13.懐古(伍)
「僕はあなたに何かしてしまいましたか」
ある日、自室で書物を読んでいた僕に雛菊はそう尋ねた。雛菊の言葉に書物から顔を上げ、障子のそばで控えている彼を見る。その顔が妙に真剣で、僕は「あぁ、ついにこの時が来たか」と密かに思った。夏生さんの言葉が耳の奥で反響し、僕に言う。雛菊を諦めるなと。
「急にどうしたんだい?」
手にしていた書物を閉じ、僕は彼に向き合って座る。急かすように脈打つ心臓に気がつかないふりをしながら、僕は彼に柔らかく笑った。
夏生さんは言った。どんなに時間がかかっても構わない、と。今日、このタイミングでいきなり核心をつく必要はない。僕と彼では考え方が違いすぎる。踏み込み過ぎればそれは逆効果で、僕にとっても良いことはない。彼に、僕の腹の中は探らせてはいけない。
そんなことを考える僕をよそに、雛菊は固い表情のまま口を開いた。
「—綾目さまは僕を避けていらっしゃるように思います」
「避ける?僕が、雛菊をかい?」
わざとらしく、驚いたような声を上げる。それに気がついているのかいないのか、雛菊は一層体を硬くし、拳を握った。
「あなたはいつも僕を見て困ったように笑いますよね。僕があなたに着いていくことも、あなたのために何かをすることもしなくて良いとおっしゃいますよね。あなたは僕に関わりたくないんじゃないですか」
「それは—」
僕は咄嗟に言葉を紡げなかった。覚悟はしていたし、予想もしていた。きっと、雛菊は僕の態度を言及するだろう、と。けれどその時、どうしてか用意していた言葉が出てこなかった。
雛菊は僕がもたらしてしまった沈黙に後悔したような顔をする。それを見て、僕は目を見開いた。
—逃げてはいけない
夏生さんに言われて向き合おうと決めていたのに、それでもやっぱり僕は彼から目を背けたいみたいだ。いつの間にか、逃げるような思考回路になっていたことに気がつく。
時間がかかっても構わない?踏み込みすぎてはいけない?
—じゃあ、僕は一体いつになれば彼に腹の中を晒すのだろう。何も言わない僕に、雛菊は彼の内側を見せるだろうか。
霧の門に、そして忍びに何の疑問も抱くことのない雛菊。歪さに気がつかないまま、闇に身を沈めていく彼。僕が嫌った、夏生さんに出会う直前の僕に重なる彼。彼を救えなければ、僕はきっと、僕自身を救えない。
覚悟を決めて、それからようやく僕は口を開いた。
「…ずっと、聞こうと思っていたのに、聞けなかったことがあるんだ。雛菊、君はずっと、霧の門の長になりたかったんじゃあないのかい」
紡いだ言葉に雛菊は俯けていた顔を上げる。まさか言及されると思ってはいなかったのか、彼の目はわずかに見開かれ、そしてたじろいだ。
「…どうして、それを知っているんですか」
雛菊は顔を歪めて悔しげにそう言う。それから、押さえ込んでいた何かを吐き出すように彼は口を開いた。
「そうですよ、僕はずっと、自分が霧の門の長になると思っていたし、そうなりたかった。努力をして、才能を磨いて、周囲にも天才だと言われて…それなのに、『血』というだけの理由で僕はあなたに夢を取り上げられたんです」
「…うん」
今まで彼が僕に向けていた視線。その意味にも気がついていながら僕は無視した。
—お前は、長の器ではない
そう語る彼の視線。そして、目の前で心底悔しそうに、憎しみを込めるように声を上げる少年。僕はただ、それを受け止める。あの呪われた椅子に座りたがる彼の思いを理解できずとも、僕にはそれを受け止める責任があった。僕がどう思っていようと、彼から夢を奪ったのは紛れもなく僕だったからだ。
そこまで考えて、夏生さんの言う「大人気ない」という言葉の意味を理解する。確かに、僕は大人気なかったのかもしれないと。
「それが僕にとってどれだけ苦しいことだったか分かりますか…?夢を取り上げられる気持ちが。才能や努力や人望が、『血』だなんて訳のわからないものの下に否定されたあの瞬間の絶望が。それなのに、僕は夢を奪ったあなたのために尽くさなくてはならないんです」
「それが長の命令だから、かい?」
心の奥の叫びを抑えるように、控えめに紡がれる言葉。僕はそれを聞き、ただ先を促す。雛菊は苦しげに顔を歪め、言葉を続けた。
「そうですよ、綾目さまだって知っているでしょう?長の命令には絶対服従だと。そこに僕の意思はありません。僕は僕自身を殺すしかない」
ねぇ、綾目さま。そう呟かれる声に、僕はただ向き合う。雛菊の瞳をまっすぐに見つめる。今まで目を背けてきた彼から、僕は逃げるわけにはいかなかった。
「僕も聞きたいことがあります。—綾目さまは霧の門の長になりたいのですか」
その言葉に僕は目をふせ、自分の手を見つめた。閉じて、開かれたその手を見て、一度目を閉じ、やがて開く。霧の門の長になりたいか。その答えを、僕はもうずっと昔から持っていた。
雛菊を見た。心の中にあったものを少し吐き出したおかげか、さっきよりも随分と冷静に見える。まっすぐに見つめる目が、僕の心を見透かしているようだった。僕は覚悟を決めて、口を開く。
「そのつもりは無い。—僕は霧の門の長になりたくない」
はっきりと告げたその声に雛菊は動じなかった。確信を秘めたその目に、僕は半ば納得する。きっと、彼は僕の思いに気がついているだろうと思っていた。
「いつから気が付いていたんだい?」
見透かされていた悔しさに、僕は笑ってそう尋ねる。雛菊はそれに迷いなく答えた。
「最初からです。綾目さまはいつも自信がなさそうで、悲しそうに笑うばかりでした。それに、綾目さまは父上を異様に恐れていらっしゃる。そんなあなたに長が務まるはずがないと思いました。—あなた自身にその意思がないということも。」
「そうかい。…雛菊、君はやっぱりすごい。天才だよ。人の感情を読み取るのに長けている」
耳に届いていた優秀だという雛菊の噂に間違いはなかったのだろう。僕の父親に対する思いまで見抜かれていたことに僕は苦笑した。初対面の時、そんなにも僕は怯えていたのだろうか。いや、初対面の彼でさえそれを見抜けたんだ。やっぱり僕は父を恐れている。夏生さんという見方がいて、彼にたくさんのことを教わってもなお、父が恐ろしい。目を閉じれば蘇る父の落胆した表情。怒号。振り翳される手。それは、呪いのようにも聞こえる祖父の声とまた違った僕への枷だった。
そんなことを思い返していた時、雛菊が言葉を紡ぐ。
「もっと言いましょうか。—綾目さまはそもそも忍びになりたくないんじゃあないですか」
—忍びにならなければ生きている意味がない!!!
父のことを思い浮かべていたからだろうか。急に、雛菊の声が父の声に重なって聞こえ、肌が泡立つような感覚がした。僕は静かに息を呑む。思わず振り撒いた鋭い殺気。それに気がついたのは、目の前の雛菊が息を呑む気配を感じた後だった。
「…ごめん」
ため息と共にそう告げた僕に雛菊は「いえ」と半ば放心状態で答えた。
冷静になれ。落ち着け。目の前にいるのは、父じゃあない。
そう思うのに、錯覚した頭がうまく切り替えられない。体がこわばり、言うことを聞かない。僕は自分の心の奥底にいる大きな何かを押さえつけようと必死だった。
—霧の門の長になれ!そうでなければお前など…!!
父の怒号。打たれる感覚。僕は自分を落ち着かせるように長いため息をついた。
「そうだよ、僕はこの家が嫌いだ。忍びが嫌いだ。—全部、無くなれば良いとさえ思っている」
落ち着け。冷静に言葉を選べ。
誰かがそう言っている。でも、僕の中にいる大きな何かはそれに従わない。顔を覗かせようと必死に這い出してくる。言葉が、意思とは無関係に滑ってゆく。
「で、雛菊はどうする?僕は将来霧の門を滅ぼすかもしれない、いわゆる叛逆の芽だ。もし君が僕の叛逆の意思を裏付ける証拠を手に入れて長に伝えることができたなら、君は賞賛されるだろう。君の夢を潰した僕は処刑され、君は屈辱を味わうこともなく、ひょっとすると長の座に着く挑戦権が得られるかもしれない。—君は僕を殺すかい?」
淡々と他人事のように、何の感情も乗せずに語られる言葉。雛菊は目を見開いた。当然だろう。彼を見る僕の顔はきっと無表情のまま、静かな殺気を放っている。動かない表情筋。抑えられない殺気。
僕の中に潜む、大き何か。怪物。それは、僕が嫌いで仕方なかった、雛菊に重ねた僕自身だ。夏生さんに出会う前の壊れてしまった僕。祖父や父の操り人形だった、忍びとしてこの上なく優秀な僕。
—冷徹さが、顔を覗かせる。
心の中で誰かが叫ぶ。やめろと。そんなことを言いたいんじゃあなくて、本当は。そんな声が聞こえた気がした。僕を押さえ込もうとするようなその声に、僕は眉根を寄せる。
「もう一つ、聞いても良いですか」
震える声で雛菊はそう尋ねた。僕はそれに何も言わなかった。
「綾目さまはなぜ、忍びを憎むんですか」
その言葉に表情がほんのわずかに動いたのを感じた。なぜ。その言葉に、僕は急に冷静になる。
—落ち着け
はっきり耳元に届いた声に、僕は息を呑む。雛菊は目を逸らさない。彼は、逃げない。それを見て僕はようやく我に帰った。呑まれかけていたことに気がつき、ため息をつきたくなる。けれどそうはしなかった。彼は逃げない、ならば僕もまた彼から逃げてはいけなかったからだ。
「—間違っているから」
僕はわずかに目を伏せ、そう答えた。その言葉をおうむ返しのように口の中で転がす雛菊。僕は慎重に、今度こそ落ち着いて言葉を選んだ。
「人を殺すのは善かい?相手がもし善人だったら?たとえ悪人だったとしても誰かの命を奪ってお金を稼ぐのは正しいと思うかい?僕らにとっての善悪は、僕らの長が決めたものだ。僕らの長にとっての善悪は己の利益になるか否かだ。それは私利私欲としか言えない」
—僕らはみんな、腐って汚れている。
長の命令は絶対だと、雛菊はいう。そこに自分の意思は関係なく、自分という意思は殺されて然るべきものだと。そう考える雛菊はきっと、僕の言葉の意味を理解しないだろう。僕と彼では考え方が違う。だから、すぐには理解されない。
雛菊を諦めるな、と夏生さんは言った。どんなに時間がかかっても構わないと。彼はわかっていたのだろう。僕と雛菊の間にある溝はそう簡単に埋められはしないことを。
目の前で困惑する彼に僕は表情を緩めた。
「なんてね。どう?作り話としては面白かったでしょう」
笑って、冗談ぽくいう僕に彼は目を見開いた。
困惑、それで十分だった。生まれてから浸ってきた霧の門の価値観はそう簡単に崩せない。それを否定することは彼の今までの人生を否定することだ。
だから今はそれでも構わない、そう思っていたのに、雛菊は真面目な顔をして、口を開く。その目はまっすぐ僕を見て、どこか固い決意を滲ませていた。
「—僕は綾目さまを殺しませんよ」
紡がれる言葉に、僕は目を瞬かせる。雛菊は混乱する僕をよそに震えた声でそのまま言葉を紡いだ。
「綾目さまが作り話だというのならそれで構いません。正直、僕にはまだ何が正しいのか分からないけれど、でも、僕は綾目さまを信じてみようと思います」
信じる。そう迷いなく告げた彼を僕はじっと見つめた。固い決意の滲む目は、どこかあの日の夏生さんに似ているような気がする。目の前にいる少年は、もう僕の知る雛菊では無かった。少なくとも、彼にもう、昔の僕の影や父の姿が重なることはない。
—雛菊は目を逸らさない、逃げない。
僕は唇を緩めた。価値観が違う。到底すぐには受け入れられない。時間がかかる。それは全て本当のことだった。でも、僕が彼の言葉を受け止めたように、彼もまた、僕の言葉を受け止めようとする。目を逸らすことなく、理解しようと。
もし、もしも本当に彼が僕の考えを理解したとして。
—だから、一番身近な場所にお前の考えを理解する味方が必要だ
夏生さんの言葉を思い出し、僕は笑う。互いに理解しようとさえしていれば、そうしたらもしかしたら。
—彼はいつか、僕の味方になるだろうか。
いつか、という僕の願い。それは逃げではなく、抱き始めた淡い期待だった。
「そう、じゃあ僕は君に本当は何が正しいのか教えないとね。君が人生を賭けて信じるに値する人間になるよ」
そうして僕は雛菊と向き合う。そして月日は流れ、やがて僕の期待は現実となる。
雛菊の父親の死、という最悪の結末によって。