にいると思ってる?
僕の言葉に紅姫は遠くに視線を投げ、どこか投げやりに笑った。
「…そうですね、確かに私の存じ上げない令嬢である可能性は否めません。ですが、あなたは少なくとも貴族ではない」
紅姫の切れ長な目が僕を捕える。その顔に、今度は笑みは浮かべられていない。ただ、真っ直ぐな目と、引き結ばれた口元。
「嘘、つかないでいただけますか」
殺気にも似た怒りをにじませた声に、僕は拳を固く握る。
ー甘かった
もう取り繕う必要はないのだろう。何で気が付かれたかは分からないが、それでもきっと、彼女に嘘は通じない。それだけは分かる。隠すことなく僕は顔を歪める。
白音の言葉を思い出す。最終試練がこんなに簡単であるはずがない、というあの言葉を。そして伯父さんの底意地の悪さを。
最終試練と長決定戦の同時開催。一筋縄でいくはずなんてなかったが、兄弟に気を取られすぎた。調査して得た紅姫の人物像。あまりにも完璧すぎるそれに、違和感を抱いていたはずだった。それが、作られたものでは無いのかと。それすなわち、紅姫がそれほど頭が切れる者である可能性を。
「…どうしてお気づきに?」
声色を元に戻し、僕は“令嬢”の皮を破る。取り繕うことをやめ、まっすぐに殺意を向ければ紅姫は僅かに怯んだ。
「ー男、なのね」
「あぁ、そこまでは流石にばれませんでした?なかなか似合っているでしょう」
挑発的な笑みを浮かべる。冷や汗は無視する。大丈夫、恐れるな。ここで怯むな。まるで自分の方が優位であるかのように見せるんだ。
「ーで、どうして僕が令嬢ではないと気づかれたんです?」
行灯の灯りで顔に影が落ちる紅姫。その目は悔しげな光を抱えたまま、こちらをキッと睨んだ。
「…違和感なら山ほどあったわよ。自分から名乗らない、家名を言わない。令嬢方をおしのけてまで私に話しかけるその図々しさ。ただ、鎌をかけただけ」
「…へぇ?怪しいと思ったのに僕と部屋に二人きりになったんですか。随分な余裕ですね」
僕の言葉に紅姫は拳を握りしめた。悔しげな顔はやがて無表情になり、それからまるで別人のように話し出す。
「はっ、あんたの本性がそれなら私だってもう取り繕わないわ」
そう言って不敵な笑みを浮かべると、瞬時に僕との距離を詰め、勢いそのままに僕を押し倒す。暗い部屋、首筋に当てられた刃の冷たい光。僕はそれを横目に彼女を見あげた。結い上げられた髪が一束こぼれ、僕の顔にかかる。
「なるほど、それがあなたの本性ですか。紅姫さま」
なかなかに筋が良い動き、殺気に僕は緩みそうになる口角を必死に抑える。彼女は僕を冷たい目で見下ろし、刀を固く握りしめたまま口を開いた。
「私はねぇ、自分の思い通りにならないものはいらないの」
「…」
「みんなみんな、私を綺麗だって褒めて、完璧だって噂して、そうして浮ついてれば良いのよ。ーあんたみたいな、反抗的な奴はいらない」
完璧な。まるで作られたかのような。そんな噂の、真実。僕は彼女の言葉に、顔に、あの冷たい気持ちが渦巻くのを感じた。
ーやっぱり、貴族なんて大嫌いだ
「完璧なあの紅姫の本性がこんなに悪女だったなんてな。笑わせる」
心の底からの声。そして同時に、彼女を挑発するためにわざと言った言葉。僕は神経を尖らせた。紅姫が怒り、僕を殺そうとする。その、一瞬の隙をついてー…
殺すつもりは無い。今はまだ。彼女の企みを暴くんだ。
紅姫が動く。その動きが、スローモーションに映る。僕は素早くクナイを刀に押し当て、そうして同時に、紅姫の首に手刀を…
全てが一瞬で、けれどスローモーションで。永久に伸びるかのようなその一瞬を打ち破ったのは、襖が開かれたスパァンっ、という小気味良い音と、その向こうから漏れてくる灯り。それから…
「なりません、紅姫さま」
耳にすっと染み入った、杏の声だった。




