14.懐古(陸)
雛菊と向き合うことを決めてから、僕と彼の間では会話が増えていた。意見が合わないことの方が多かったが、それでも互いに意見をぶつけ合う日々。雛菊に夏生さんを紹介すると、彼はあからさまに残念そうな顔をした。負け犬と呼ばれていることを知っていたのだろう。それをきっかけに喧嘩に発展して夏生さんに2人で拳骨を食らったこともあった。
けれど結局、雛菊も夏生さんに関わるうちに人柄を知り、だんだんと懐くようになっていった。しまいには夏生さんを見かけるなり僕をほっぽっていくほどだった。自分の後をくっついてくる僕と雛菊。夏生さんはそれを微笑ましそうに見つめていたのを覚えている。
そして時は流れ、僕が15歳になった頃。僕は祖父に呼び出され、継承の間を訪れていた。
豪華絢爛な屋敷と庭。襖に描かれる景色と掛け軸。お金が掛けられた、霧の門の反映を象徴するかのような城。
それは確かに素晴らしく上品なものだった。それでも僕には虚栄の城に見える。人の命を奪った汚い金で作り上げられた、張りぼてのー…
「綾目、十五になったそうだな」
目の前に座る祖父が、僕を見つめてそう言った。
「まだあの負け犬とつるんでいるのだな」
落胆するように続けられる言葉に、僕は何も言わなかった。目の前の祖父、長の目にはもう、かつての期待は込められていない。そして僕もまた、目の前の人間に向ける盲目な目はもちあわせていなかった。
「…たとえ長がなんと言おうと、僕は夏生さんに着いていくのをやめるつもりはありませんよ」
固く告げた僕の言葉に、祖父は目を細め、やがて呆れたようにため息をついた。
「知っておるわ、お前が儂に従うつもりがないことくらい。儂の期待をあぁも簡単に裏切りおって…」
そういう祖父は、どこからどうみても孫のわがままに振り回されるおじいちゃんだった。僕はそれを見て、そっと目を伏せる。
別に、祖父の全てが嫌いだった訳では無い。確かに忍びのあり方に賛同する気はないし、この歪んだ家も、その歪んだ考えを押し付けてきた大人も全部嫌いだった。それでも、思い返せば祖父だけは僕のことを諦めていたように思う。忍びになることを強く強いることはなく、僕の反発もやんわり無視した。この家で1番強い椅子に座る祖父だ。その気になれば、僕に言うことを聞かせることも、僕を処分することも出来たのに。
祖父は、父のように手を挙げることは無かった。
だからといって、別に忍びにならなくて良いとは思っていなかったろう。だから彼は呪いのように繰り返した。忍びたるもの、冷静であれ、と。長の命令に絶対服従であれと。そして、彼は期待したのだ。父に折れ、壊れてしまった僕が理想の忍びになるのではないかと。
「…あなたは最初から、僕を諦めていましたね」
僕は思い通りにならないと。自分が思うような理想の忍びにはならないと。そう、諦めていた。祖父は僕の言葉を鼻で笑い、「やかましいわ」と言った。
「…綾目、お前も馬鹿ではないだろう。その考えで…その生き方で、霧の門を生きるのは無理だぞ」
祖父の目に、心配の色が浮かぶ。それを見て、僕は小さく笑った。
「…分かっています。でも、僕はもう自分を曲げるつもりはありません」
祖父はそれに目を閉じ、しばらくして再び開いた。そこにはもう心配の色はなく、あったのは長としての責任感、威厳に満ちた目だった。
祖父が口を開く。重苦しい、しわがれた声が響く。
「綾目、お前に最終試練を言い渡す」
15歳。それは、忍びとしての成人を意味する。継承の間に呼ばれた時点で、半ば察していたそれに僕は目を伏せた。
「…一応言うが、拒否権は無い。お前が試練を超えられなかった時には成人として認められず、やがて不要の忍びとして処分される。それが掟だ。儂一人ではどうにもならないこともある」
慈悲の滲む言葉。けれど、その声に慈悲はなかった。ただ淡々と語られるその声音には、むしろ冷徹ささえ垣間見えた。
「ましてお前は本家の子。お前が不要になるということはお前の補佐が不要になるということだ。…意味はわかるな」
祖父の言葉に僕は静かに頷いて拳を握った。分かっている、僕もそこまで馬鹿じゃない。雛菊は僕の補佐だ。補佐とは、主のために存在する忍びに過ぎない。僕が不要になれば、雛菊も不要になる。2人とも、処分される。
僕の命は僕一人のものでは無い。雛菊と向き合うと決めた時から、それは覚悟していたことだった。
「…任務の、内容は」
唇をかみ、尋ねた僕に祖父は口を開いた。
○○○
「…そうか、親父がそんなことを」
継承の間で祖父に最終試練を言い渡されたあと、僕は半ば呆然としたまま、気がつけば夏生さんを尋ねていた。僕を受けいれた夏生さんは、僕の表情で察したらしく、「何があったか話せ」とだけ言った。僕は混乱する頭で彼に話す。最終試練を言い渡されたこと。僕に選択肢はなかったこと。そして何より、その内容がある少女の暗殺だったこと。
夏生さんは考え込んだ様子で手を顎に添えている。目の前に座る彼を見ながら、僕はまだ頭が追いつかないまま口を開いた。
「…その少女って、どうして殺されなくちゃいけないんですかね」
ぽつりと呟いた僕の声に夏生さんは肩を揺らし、僕の方を伺うようにそっと見た。僕はただ、呆然と薄く開かれた障子の奥に覗いた満月を見たまま言葉を続ける。
「標的は貧民街で暮らす幼い女の子だそうです。お金持ちでもなく、日々の暮らしに喘いで…つい先日、母親を亡くしたと聞きました」
ただただ、生きるために必死だっただけの幼い少女。彼女が一体何をしたのだろう。何のために、殺されなくてはならないのだろう。弱者からお金を奪ったわけでも、誰かを虐げたわけでもないのに。何の罪も犯していないのに。
余計なことを考えてはいけない、と祖父が言う。忍びとして生き抜く上での術であり、信用であったそれは、しかし同時に祖父の優しさであったようにも思う。
暗闇の中、ぽっかりと穴が空いたように浮かぶ満月。ずっと見ていると目の奥が痛むように眩しく光るそれが、本当に穴だったらと考える。もしも太陽の光を反射しているのではなく、穴の向こうから何か光が差し込んでいるとして。それは、この暗い闇に沈んだ世界を照らしているのだろうか。
僕は夏生さんを見た。夏生さんは神妙な顔で僕を見る。悲鳴をあげる心臓の痛みが、どこか他人事のように思えてならなかった。
「夏生さん、教えてください。ーこの暗殺に、意味はあるんですか」




