15.懐古(漆)
「夏生さん、教えてください。ーこの暗殺に、意味はあるんですか」
苦しげに顔を歪めた夏生さんの瞳に映る僕はどこか泣きそうな表情をしていた。喉が苦しい。うまく息が吸えない。声が、出せない。目頭の熱さと息の速さを無視するように、心臓の音から目を背けるように僕は夏生さんに縋りついた。崩れ落ちた僕に、夏生さんは何も言わずにただ手を添える。触れた手が、温かい。
「綾目」
静かに呼ばれた名前に、僕の夏生さんの服を掴んだ手に力が籠る。くしゃりと服がよれて、皺になる。夏生さんも僕の服を握った。それはどこか、縋っているようだった。
「綾目」
もう一度、確かめるように呼ばれる名前。僕はそっと顔を上げる。顔が歪んでいることも、泣きそうなくらいに目頭が熱いのも、心臓が痛いのも、全部わかる。それなのに僕の目から涙が落ちることはない。その資格は僕にはなかった。
「夏生さん、僕は一体、どうしたら—…」
流れていない涙。夏生さんは顔を歪め、僕の頬から何かを掬うように指を滑らせた。その手はそのまま僕の頭をそっと撫でる。僕が彼の手を怖がることはもうなかった。
夏生さんの、決意に満ちた目が僕を見る。
「—大丈夫、俺がなんとかする。なんとかするから、お前は心配しなくて良い」
「なんとかって…そんな、無茶な」
困ったように、どこか切なげに笑う夏生さんに僕は目を見開く。夏生さんは一瞬僕から目を逸らし、そして再び合わせる。覚悟を持った表情。今まで見た中で一番自信に満ちた、顔。それなのに無性に胸騒ぎがする。今にも夏生さんが消えるような、そんな胸騒ぎ。僕は思わず彼の服を掴む手に力を込めた。
「大丈夫。俺を信じろ、綾目。お前はただ、指示通りにその少女の家に行くだけで良い。お前が手を汚す必要はない」
「…」
「良いか、綾目。良く聞け。全てが終わった後、お前が何をどう感じても、どう理解してもそれが全て正しい。それで良い。だから価値判断の基準を他者に委ねるな」
まるで我が子を慈しむような顔をする。僕の髪に触れていた夏生さんはそっとその手を離した。温もりがほんのり残る。
—霧の門の長にならなければ…!!
怒号と共に降りかかる手の平。体を打ちつけた時の痛み。髪を引っ張られ、引き攣る感覚。
「…夏生さんが、父さんだったら良かったのに」
気がつけば僕はそう零していた。ずっと胸の奥にあった本音。けれど、自分でも気がつくことのなかった潜在意識。それが急に形を帯びて前に現れた。口に出してから後悔した。それは叶わない願いであり、期待するだけ無駄だった。自覚すれば虚しくなるだけだった。息が詰まるような気がした。
僕の言葉に夏生さんは目を見開き、そして笑った。頭を豪快にぐしゃぐしゃと撫で、僕の視界が激しく揺れる。けれど悪い気はしなかった。揺れが収まった時、目に飛び込んできたのは困ったように笑う夏生さんの顔だった。
「俺はいつまでもお前のそばにはいられねぇよ」
—いつまでもお前の世話をしていられるほど、俺は暇じゃねえんだ
いつかの夏生さんの言葉が重なる。その表情さえも。妙に感じる胸騒ぎ。僕は急かされるように口を開いた。
「ねぇ夏生さん。—僕を置いて、どこかに行かないよね?」
震えた声に、夏生さんはただ笑っただけだった。
◯◯◯
最終試練の日。僕は夏生さんに言われた通りに任務をなぞった。指示通りに標的の家に。そしてたどり着いた家は確かにボロボロで、もはや家と呼んで良いのかさえわからないものだった。吹けば飛びそうな脆い家。穴の空いた屋根に、朽ちかけた壁。貧民街というだけあって周囲を見渡してもどこも同じような状況だった。どこからか漂うすえた匂いに僕は覆面の布の上から鼻を手で覆った。
月のない夜だった。明かりがなく、闇に溶け込める都合の良い夜。暗殺にはもってこいだ。そんなことを思い、僕は自嘲する。罪のない、こんな酷い場所でただ生きるために必死なだけの少女。僕に彼女を殺す勇気はなかった。彼女を殺せるほど冷徹になれない。震える手を誤魔化すように、僕は体を抱き寄せた。
殺せない、殺したくない。でも、やらなければ僕は死ぬ。そして、雛菊も。
眩暈がした。景色が揺れる。同じように、心の天秤が揺れる。命の重さを図る天秤が、揺れる。そうしてそこに彼女と雛菊の命を乗せている自分が嫌になる。
胃の中から何かが逆流するような気がする。自分の体を抱きしめたまま、僕は家の前にうずくまった。目を閉じ、必死に何かを堪えるように体を縮こませた。
それは熱い夏の夜。陽が落ちても湿気が肌にまとわりつき、蒸し返していたのを覚えている。だからだろうか、僕の頬を汗がゆっくりと滑り落ち—…
「—お兄ちゃん、誰?」
そこで、不意に少女の声が聞こえて僕は顔を上げた。目を見開く。明かりのない夜だった。けれど夜に慣れたこの目には全てが鮮明に写っていた。暗闇に浮かんで見えた少女の顔に僕は息を呑む。
「…あの?大丈夫ですか、具合、悪いですか」
何も言わない僕に少女は続けて尋ねる。その声には心配が滲んでいた。暗いからきっと彼女に僕の顔は見えていないのだろう。けれど僕には確信があった。もしもここに明かりがあって、彼女が僕の顔を見たのなら。そうしたらきっと、彼女も息を呑む。なぜなら—
頬を汗が滑り落ちた。思考は真っ白に染まり、口は馬鹿みたいに開いたままになる。
『夏生さん、教えてください。ーこの暗殺に、意味はあるんですか』
あの問いに、夏生さんは何も答えなかった。ただその表情を暗く、苦しげに歪めただけ。でもきっと、それは答えられなかったからではない。夏生さんは僕に教えたくなかったのだ。彼女が暗殺の標的として相応しかった理由を。
通った鼻筋。憂いを含んだような、どこか儚げな瞳。貧困の中にあってもなお、滲む美しさ。
きっと彼女が僕の顔を見たら僕と同じ反応をしただろう。なぜなら、彼女は驚くほど僕にそっくりだったからだ。
「君は、一体…」
何者なんだい、と半ば確信を抱きながら尋ねようとした。けれどその言葉は途中でもぎ取られる。目の前に立つ少女の顔が苦痛に歪んだからだ。短い悲鳴にも似た苦しげな声が耳を刺す。目を、見開く。彼女の胸から鋭い刃物が顔を覗かせる。暗闇の中、生温かくて黒い何かが吹き出して、僕の顔にも飛び散った。
—刺された
そう気がついた時、彼女はすでに僕の方へと崩れ落ちていた。腕の中、苦しげに呼吸を繰り返す少女。流れ出ていくばかりの血。僕はただ目を見開き混乱する。彼女の傷口を圧迫し、どうにか出血を止めようとして、できなかった。
伸ばした手を、誰かが掴んだからだ。
僕はゆっくりとその手の持ち主を見る。まるで壊れた機械のような動きだった。自分の体のはずなのに、思うように動かない。目に映るその人物。握られた血に塗れた短刀。真っ直ぐな目。僕は心臓がぎゅうっと絞られるような気がした。
「—っ!!」
掴まれた手を振り払い、僕は少女を引き寄せた。目の前にいる人物から距離を取るように後ずさる。
少女の喘ぐような呼吸が聞こえる。溢れる血が妙に暖かい。
まるで、心臓がばらばらに砕かれるようだった。これまで信じてきたものが一気に瓦解するような気がした。僕は唇をかみ、溢れる涙で歪む視界の中、目の前に人物を睨む。
「どうして…どうしてあなたがこんなことを!!—夏生さんっ!!!」
暗闇の中、真っ直ぐに夏生さんはこちらを見つめていた。




