1.忍びたる者
うぎゃあ、という表現が正しいのだろうか。
頬に飛び散った返り血を拭いながら、そんなことを考えた。目の前で絶命した男が持っていた提灯の明かりだけが月の無い濃紺の闇を照らす中、僕の握るクナイは鈍くその表面を光らせている。男はその絶命の瞬間に、何を思ったのだろう。反射的に口からこぼれ落ちた痛みの音は「うぎゃあ」だなんて擬音語で表現できて良いものなのか。すっかり慣れてしまった人の死の音を前に、僕は冷たく背中にのし掛かる何かを感じながら佇んだ。
口元を覆う覆面を外しながら地面にしゃがみ込む。悲痛に歪んだ男の顔を見つめた。ゆらりと提灯の炎は揺れ、焦げた匂いと共に細く煙を上らせ始める。それはまるで男を弔う送り火のようだった。男の濁った目にはもう、何も映してはいない。そっとその目を閉じさせた。
何も考えるな、ただ従順であれ。
祖父の言葉が呪いのように耳の奥に反響する。この男は一体何をしたのだろう。何のために、提灯を持って夜道を歩いていたところを殺されなければならなかったのか。どうして僕はこの男を殺したのか。浮かんでは消えていく…いや、無理やり見ないふりをする疑問ばかりが溢れかえる。
忍びたるもの、常に従順であれ。忠実であれ。決して長を裏切ることなく、ただ任務を遂行するのみ。
幼い頃からそう、教育されてきた。わかっている。僕自身にはどうすることもできず、何も知ることは叶わない。生きていたければそれに従うほかない。忍びとは、長が絶対の社会であり、そこに身内への愛などありはしないのだから。
クナイで男の耳を片方切り取った。もう心臓が止まっているからだろうか。あまり血は出ず、それなのに肉を切る感覚だけは妙に生々しくて気味が悪い。僕は眉根を寄せながら切り取った耳を綺麗に紙で包み、クナイとともに懐へと仕舞った。
立ち上がり、再び覆面を着ける。炎を上げ始めた提灯のパチパチという音はまるで僕への恨み言のようだった。
江戸時代。徳川一族を筆頭に権力者たちが治世を担った時代。表立った戦争は少なく、町民の多くは平穏に暮らしているように見えるが、一方では忍びと呼ばれる僕たちのような「裏」のものが暗躍し、権力者たちは日頃醜い争いを繰り広げていた。「表」の平穏はハリボテに過ぎず、結局権力者たちは下々の暮らしのことなど眼中にはない。たまたま彼らの権力争いによる火の粉が平民の暮らしの上に降りかかっていないだけで、「表」の平穏が崩れ去る瞬間はいずれ必ずやってくる。何も聞かされることなく暗殺や諜報活動、盗みなどの汚れ仕事に従事する僕でさえ、そんなことははっきりと理解していた。
男を暗殺した僕は、今回の暗殺の依頼主の元へと足を運んでいた。依頼主が暮らすのは荘厳な門と塀を構える大通りに面した大きな屋敷だった。僕は門を叩くことなく塀を乗り越え、枯山水の庭を横切りながら依頼主の寝所の襖の前に辿り着く。夜も深かったせいか、使用人一人どころか見張りすら見当たらない。不用心なのか、それともこの家の無駄に高い塀に慢心しているのか。はたまた、僕のような「裏」の者との関わりを知られたくないのか。
浮かんできた考えに自嘲しながら僕は襖をそっと開いた。中の明かりは蝋燭一本だけだったらしい。くすんだ明かりが開けた襖の間から僕の足元へと差し込んだ。仄暗い空間に足を踏み入れ、蝋燭のそばに人影を認めると僕はその前に控えた。蝋燭の明かりは依頼主を縁取るばかりで、その顔を拝むことは叶わない。下賤の民に見せる顔はない、ということなのだろう。
「無事始末したか」
無機質でぶっきらぼうな声が響いた。まるで何か決められたセリフを読んでいるかのような男の声に、確かに失われた命があったことなど意に介している様子もなかった。
「はい、先ほど確かに」
僕はそう答え、懐に仕舞った男の耳を差し出した。切り取った耳は確かに始末したことを証明するためのものに過ぎなかった。
依頼主の男はふんと鼻を鳴らしただけで何も言わず、不意に目の前に封筒を投げた。おそらく依頼料だろう。僕はそれを懐に仕舞い込み、わずかに腰を折り曲げた。男の蔑むような視線を感じながら、それでもそれに気がつかないふりをして。
「全く…どうして私がこんな下賤なものに金銭を払わなければならぬのか。全て兄上があんな男に税収の横領を見抜かれたせいではないか…!」
依頼主が着物の袖で口元を覆いながらつぶやいた独り言はしっかりと僕の耳に届いていた。普通の人であったならば聞こえることはなかっただろうが、諜報活動に従事することもある忍だ。聴力には自信があった。
聞こえてきた内容に何も反応することなく、ただその場に控えていると男はまだ僕がこの場にいたことに気がついたらしい。先ほどの独り言とは打って変わって大きな声でわざとらしく男は言葉を並べた。
「あぁ、どうもネズミくさい。人のものを勝手に食らっては泥に塗れてコソコソと…」
拳を固く握りしめた。皮肉のつもりだろうか。人のものを勝手に食らっているのはどちらだ。泥に塗れているのは…!
怒りを覚えてはならない。常に冷静であれ。忍びは何も考えずにただ忠実に任務を遂行せよ—
「早く去れ、汚れた者よ」
男の冷たく突き放す声。僕は抱いた怒りの感情から目を逸らすように男の寝所から抜け出し、枯山水を堂々と踏みつけ、塀を乗り越えて裏道を駆けた。
糞。糞、糞…!
歯を食いしばり、力の限りに地面を蹴る。他に、怒りのやり場がなかった。
どうしてあの男は死んだのか。あの糞みたいな権力者の不正の証拠を掴んだからだ。彼らの平穏を脅かそうとしたからだ。統治者なんて名ばかりで、上に立つ資格のない人間ばかりが溢れかえっている。自分たちは決して手を汚さず、しかし忍びを使って甘い汁を啜る。忍びはただの道具にすぎず、汚れて汚い下賤の民。
間違ってはいない。僕はもう、汚れ切っている。自分が綺麗なままだなんて微塵も思っていない。生きるためと言いながら、間違っていると理解していながら、悪い人間のために良い人間を傷つけている。強者のもとに弱者を殺している。それで得た、血に染まった汚いお金に必死にしがみついて惨めったらしく生きて。そうしてまた、どこかで平穏に暮らす、あるいは正義感あふれる人の命を奪う。—僕は間違っている。
けれど、それでも。僕たちを使っている権力者はお綺麗なままだなんて間違っている。あいつらだって汚れている。甘いマスクを民衆に向け、うまく誤魔化しているだけで、あいつらの手だって血みどろだ。
—嫌になる。
糞みたいな権力者も。そいつらにもらうお金や、それで食べるご飯も。
—消してしまいたくなる。
そんな権力者におもねる自分を。血で汚れ切った、この両手を。
—もう、全部なくなって仕舞えば良いのに。
こんな腐った社会も、忍びの家も、世界も、全部。
そう願ったところで世界は僕一人の手では変えられない。変わらない。当然、消えることもない。唯一僕が死ねば、少なくとも僕はこの腐った世界に存在しなくて良くなるのに。そう、わかっているのに。
僕は今日も今日とて、惨めったらしく生にしがみつく。人を殺す瞬間に、相手の命と自分の命を天秤にかけている。そんな自分が、一番、嫌いだ。