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しのぶれど。  作者: 朝月夜
◆『懐古』編
22/34

19.懐古(終)

 継承の間に行くと、そこにはもう、本家の人間が全員揃っていた。長を上座にして、目の前に伯父さん、父、そして夏生さんが並ぶ。そこから遠く離れ、入口の傍には鬼灯や椿、牡丹が並んでいて、僕もその中に加わった。


「ー揃ったか」


 僕が座ると、不意に長は口を開いた。しゃがれ声が重く響き、継承の間の空気が変わる。隣に座っていた鬼灯も最初は僕の方を見下すような目で見ていたが、長の一声で視線を前へと向けた。


「朔、晃、夏生」


 1人ずつ、名前を呼ぶ。夏生さんの名前が呼ばれた時、僕は思わず体を揺らしてしまった。


「これより、以上3名による決闘を行う。これは、次代の長を決める上で最重要事項である」


 膝の上に載せた両手を固く握りしめた。爪が強く皮膚に食いこんだが、痛みなど気にならなかった。僕は夏生さんを見た。僕に背を向けた夏生さんは、今、どんな顔をしているのだろう。大きな背中が、どこか寂しげに見える。


「候補者三名は朱塗りの門の内側、庭園においてのみ戦闘を許可する。ただし勝利条件はあくまでも相手を戦闘不能にすることとし、死亡させた場合は失格とする。候補者を除く子どもたちはこの継承の間で勝負を見守ること。良いな?」


 内容に異論はない、というか異論を唱えることは許されなかった。誰も何も言わず、ただ静かに沈黙を守る。


 決闘の内容に死亡させた場合は失格というルールを加えたのは、本家の人間を絶やさないためであり、同時に身内に対して冷酷になりきれなかった祖父の優しさだろう。祖父は霧の門の長として十分なほどの才能と合理性、冷酷さを兼ね備えていたが一方では身内に甘かった。だから僕の反抗も目を瞑ったし、その甘さゆえに人望にも恵まれた。


「では、候補者は庭へ」


 長の号令。立ち上がる三人の候補者。部屋から出る襖は僕の背後。振り向くだろう夏生さんと目を合わせる勇気がなくて、僕はさっと目を伏せた。僕の後ろの襖が開かれ、三人は出ていく。膝の上の拳を握ったまま、僕は唇を噛んだ。


 三人が出て行った気配のあと、僕は開けられた襖から外を見た。縁側に立つ長。庭に向き合う候補者三人。


「では、はじめ」


 長の声に、三人が暗器を構えた。そして—…


 響く、金属音。


 —予感がある。きっと、本気になった夏生さんは勝つだろうという予感。


 候補者は三人。伯父さん、父、そして夏生さん。父はきっと、最初に負ける。というか土俵にすら立っていないだろう。息子である自分が言うのもなんだが、父は小心者の割に野心家で、他力本願だった。父に忍びの才はなく、度胸もない。僕に手を挙げたくらいだ。部下にもきっと挙げていただろう。人望だって、ない。だからこそ自分の息子の才能に賭けたのだろうが、生憎、僕は霧の門に反発した。


 そして最有力候補は伯父さんだった。子供は三人もいるし、それぞれ霧の門にふさわしい歪み方をしていた。そしてそれは伯父さんも同様。忍びの才にも恵まれ、傲慢ではあったが決して努力を怠ることはなかった。純粋に強さと権力を追い求め、それを隠すことがなかった伯父さんは、逆にその姿に憧れる人も多く、人望もある。ただ欠点があるとすれば—…


「なあ、綾目」


 不意に隣に座っていた鬼灯が僕に声をかけた。僕が彼に目を向けると、彼はこちらを見ておらず、ただ真っ直ぐに庭を見ている。


「—お前は、誰が勝つと思う」


 その声にも、目にも、いつものような侮蔑は込められていない。僕は鬼灯の視線を追って、庭を見た。もうすでに父は戦いから弾かれていた。誰にやられたのか、利き手から血を流してそれを押さえて座っている。その目は悔しげに残り二人を睨んでいた。


 夏生さんと、伯父さんの一騎打ち。


 伯父さんは短刀を逆手に持ち、夏生さんめがけて一気に距離を詰める。夏生さんはそれを冷静に見極め、焦ることなくかわし、振り返りざまの伯父さん目掛けて暗器は使わずに肘を打ち込む。追撃しようとした伯父さんは目の前に迫る夏生さんの肘に目を見開き、すんでのところで身を捩って躱した。不利だと判断したのか、距離を取る。


 伯父さんの野心に満ちた、けれど焦りを滲ませた目。一方で残酷なほどに冷え切った、夏生さんの目。そこに焦りはなく、あるのはただ忍びらしいと言うべき、威圧感。


 月のない夜、暗闇の中僕を見下ろした、あの夏生さんだった。


「…勝つのは、夏生さんだ」


 呟いた言葉に鬼灯が一瞬僕を見る気配がする。それから僕を鼻で笑った。


「まだ信じるのか、お前は。あの()()()が勝つって」


「…」


「—でもまぁ、多分、そうなるだろうな」


 聞こえた声に僕は一瞬、鬼灯を盗み見た。自分の父親が苦戦する姿を見ていると言うのに、そこには心配などなかった。あるのは冷静さと諦め、そして侮蔑。鬼灯も野心家で傲慢だった。そしてそれに見合うだけの努力と才能。父親にそっくりな彼もまた、たとえそれが父親であったとしても弱者に興味はないのだろう。—僕も自分の父を見ていた時、あんな目をしていたのだろうか。


「あんな夏生さん、負け犬とは呼べない。見たことない。—何があったか、お前、知ってるだろ」


 鬼灯が探るような目を僕に向けた。僕にいつものような夏生さんに対する一筋さがないのも彼に疑念を抱かせたのだろう。僕はそれに曖昧に笑った。


「さあ。知ってたとして、鬼灯はそれを聞いてどうしたいのさ」


 鬼灯の目に映る、口元だけが笑った僕の顔。目が笑っていないその顔は、どこか恐ろしさを感じるものだった。鬼灯はそれに目を細め、顔を歪めた。鬼灯は僕から顔を逸らす。僕はそれに肩をすくめて、また庭に視線を戻した。


 伯父さんが夏生さんを睨む。夏生さんは動かない。睨み合いの中、夏生さんは口を開いて何か言葉を紡いだ。それを聞いた伯父さんは顔を赤らめ、そして衝動に任せるままに再び攻撃を仕掛ける。怒りで頭に血が昇っているのだろうか、冷静さを失った、見え見えの攻撃。夏生さんは冷たい笑みを浮かべて、そして—…


「—そこまで!」


 祖父の号令で、全てが終わった。庭で立っていたのは夏生さん一人。息を上げることも傷を負うこともなく、ただ悠然とそこに立つ。それはすでに、長の風格だった。


「わあ、叔父さんやるねえ」


「ねえ、やるねえ叔父さん」


 緩い緊張感のない声。同じような言葉を繰り返したのは双子の椿と牡丹だった。二人は眠そうな垂れ目を擦りながら、まるで鏡合わせのように髪を結ってそこに座っていた。やる気のなさそうな双子。けれど任務となれば彼らは嘘のように残忍になる。二人で一人。それが口癖の彼らはいつも二人で任務を行うが、双子であるだけに息が合うらしい。彼らは僕と鬼灯を見て無邪気な笑みを浮かべた。


「次は僕らの番だねえ」


「長は僕らが貰うけどねえ」


 ねえ、と二人で顔を見合わせる。そうしてバイバイ、とゆるく手を振って去っていった。長が決まって仕舞えば、もうここにいる義務はない。鬼灯は双子の後ろ姿に舌打ちする。鬼灯にとって一番気に食わないのはきっと僕だろう。才能を持っていながら一族に反発する僕が理解できなくて気持ち悪いはずだ。でもそれと同時に、彼はあの双子を嫌っている。


「舐めた奴らだぜ」


 そう言うなり、僕の方を見て僕にもまた舌打ちした。


「親父が夏生さんに負けたとしても、俺はお前に負けない。お前は一生負け犬のまま、地面を這いずってれば良いんだ」


 捨て台詞のように吐き捨てた言葉。僕の返事を待つことなく、鬼灯もまた去っていく。一人、継承の間に取り残された僕はまた襖の向こうに目をやる。光の中、勝者として佇む夏生さんは地面を見つめて立ち尽くす。孤独に、寂しげに。


 夏生さんは変わってしまったのか。変えたとしたら、そこにあったものはなんだろう。僕が諦めたくないのは、今の夏生さんじゃあない。—僕の味方でいてくれた優しい夏生さんだ。


 僕は立ち上がる。そうして襖を超えて、縁側を踏み締め、靴を履かないまま、庭に足を下ろす。


「綾目」


 祖父が縁側で僕を呼び止めた。僕はそれをゆっくりと振り返る。祖父は僕を真っ直ぐに見て、小さく首を振った。


「やめなさい」


 心配の滲む祖父。最終試練のことを全て知って、それを無効としたのだ。夏生さんに何があったのかも、僕が今こんな顔をしている理由も、きっと彼にはお見通しだ。


 —あなたは、優しすぎる


 僕は祖父の言葉に首を振る。僕の目を見た祖父は、諦めたように目を閉じた。僕は逃げるわけにはいかない。いつも逃げている僕だけど、きっと、ここで逃げたら一生後悔する。雛菊の手を掴めたのも、壊れていた僕が自分を取り戻したのも夏生さんのおかげだ。夏生さんが、僕に逃げることを許さなかったからだ。だから今度は僕が夏生さんを捕まえないといけない。手が届く、今のうちに。


 砂利を踏み、夏生さんの方へと歩みを進める。足音を消しているわけでも、気配を読ませないようにしているわけでもない。きっと、夏生さんは自分の方に近づく僕に気がついている。それでもこちらを向かないのは。逃げないのは。


 僕はそっと、夏生さんの手を掬った。そうして緩く握りしめる。夏生さんの体が小さく揺れた。俯いた顔を隠す髪の中から、夏生さんの目が僕を見る。丸く見開いた目は、今にも泣き出しそうな気がした。


「帰ろう、夏生さん」


 声を出した時、それが小さく震えていることに気がついた。見開いた夏生さんの目に、泣きそうな僕が映る。


「—価値判断を他人に委ねたわけでも、考えを放棄したわけでもないよ。僕が決めたんだ。僕は、夏生さんと帰りたい」


 夏生さんは口を動かした。何か言おうとしているのに、その言葉はいつまで経っても音にならない。


 僕は夏生さんの手を握る手に力を込めた。


「夏生さん、僕の味方でいてくれますか」


 以前、答えをはぐらかされた問。夏生さんは顔を歪めて僕に真正面から向き合った。


「—春香は…」


 短く紡がれた言葉に僕は目を伏せる。失われた命。奪った目の前の人間。無効になった最終試練。でも、僕はそれをなかったことにはしないし、そのことで夏生さんを許すつもりもない。犯してしまったことは、変わらない。それでも今までこの人に救われた事実がなくなるわけじゃあない。


「…許さないけれど、それでも、僕はあなたから逃げたくないです」


「…」


「僕はあなたと向き合うのに、あなたは自分の罪から目を逸らすために僕から逃げるんですか」


 夏生さんが僕を見る。冷たい瞳は温度を取り戻し、潤む。僕の手を夏生さんは緩く握った。夏生さんは何も言わなかったが、僕はそれに小さく微笑む。


「ね、夏生さん。—帰ろう」


 悲痛そうに歪んだ夏生さんの顔。夏生さんが何か言おうと口を開きかけて、そして…


「待て」


 それは、伯父さんの言葉に遮られた。僕と夏生さんは声の方に反射的に振り向く。伯父さんは少し離れた夏生さんに倒されたところで気を失っていたが、意識を取り戻したのだろう。ゆらりと体を起こし、憎しみに染まった顔でこちらを見ている。体から漏れ出る殺気に、僕は眉を顰め、夏生さんは僕を庇うように前に出た。


「認めない…俺はお前になど負けていない…っ!!」


 絞り出すようにそう叫ぶ伯父さん。夏生さんの僕を握る手に力が籠る。


「—もう勝負はついたはずだ。そうだろ、親父」


 伯父さんから目を逸らすことなく、夏生さんは縁側にいる祖父に声をかけた。祖父はそれに頷き肯定する。


「諦めろ、朔。例えこの勝負に勝っていたとしても、お前は長の器ではない。強さを追い求めすぎたお前は()()()()()()()だ」


「…っ!!」


 祖父の言葉に伯父さんはいっそう憎しみを滲ませた。祖父は縁側を降り、僕らの方へと来る。


「夏生がやる気になった以上、一番長にふさわしいのは夏生だった」


 祖父は夏生さんの方に手を置き、憎しみに顔を歪める伯父さんを見下ろした。それは、冷たい目だった。


「お前に最初から勝ち目はなかったよ、朔」


 —結局、祖父は優しい。僕の反抗に目を瞑ったように、夏生さんにも目を瞑っていたし、きっと、陰で一番寵愛を受けていたのは夏生さんだったのだろう。負け犬は、負け犬ではなかった。ただそれだけのこと。


 伯父さんの歯軋りする音が聞こえる。冷静さを失った彼には何も見えていない。正しい判断など下せないだろう。何が起こってもおかしくない。例えば、夏生さんに襲い掛かっても。


 そう、思っていた。僕らは伯父さんを警戒していた。()()()()()()。目の前から放たれる殺気の凄さに、後ろから襲い来るもう一人の野心家を見落としていた。


「…っ?!」


 どん、という音と背中に感じた強い衝撃、そしてそこから広がる熱に僕は目を見開いた。咄嗟に振り返ると、そこには無表情に僕を見つめる父がいた。


「父…さん?」


 僕の口から血が溢れる。喉の奥から這い上がってくる感覚に、僕は咳き込んだ。僕の咳でこちらを振り返った夏生さんと祖父が今度は目を見開き、夏生さんはすぐに僕から父を引き離した。


「綾目…っ!!」


 膝から力が抜けて、崩れ落ちたのを夏生さんが抱え込む。それはまるで初めて僕らが出会ったあの時のようだった。


 —刺された


 体を襲う痛みでそれを自覚して、額に脂汗を滲ませながら自嘲する。どうして背後に暗器を持った人間が居たのに油断して気が付かなかったのだろう。僕は確かに憎しみに顔を歪めた父を見ていたのに。父も目の前で怒り狂う伯父と同じくらいには野心家で傲慢だったのに。


 目を見開いて本気で心配する夏生さんの顔に僕は笑って、抱え込む夏生さんの胸をそっと押し退けた。夏生さんの目がもう一層見開かれる。


 背中に刺さった短刀に僕は触れた。抜いたら出血する。このままにした方が良い。そんなことを考えながら、僕は夏生さんから顔を背けて父を見た。祖父は僕を見ると、僕の意図を察したように視線を伯父さんに戻す。もう、背後を取られてはいけない。


「—お前が悪いんだぞ、綾目」


 引き攣った笑みを浮かべ、汗を滲ませた父は僕の血に濡れたその両手を前にして屈むように僕を見ていた。その目は虚で、どこか焦点があっていない。


「お前が、俺の期待を裏切るから…負け犬の夏生になんか付いたから俺は負けたんだ!!」


 —他力本願な父は、この勝負に敗れたことまでも僕のせいにするつもりだろう。才能に見合わない傲慢さは己の力不足から目を背けさせる。胸の不快感に僕は口元に手を当てた。咳き込んだ拍子に飛び散った血が手を染める。脳裏に笑った春香の顔が浮かんだ。


 負けを認めない伯父は夏生さんを憎み、現実から目を背けた父は僕を憎んだ。


「—こんなことならもっと早くに…」


 赤い手で自分の顔を覆う父は小さくそう呟いた。手の向こう、赤い顔に浮かぶ目が真っ直ぐ僕を写す。


 もっと早くに。その後に続く言葉は?僕は笑った。僕は父が嫌いだった。夏生さんが父であればどんなに良かったかと何度も考えた。そして、僕はずっと、父を見下し、見放していた。父の死を願ったことがなかったといえば嘘になる。


 けれどそれはきっと、父も同じだったのだろう。父もずっと僕が嫌いで、見放していて、死んで欲しいと思っていた。僕は父の道具にすぎず、役に立たない道具は不要だったのだ。


「ー父さん」


 僕は口を開いた。父の動きが止まり、目玉だけがこちらを覗く。目の端から何か熱いものが落ちた。心臓が悲鳴を上げる。でもそれはきっと、生理的なものだ。刺されて痛いから、きっとそうなのだ。だって僕は—


()()()()()()()()()()()()


 だって僕は、父が嫌いなのだから。僕らの間にあったのは歪な依存で、親子関係などではなかったのだから。笑って言おうとしたのに、上手く表情が作れないのだって、きっと…


 急に感じた眩暈。貧血に僕は後ろにふらつき、夏生さんがそれを支える。


「綾目、もう良い。もう良いから…」


 僕を支えた夏生さんの手が、小さく震えていた。肩を掴む手が痛い。


 ねえ、夏生さん。そんなに泣きそうな顔、しないでよ。そんなに本気で恐れないで。僕はきっと、死なないから。今死んでしまったら、僕は僕を信じると言ってくれた雛菊を裏切ってしまう。夏生さんを、また一人にしてしまう。だから死ねない。まだ、死ねない。


 春香の元には、まだいけない。


 カキン、という甲高い音が聞こえた。伯父さんがとうとう堪えきれず、襲い掛かったのだろう。祖父が応戦してくれているが、まだ目の前に父もいる。もし襲ってきたら僕が確実に足手纏いだ。そして、父は間違いなく僕を狙う。


 血走った目玉が、伯父さんの戦う音でギョロリと動く。体がぴくりと反応する。


 僕は夏生さんを見た。夏生さんはそれに首を振る。


「駄目だ、それはできない」


 はっきりと告げた夏生さんに、僕は口を開いた。


「それでもやってください。あなたは次の長だ。あなたが死ぬわけにはいかない。—やりたいことが、あるのでしょう?」


 それは勘だった。根拠など何もない、ただの勘。けれど僕の言葉に夏生さんは目を見開いた。僕の直感は間違っていなかったのだろう。


 夏生さんは狂って長になろうとしたのではない。夏生さんは、()()()()()()()()()()ために長になろうとしたのだ。


「夏生さん、()()()()()()()()


 死ぬつもりはない。それでも、もし本当に夏生さんが一族を終わらせてくれるのなら、僕が命を賭けるべきなのは今だ。


 夏生さんの瞳が揺れる。きっと、天秤にかける。僕の命と、夏生さんの命。そして僕たち二人の悲願。傾けるべきがどちらかなんて明白だ。僕の命と春香の命を天秤にかけて僕を選べてしまった夏生さんになら、ちゃんと正しい方を選べるはずだ。これはあの時よりもずっと簡単な問題なのだから。


 夏生さんの返事を待つことなく、僕はふらついた足を鼓舞して立ち上がる。忍ばせていたクナイを握りしめる。体力はない。長時間は持たない。かといって、激しい動きもできない。機会は一回、父の攻撃を躱した後。


 呼吸を落ち着けるように、長いため息を吐いた。霞む目で、父を捉える。大丈夫、父と僕では僕の方が忍びとしての技量はあるんだ。夏生さんや祖父に教えてもらったことも、全部覚えている。他力本願な父には負けない。


 父が動く。僕と同じように、クナイを構えて走り込む。


 僕はクナイを握る手に力を込めた。父の攻撃を見極めろ。迫る鈍色の閃光に、僕は目を細めた。


 —今だ


 そう思い、身を捩って攻撃を躱そうとした。けれど不意に視界が遮られる。カンっという妙に軽い音がして、代わりに誰かが父の攻撃を受け止めたことに気がつく。目の前を覆う、大きい何か。—夏生さんの、背中。


「—どうして…っ!」


 僕を庇いながら応戦する夏生さんに、きっと僕の声なんか聞こえていない。でも僕は叫ばずにはいられなかった。どうして僕を庇った。それが最善でないことはわかっていたはずなのに。


 天秤を傾ける向きは、そっちじゃないのに。


 ヒュッと音がして、呼吸が詰まる。反射的に身を屈めると、喉に迫り上がった何かが溢れた。地面が赤黒く染まる。僕はそれを見て顔を歪める。この傷じゃあ、夏生さんを逃すことはできないのに。


「綾目!」


 鼓膜を揺らす夏生さんの声に、僕はぼやけた視界を向けた。夏生さんの大きな背中が、僕を守るように必死になっている。


「雛菊はどこにいる?!」


 僕を庇いながらじゃ戦いにくい。そんなことは夏生さんもわかっているのだろうに。夏生さんは、どうして僕を切り捨てられないのか。その優しさが、残酷にも春香の命を奪わせたのだろう。


 夏生さんの意図を察して答えようとしたけれど、言葉は音にならず、ヒューという細い空気の掠れた音が響くばかりだった。


「雛菊は門の外に控えておるはずじゃ!」


 答えられない僕の代わりに、夏生さんの問いに返事したのは祖父だった。祖父が攻撃の隙間を縫って、僕を見る。僕は祖父を呆然と見つめた。霞む視界の中、祖父は僕に笑う。それから祖父は伯父さんに視線を戻し、声を張り上げて叫ぶ。


「夏生!綾目を逃がせ!」


「言われなくても!」


 祖父の声に夏生さんはすぐに返事をした。それから僕を一気に肩に担ぎ上げ、父からの攻撃を躱しながら門の方へと駆け抜ける。


 僕は驚きに目を見開いたまま、祖父の方へと手を伸ばした。いくら長とはいえ、祖父はもう高齢だ。現役の忍びであり、才能もある伯父さんに一人で勝てるはずがない。


 優しい祖父は、死んでしまう。


 祖父はまた一瞬、僕を見る。そうしてこれ以上ないほどに優しい笑みを浮かべた。


 達者で。唇が、そう動く。


 嫌だ、駄目だ。そう、思うのに。体に力が入らなくなっていくし、目はどんどん霞んでいく。このままじゃ全部失う。祖父も、夏生さんも。


「おろ…して…」


 かろうじて形になった声に、夏生さんは「駄目だ」と答える。僕を担ぐ手に力は込められたまま、追いかけてくる父からの攻撃を躱しながら。


「どうして…」


 呟く僕に、流石の夏生さんも疲労を声に滲ませながら答えた。


「俺も親父も、お前に生きてほしいからだ」


『—こんなことならもっと早くに…』


 憎しみだけを顔に浮かべて追いかけてくる父の言葉が耳の奥で聞こえる。血のつながった父はああ言ったのに、夏生さんや祖父は…


 雛菊のことを思い出す。『血』という理由で夢を取り上げられた、才能ある少年の叫びを。


 本当だね、雛菊。『血』って、何なんだろうな。


「綾目、お前は強い。だから折れるな」


 朱塗りの門が近づいてくる。もう少しで、夏生さんは僕という足枷を外せる。そう思ったところで僕はあることに気がつく。夏生さんは今、片手で僕を担いで、片手で攻撃をいなしている。なら、()()()()()()()()()()()()()()()—?


「前にも言ったが、この歪んだ家の中で真っ直ぐでいることはきっと難しいし、苦しい。でもお前のそばには雛菊がいる。あいつは必ずお前に手を差し伸べる」


 このままじゃあ、夏生さんは。僕は目を見開いた。夏生さんの言葉は鼓膜を揺らすが、僕の頭は気がついてしまった最悪な状況でいっぱいだった。


「雛菊はお前を絶対、諦めない」


 朱塗りの門に着く。夏生さんは、僕を担いだまま、()()()()()()()門を押し開ける。後ろから、父が迫る。


「綾目、こんな俺を信じてくれてありがとう」


 開いた門の向こう側から霧が漏れ出てくる。夏生さんは僕をその向こうへと半ば放り投げるように追いやった。スローモーションな景色の中、夏生さんは出会った時と変わらない、明るい笑顔を浮かべた。


「じゃあな」


 門が閉じられる。中の景色が遠のく。父が夏生さんに切り掛かる。飛び散った赤い血。悲鳴にならない僕の声が漏れた。


 閉じた門に血まみれの手を伸ばす。震えた手で、弱い力で精一杯に門を押すけれど、それはぴくりともしない。霧で湿った地面、泥の上で僕は這いつくばる。この門の向こうの景色を想像して、息が詰まる。僕の力が入らないから門を押せていないだけだ。きっとそうだと言い聞かせる。門の向こうに何かがつっかえているからじゃないのだと。


「うああぁぁぁぁぁぁぁぁ…っ!!」


 細い絶叫。耳の奥、鬼灯の声がする。


 —お前は一生負け犬のまま、地面を這いずってれば良いんだ


 負け犬は夏生さんじゃあない。負け犬は、結局何も選べずに全て失った僕自身だ。力の入らない手で、何度も何度も門を叩いた。それは僕の小さな悲鳴を聞いた雛菊が駆けつけてきて、僕を止めるまで続いた。


 その後の記憶はない。気がつけば僕は治療を終えて自室の布団の中にいた。目を覚ました時、雛菊は目元を真っ赤に染めて泣き腫らした後だった。その表情で全てを察した僕は、目の前が暗くなるような気がしながら、あの日起こったことの全てを雛菊から聞く。


 夏生さんと祖父、父が死んだこと。葬儀はすでに終わっていること。そして、長に伯父さんが就任したことを。

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