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しのぶれど。  作者: 朝月夜
◆『懐古』編
20/34

17.懐古(玖)

 ーもう誰も、何も、信じたくない。信じ、られない。


 あの日僕は春香を弔った後、気がつけば家に帰っていて、障子を全て締切った部屋の中布団に蹲っていた。そこにたどり着くまでの記憶はない。ただ、暗闇の中、僕は目を閉じることも無く、ただただその闇を見つめていた。闇の中に時間はなかった。それは永遠のようで、一瞬のようで。そして、どこか夢のようだった。最終試練からどのくらいだっただろうか。ある日、不意に布団の外から雛菊の声が聞こえた。


「…綾目さま」


 僕を呼ぶその声は控え目で、どこか心配そうだった。耳に届くその声は、けれど心に響くことは無い。閉ざしてしまった心は動かないまま、僕は暗闇で目を開いていた。


「お食事を、摂られていないと聞きました」


 カチャリ、と何か軽いものがぶつかり合う音がした。きっと雛菊が食器を並べた音だろう。


「…ほんの少しでも良いです。食べてはくれませんか」


 それは、雛菊らしくない声だった。弱々しく、気遣わしげな声。昔のように僕を蔑むことも憎むこともせず。最近のように僕をからかったり慕うような声でもなく。ただ、そこには心配があった。


「…いらない。食べたくない」


 空っぽの心のまま、そう答える。言葉を紡ぐ度、呼吸する度、心臓は小さく悲鳴をあげた。自分が生きていることの証明のように思えて、腕の中息絶えた幼い少女を思うとそれが悪夢のようだった。僕がいなければ、あの子が死ぬことは無かった。僕が強ければ、夏生さんの手を汚すことは無かった。僕に覚悟があれば、きっと、もっと何かを守れたはずでー…


「綾目さま、もう、疲れてしまいましたか」


 布団の外から尋ねる声に、僕はぴくりと肩を揺らした。


「疲れたなら、休みますか」


「…」


「ー綾目さまの覚悟は、たった、これだけだったんですね」


 心配する声は、いつしか諦めの声に。雛菊の表情が容易く想像できて、僕は拳を固く握った。


「あなたは僕に、人生をかけて信じるに値する人間になると言いました。僕はあなたを信じると決めた。でも、まだ人生をかけたいと思えていない。ー綾目さまは諦めるんですか?」


 責め立てるような雛菊の言葉。僕は闇の中、目を閉じて両手で耳を覆った。やめてくれ、もう何も見たくない。聞きたくない。


 ー僕を、信じるだなんて言わないでくれ


 僕はもう、何も信じられないのに。僕を信じる人でさえ、僕は信じられない。それがまた僕の傷を抉る。思い出す。腕の中、今際の際に僕を兄と呼んだ春香を。


「…あなたが何も言わないなら、僕も何も言いません。ただ、あなたに伝言があります」


 悔しげな雛菊の声。申しわけなさが胸を占めるが、僕はそれでも踏み出せなかった。


「…長から、此度の最終試練は夏生の介入があったため特例として無効とする、だそうです」


 ー無効


 その言葉に僕は愕然とした。貧困に喘いだ、母を失った少女の短い生。それは、なかったことになる。ただ僕の覚悟を確かめるという為だけに暗殺の対象になったのに、あまつさえその命の消失は物のように扱われてしまう。


 霧の門とは、忍びとは、何だ?


「というわけで、また後日、別の試練を言い渡すそうです。…それから、長からもうひとつ、」


 雛菊の言葉が頭の中を滑っていく。まるで理解が追いつかない。けれどそのすぐ後、雛菊は僕に更なる爆弾を落とした。


「明日、次代の長を決めるそうです。長の見立てでは、おそらく、綾目さまのお父上が長となることは無いだろう、と。順当に行けば鬼灯さまや椿さま、牡丹さまをお子様に持つ綾目さまの伯父上、朔さまではないか、とのことです。ただ、元来長の地位に興味が無かったはずの夏生さんもなぜかやる気らしく、或いは、と」


 僕は雛菊の言葉に目を見開いた。夏生さんが、長になるかもしれない。その言葉に僕は心臓が痛かった。


 夏生さん、あなたは興味がなかったはずだ。忍びにも、殺しにも、長の椅子にも。それなのにどうして。


 そんな疑問は、また、僕に暗い影を落とす。夏生さんに、裏切られたような気持ちになる。あの日、暗闇の中真っ直ぐに無感情な顔を僕に向けた夏生さん。手に握られた、血に濡れた短刀。ー僕はきっと、夏生さんのことを何も分かっていなかった。


 僕のために、僕の妹の命を奪った夏生さんが、長になるかもしれない。


 その事実に痛む、この心臓はなんだ。もやもやした、この黒い感情はなんだ。


 長決定戦。それは、次代の長を決める、最後の要素。子供の有能さや本人の人望、技術やこれまでの成果。それに加えて最重要視される単純な力。長候補者での戦い。


 予感がある。夏生さんは、きっとー…


 僕は唇を噛んだ。そして、ほんの少しだけ布団を持ち上げる。隙間から明るい光が差し込んだ。何日ぶりかの陽光に目が眩み、目の奥がズキズキと痛む。


「雛菊」


 僕の声に、雛菊が小さく息を呑む。そんな、気配がする。


「夏生さんは、何て?」


 僕の問いに、雛菊はしばらく黙った。どうして夏生さんからの伝言があることを知っているのか、といいたげな間だった。けれど僕には予感があった。


 夏生さんが、僕になにか言葉を残しているという予感。そして、彼自身、それを僕に聞いて欲しくないという矛盾した思いを抱えている予感。ーきっと、本気になった夏生さんは勝つだろうという予感。


 僕は、それを尋ねた。


「…夏生さんからは、」


 躊躇うように、雛菊は口を開く。雛菊は僕と夏生さんの間にあったことを知っていたのだろうか。それとも、何となく察していたのだろうか。言葉を紡ぐ雛菊はどこか辛そうな声をしていた。


『ー綾目、すまない。俺は、お前に羨まれるような人生を歩んじゃいない。でも、俺はお前が心底羨ましい』


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