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しのぶれど。  作者: 朝月夜
◆『懐古』編
19/34

16.懐古(捌)

 腕の中で血まみれで喘ぐ少女。その息遣いが、腕に伝わる。僕はただ、苦しかった。何の罪もないまだ幼い少女が死に瀕していることが。自分が何も出来ないことが。そして、信じていた目の前の人間が、その手を血に染めている事が。


「…夏生さん…っ!!」


 絞り出すような僕の声に、夏生さんは表情を変えなかった。ただまっすぐ、無感情にこちらを見つめている。いつもの豪快で、どうしようもなく明るく快活な夏生さんではなかった。


 その姿に、僕は顔を歪めるしか無かった。


 どうして。そんな思いが頭の中を埋め尽くす。いつも優しかった夏生さんがどうしてこんなことを。どうして夏生さんは僕の声に何も答えないのか。そもそもどうして彼がここにいるのか。


『—大丈夫、俺がなんとかする。なんとかするから、お前は心配しなくて良い』


『大丈夫。俺を信じろ、綾目。お前はただ、指示通りにその少女の家に行くだけで良い。お前が手を汚す必要はない』


 不意に、以前夏生さんがやけに神妙な顔で僕に言った言葉を思い出す。俺が何とかする、という言葉。お前が手を汚す必要は無い、という言葉。


 気がついてしまった事実に、僕は目を見開いた。苦しい。心臓が痛い。呼吸が、痛い。


 ー夏生さんは、僕のために手を染めた


 少女を抱きしめる手に力が篭もる。虚ろな少女の目が、僕を見抜いた。その目が尋ねるような気がする。本当は気がついていたでしょう?と。


 ずっと、あの時から胸の内にあった嫌な予感。胸騒ぎ。確かに、僕はずっと気がついていたのかもしれない。夏生さんが何かを企んでいること。僕の代わりに成そうとしている事を。それでも僕はそれを信じたくなくて、考えたくなくて目を逸らして…


 少女のために命をかける覚悟も、雛菊のために手を汚す覚悟もない僕は、夏生さんを…


「…おにぃ、ちゃ…」


 俯いた僕の目から、涙が落ちる。それに少女は震える手を伸ばした。やめろ、そんな資格は僕にはない。僕のせいで彼女は死に、夏生さんはいなくなる。僕のせいで生まれた悲劇。


 少女は緩く微笑んだ。細い体は小さく震え、骨ばったその手は僕の頬に触れる。


()()()()()


 震えた声は、けれど凛として耳に響いた。それに僕は小さく目を見開く。お兄ちゃん。呟くように紡がれたその言葉は、たぶん、単なる呼称ではなかった。


 驚くほどに僕に似ている顔。


 彼女は一体、何を見たのか。


「…夏生さん、ひとつ、聞いてもいいですか」


 力を失うように崩れ落ちた細い手を僕は握った。少女は少し驚いたような顔をして、それから笑う。そうして、静かになる。


「…この子は、僕の妹ですか」


 目を閉じた、妙に穏やかな少女の顔を僕はなぞった。夏生さんは何も言わなかった。


「妹、ですよね?」


 顔を上げる。夏生さんは僕を見て、それから眉根を寄せた。暗闇の中、夏生さんの目に映る僕の表情は見えるはずもなく、自分がどんな顔をしているのか分からない。


 夏生さんはしばらくして、やがて絞り出すように声を出した。


「…その子の名前は春香。ーお前の、妹だ」


 予想していた答え。女性のいない、歪な霧の門。それでも、僕はその答えに目頭がカッと熱くなるのを感じた。気がつけば僕は叫びながら腕の中の少女を固く抱きしめている。絶叫する僕に、夏生さんは何も言わずに横をすり抜けた。


 どうして。どうして、僕の妹は死ななくちゃならなかった。


 なんで夏生さんは僕に何も言わなかった。


 どうして、夏生さんは躊躇いなくぼくの妹を殺せた…っ!!


 溢れる涙も、終わらない絶叫も、意味が無い。そんなことをしても、僕の妹の命は戻らない。


「…春香」


 名前を呼ぶ。一度も呼ぶことが叶わなかった名前を。そうして僕は、心臓が壊れるような痛みを感じた。僕の妹は、春香は。その死の間際に僕を兄と呼んでくれたのに、僕は彼女の名前を呼んでやれない。


「春香、春香…ねぇ、春香」


 名前を繰り返す度に、叫んで痛めた喉はひりついた。心臓がすり下ろされる、そんな感覚がする。それは、いつかにも似た絶望の感覚だった。


 腕の中、動かない少女は小さく笑う。そこに苦痛はなく、あるのは穏やかな笑みだけ。僕にあまりにもそっくりな彼女の顔。それはどこか、僕の死に顔のようにも見えた。


『良いか、綾目。良く聞け。()()()()()()()()、お前が何をどう感じても、どう理解してもそれが全て正しい。それで良い。だから価値判断の基準を他者に委ねるな』


 夏生さんの言葉を思い出す。全てが終わった後。彼が言ったそのタイミングは、きっと、今なのだろう。


 何をどう感じても、どう理解しても、それが全て正しい。


 そう言った彼の言葉を思い出しながら、僕は涙が涸れたまま、壊れた心を抱えて春香の顔をぼうっと見つめた。


「…もう、何も信じられないよ」


 壊れかけた僕へ手を差し伸べ、光を与えてくれた夏生さん。それなのに、彼はあっという間に僕の前から去っていく。裏切った訳じゃあない。それをわかっていても、どうしても、裏切られたような気がした。


 夏生さんを、自分を、他人を。誰も何も、信じられない。


 それなのに、どうして夏生さんの言った言葉が今も忘れられないのだろう?


 月のない夜、僕はただ、幼い少女の死を悼んだ。彼女を抱え、僕はつぶやくように掠れた声で歌を歌う。いつ聞いたかも分からない、記憶の彼方で擦り切れた子守唄。


 春香、僕の、妹。


「ーおやすみ、春香。良い、夢を」


 口から溢れた血を拭ってやって、額に小さく接吻を落とす。そうして僕は彼女を弔った。ただ、小さな花だけを添えた、粗末な墓で。


 忍びとして一人前になるべく課せられる最終試練。それはきっと、初めての暗殺任務であると同時に初めての身内殺し。そうして、殺人という人間の超えては行けない一線を超えやすくなる。そんな仕組みに気がつくのは、もっと後の事だった。

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