22.空耳
「こちらへどうぞ、綾さん」
「ありがとう」
凛に差し伸べられた手を取り、中庭から屋敷の中へと足を踏み入れる。光溢れる景色の向こう側、そこはまさにきらびやかな世界だった。部屋中に焚かれた灯り。会場を華やかに包み込むお香。令嬢が着飾る華やかな着物たち。それを見て僕はそっと冷めた思いを胸に抱く。
「佐竹の呉服屋は質が良いし柄も良くて最高だわ」
「あら、三橋の着物だって素敵ですわよ」
そんなどこの着物が良いとか悪いとか言う話や、どこそこの殿方がかっこいいという話、最近始めた事業の話など、上辺ばかりの自慢が並ぶ。見栄を張っているのかいないのか、どちらにせよ自分が上だというのを競っているようにしか聞こえない。
「綾さん、大丈夫ですか」
ふと、僕の右手を凛が思考を引き戻すように強く握った。僕はそれで自分の手が思ったよりもずっと冷たかったことに気がつく。けれどさすがと言うべきか、表情だけは意識せずとも崩れてはいなかった。
「…えぇ、大丈夫ですわ」
「そう、なら良いのだけれど。具合が悪くなったらすぐに言ってくださいね」
凛の気遣いに僕は柔らかく笑った。凛が泣いていた理由は分からないが、どこの家のものかも分からない僕に親切にしている姿を見ると、どうにも貴族らしくない様に思った。それこそ、まるで杏のように。いや、杏よりはよほど上品なのだが。
霧の門に忍びらしくない者がいるのと同様に、貴族の全員が僕が忌むような者である訳では無いのだろう。そんな当たり前のことを思って、僕はまた作り笑いを浮かべる。せめて、凛や杏にくらいは素直に笑えれば良いものを。
「あっ、いらしたわ。あちらが紅姫さまよ」
暫く会場内を彷徨いて、やがて凛は声を上げた。その言葉に僕は反射的に凛の指し示す方向を見る。
ーあれが、紅姫。
優しく、美しく、そして社交界の花。流行に敏感、それでも悪戯に飾り立てることは無い。まるで意図されたかのように悪い噂の一切ない人物。
凛が指し示す場所には、確かに、一人の女性を中心として令嬢の円ができていた。切れ長の目と細い鼻。唇には薄く乗った紅。あでやかな黒髪は結い上げられ、美しい紅色の衣を纏う。どこか浮世離れしたその姿とは裏腹に、周囲の令嬢はみな笑顔で、彼女も気さくに話しかけてはコロコロと笑い声を上げている。
完璧すぎる令嬢。そんな言葉が良く似合う。
その姿を目にして、やはり思うのは「何故」という疑問だった。何故彼女は暗殺対象となったのだろうか。それも、僕の依頼主の他に少なくともあと3人、依頼主がいる。少なくとも計4人からだ。
彼女のあの姿が、本当に仮初のものなのだろうか。あまりにも完璧すぎるそれは、いっそ疑念すら抱かせた。もしそうだったならば暗殺の理由は分かる。彼女が何かを本当に企んでいるとしたら。ーそれでも、じゃあ一体、彼女はどうして慈善事業を行っているのだろうか。
まるで照明があるかのように思う。彼女がいる場所が舞台で、当然、主演は彼女。そんな眩いシーンを、暗い客席から僕は目を細めてじっと見る。一客として。そして同時に、刺客として。
混乱する僕を他所に、凛はぐいっと半ば強引に僕の手を引いた。
「さあ、早くあの中に入らなくちゃ。紅姫さまがお帰りになる前にお茶の話を聞かなければなりませんもの」
令嬢の輪の中に入る。1人、冷めた僕を取り残して。唯一繋がれた凛の手だけが僕をここに繋ぎ止めている。楽しげな令嬢たちの声。それに返す、紅姫の返答。その声が杏のものとは違っていることに、どこかほっとしていた。やっぱり杏は二条家の令嬢ではなく、あれは僕の思い過ごしだったのだろう。
近くで見ると、余計に眩しかった。貴族としての品格を備えている紅姫。けれど他の令嬢のように奢ることは無い。もしも彼女が本当に清い人間であるのなら、僕はこの腐った世界の唯一の光を消すことになるのだろうか。今まで何人もの善人を手にかけてきたというのに、今更その事実が恐ろしい。
紅姫の浮かべる美しい笑顔。ー僕はいつか、それを奪うのだ。
暗く沈む思考。貼り付けた仮面の裏で失われていく表情。目に宿る冷めた殺気。あぁ、僕はそんな僕が…
「ー…」
堕ちていく思考の中、ふと聞こえてきた声に僕は目を見開いて顔を上げた。周りに大勢いる令嬢の顔を見回し、目当ての人物が居ないか探す。さっきまでの冷えた思考が嘘のように、暖かくて切ない気持ちに塗り替えられる。心臓が早鐘を打った。心做しか、汗ばむ。貼り付けた仮面が剥がれ落ち、僕は必死になった。気がつけば凛の手も離している。
「綾さん…っ?!」
いない、いない、いない…!!
輪になっている令嬢を少しづつ押し退けながら探す。聞こえてきた声の主である彼女ー杏を。
居たはずなんだ。人よりもずっと敏感なこの耳が、確かに彼女の声を聞いたのだ。
どうしてだか、僕は泣きそうになった。探しても居ない。いや、見つけられないのだ。僕は彼女の顔を知らないし、もしかしたら本当の名前すら知っていないかもしれない。そしてなにより、僕は今変装している。彼女だって僕に気が付きはしない。そんな客観的な事実に気がついているのに、僕はどうしても彼女に会いたくて仕方なかった。標的である紅姫との接触機会であるにも関わらず、それを差し置いても、彼女に。
『あら、でもさっきまであんなに物欲しそうな顔をしてたじゃない。いいなぁって顔に書いてありましたから』
そうだよ、杏。僕は欲しいんだ。たとえ望む資格がなくたって、君がくれた団子を食べる、あの平和な時間が。
僕はきっと、逃げ出したいんだ。
その事実に気がついてしまって、僕は令嬢の輪を出てすぐの所にへたりこんだ。膝を抱えて蹲り、震える手で自分を抱きしめる。
駄目だ。何をしている。標的の目の前で、こんなに目立つ場所で。リスクを犯して、変装してまでここに来た意味が無くなってしまう。
忍びとしての自分がそう急き立てても、僕の体は動かない。どうしようもなく、聞こえたはずの杏の声に心がかき乱された。
第一本当に聞こえたのか?お前が会いたいと望むから、声が聞きたいと願ったから聞こえただけなんじゃないか?
ーうるさい、黙れ。
冷静になれよ、この場所にたとえ本当に彼女がいたとして、お前に見つける術はないじゃないか。
ーそんなこと、分かっている。
存在するかも分からないものに縋るのはやめろ。お前が守りたいものは何だ。お前は何のために今までその手を血に染めたんだ。どうして、夏生さんを救えなかったんだ。
『綾目さまのためならどこまでも。』
ー…分かっているさ、そんなこと。
そこでようやく、僕は顔を上げた。ゆっくりと立ち上がり、令嬢の集まりへと視線を戻す。
わかっているさ、全部、僕の覚悟が足りていないことが原因だってことくらい。
拳を固く握りしめて、もう一度輪の中へと足を踏み出す。僕の後を追いかけてきたのだろうか、その時丁度凛が輪の外へと飛び出してきて、僕を見つけて駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか、綾さん!ごめんなさい、気が付かな、く、て…」
やっぱり彼女は優しい。そう思いながら、僕はそれを無視するように歩みを進めた。凛の呆気にとられたような声は鼓膜を揺らしたが、心を揺らすことはなかった。令嬢の輪の中へと踏み入り、その歩を紅姫の方へと進める。
忘れるな、覚悟を。忍びたるもの、常に冷静であれ。冷酷であれ。己というものを持つな。
任務は令嬢の企みを暴くこと、そしてその後の暗殺だ。だからまず、最優先であるのはー…
「こんにちは、はじめまして。紅姫さま」
標的に接近し、仲を深めること。ただ、それだけだ。




