16.懐古(捌)
腕の中で血まみれで喘ぐ少女。その息遣いが、腕に伝わる。僕はただ、苦しかった。何の罪もないまだ幼い少女が死に瀕していることが。自分が何も出来ないことが。そして、信じていた目の前の人間が、その手を血に染めている事が。
「…夏生さん…っ!!」
絞り出すような僕の声に、夏生さんは表情を変えなかった。ただまっすぐ、無感情にこちらを見つめている。いつもの豪快で、どうしようもなく明るく快活な夏生さんではなかった。
その姿に、僕は顔を歪めるしか無かった。
どうして。そんな思いが頭の中を埋め尽くす。いつも優しかった夏生さんがどうしてこんなことを。どうして夏生さんは僕の声に何も答えないのか。そもそもどうして彼がここにいるのか。
『—大丈夫、俺がなんとかする。なんとかするから、お前は心配しなくて良い』
『大丈夫。俺を信じろ、綾目。お前はただ、指示通りにその少女の家に行くだけで良い。お前が手を汚す必要はない』
不意に、以前夏生さんがやけに神妙な顔で僕に言った言葉を思い出す。俺が何とかする、という言葉。お前が手を汚す必要は無い、という言葉。
気がついてしまった事実に、僕は目を見開いた。苦しい。心臓が痛い。呼吸が、痛い。
ー夏生さんは、僕のために手を染めた
少女を抱きしめる手に力が篭もる。虚ろな少女の目が、僕を見抜いた。その目が尋ねるような気がする。本当は気がついていたでしょう?と。
ずっと、あの時から胸の内にあった嫌な予感。胸騒ぎ。確かに、僕はずっと気がついていたのかもしれない。夏生さんが何かを企んでいること。僕の代わりに成そうとしている事を。それでも僕はそれを信じたくなくて、考えたくなくて目を逸らして…
少女のために命をかける覚悟も、雛菊のために手を汚す覚悟もない僕は、夏生さんを…
「…おにぃ、ちゃ…」
俯いた僕の目から、涙が落ちる。それに少女は震える手を伸ばした。やめろ、そんな資格は僕にはない。僕のせいで彼女は死に、夏生さんはいなくなる。僕のせいで生まれた悲劇。
少女は緩く微笑んだ。細い体は小さく震え、骨ばったその手は僕の頬に触れる。
「お兄ちゃん」
震えた声は、けれど凛として耳に響いた。それに僕は小さく目を見開く。お兄ちゃん。呟くように紡がれたその言葉は、たぶん、単なる呼称ではなかった。
驚くほどに僕に似ている顔。
彼女は一体、何を見たのか。
「…夏生さん、ひとつ、聞いてもいいですか」
力を失うように崩れ落ちた細い手を僕は握った。少女は少し驚いたような顔をして、それから笑う。そうして、静かになる。
「…この子は、僕の妹ですか」
目を閉じた、妙に穏やかな少女の顔を僕はなぞった。夏生さんは何も言わなかった。
「妹、ですよね?」
顔を上げる。夏生さんは僕を見て、それから眉根を寄せた。暗闇の中、夏生さんの目に映る僕の表情は見えるはずもなく、自分がどんな顔をしているのか分からない。
夏生さんはしばらくして、やがて絞り出すように声を出した。
「…その子の名前は春香。ーお前の、妹だ」
予想していた答え。女性のいない、歪な霧の門。それでも、僕はその答えに目頭がカッと熱くなるのを感じた。気がつけば僕は叫びながら腕の中の少女を固く抱きしめている。絶叫する僕に、夏生さんは何も言わずに横をすり抜けた。
どうして。どうして、僕の妹は死ななくちゃならなかった。
なんで夏生さんは僕に何も言わなかった。
どうして、夏生さんは躊躇いなくぼくの妹を殺せた…っ!!
溢れる涙も、終わらない絶叫も、意味が無い。そんなことをしても、僕の妹の命は戻らない。
「…春香」
名前を呼ぶ。一度も呼ぶことが叶わなかった名前を。そうして僕は、心臓が壊れるような痛みを感じた。僕の妹は、春香は。その死の間際に僕を兄と呼んでくれたのに、僕は彼女の名前を呼んでやれない。
「春香、春香…ねぇ、春香」
名前を繰り返す度に、叫んで痛めた喉はひりついた。心臓がすり下ろされる、そんな感覚がする。それは、いつかにも似た絶望の感覚だった。
腕の中、動かない少女は小さく笑う。そこに苦痛はなく、あるのは穏やかな笑みだけ。僕にあまりにもそっくりな彼女の顔。それはどこか、僕の死に顔のようにも見えた。
『良いか、綾目。良く聞け。全てが終わった後、お前が何をどう感じても、どう理解してもそれが全て正しい。それで良い。だから価値判断の基準を他者に委ねるな』
夏生さんの言葉を思い出す。全てが終わった後。彼が言ったそのタイミングは、きっと、今なのだろう。
何をどう感じても、どう理解しても、それが全て正しい。
そう言った彼の言葉を思い出しながら、僕は涙が涸れたまま、壊れた心を抱えて春香の顔をぼうっと見つめた。
「…もう、何も信じられないよ」
壊れかけた僕へ手を差し伸べ、光を与えてくれた夏生さん。それなのに、彼はあっという間に僕の前から去っていく。裏切った訳じゃあない。それをわかっていても、どうしても、裏切られたような気がした。
夏生さんを、自分を、他人を。誰も何も、信じられない。
それなのに、どうして夏生さんの言った言葉が今も忘れられないのだろう?
月のない夜、僕はただ、幼い少女の死を悼んだ。彼女を抱え、僕はつぶやくように掠れた声で歌を歌う。いつ聞いたかも分からない、記憶の彼方で擦り切れた子守唄。
春香、僕の、妹。
「ーおやすみ、春香。良い、夢を」
口から溢れた血を拭ってやって、額に小さく接吻を落とす。そうして僕は彼女を弔った。ただ、小さな花だけを添えた、粗末な墓で。
忍びとして一人前になるべく課せられる最終試練。それはきっと、初めての暗殺任務であると同時に初めての身内殺し。そうして、殺人という人間の超えては行けない一線を超えやすくなる。そんな仕組みに気がつくのは、もっと後の事だった。




