12.懐古(肆)
八歳、僕は夏生さんに出会う。そして彼に救われ、僕は彼から全てを教わった。僕は以前のように忍びへの嫌悪感を隠さなくなり、父は再び僕に手をあげた。殴られることへの恐怖心が消えたわけではなく、夏生さんに武術を教わっても尚、僕は父に逆らえなかった。それでも、痛みに耐えることだけはできた。祖父はあからさまに落胆し、鬼灯は僕を池に落として嘲笑う。負け犬の夏生さんに着いた僕を愚か者だと誰もが嘲笑った。
将来の長として期待された操り人形の僕は、もうどこにもいなかった。
そして十一歳、僕は雛菊に出会う。けれど僕はどうにも彼が嫌いだった。彼の僕に向ける、失望の目が語っていたからだ。長になる気のない僕を、父に逆らえない僕を見下す目。諦める目。そして耳に届く優秀だという雛菊の噂。それはまるで、夏生さんに出会う少し前の壊れた僕のようだった。
—お前は決して、長の器では無い
そう、語りかける雛菊の目が、嫌いで、哀れで。きっと、彼は長に成りたかったのだろうとすぐに察しが付いた。けれどその夢は砕かれ、挙句僕に使えることになった。彼は自分が焦がれた椅子に座る資格のない僕が座る手伝いをしなくてはならない。それに屈辱を覚えているのだろう。
霧の門の歪さに気が付くことなく、その身を闇へとズブズブ沈めていく雛菊。それは、あり得たかもしれない僕の姿。だから僕は彼が哀れで、心のどこかで見下して、同情して。そして何より、大っ嫌いだった。
僕の後を補佐として追いかける雛菊。目を合わせようとせず、存在から目を背けるように避け続ける僕。そんな僕に、ある日夏生さんは言った。
「お前、随分と大人気ないのな」
あっけらかんと、彼は僕を前にして頬をポリポリと掻きながらそう言った。それはあまりに突然だった。心がざわついているのを隠せないままに夏生さんを尋ねた時、急に言われたその言葉に僕は目を丸くする。あまりにも急すぎて、それが僕の雛菊に対する態度について言っているのだと気がつくのが遅れたほどだった。
「…大人気ない、ですか?」
戸惑いを隠せないまま告げた言葉に夏生さんは至極当然とでも言うかのように頷いた。
「あぁ、大人気ないだろう。お前が雛菊についてどう思ってるかとか、そんなことは知ったこっちゃないが、噂に聞く限りではお前の態度は大人気ないと思うぞ」
僕はそれまで、一度も夏生さんに雛菊の話をしたことは無かった。意図していた訳ではなかったが、今思えば無意識に避けていた話題だったのかもしれない。かつての自分に似た、哀れな雛菊。そこから目を背けたくて。夏生さんに、自分が雛菊に対して抱くこの醜い感情を知られたくなくて。
けれど、噂というのは時に本人の口よりも物を雄弁に語っていた。僕の醜い足掻きを嘲笑うかのように、僕の態度は夏生さんの耳に届く。そして、そこに滲んだ僕の思いさえも、きっと。
「ー夏生さんの補佐は、あなたのその考えを受け入れてくれたんですか」
夏生さんもまた、僕と同じく本家の人間。だから補佐は必ずいるはずで、彼なら僕の思いがわかるはずだった。負け犬と呼ばれ、忍びから逃げた彼なら。
夏生さんは僕の問いに肩を竦めて笑った。
「朱音のことか?あいつは俺の考えなんて分かっちゃいなかったよ」
そう言うと夏生さんは僕を見て、急に真面目な顔をした。それはいつか僕が見た、威圧感を与える空気感を纏っていて、僕は思わず息を呑む。
「なぁ、俺が前に言ったこと覚えてるか。俺はお前が羨むような人生を歩んじゃいねぇっていう言葉を」
夏生さんの言葉に僕は頷く。霧の門という檻の中にいながら、その闇に侵されることなく生を謳歌する夏生さんに憧れた僕に夏生さんが言った言葉だった。
「—俺は正直、綾目が羨ましいよ。お前はあの最終試練の前にこの家の歪さに気がつけたんだから」
遠い目をしてそう言った夏生さんに僕は眉根を寄せて首を傾げた。最終試練。一人前の忍びになるべく課せられる試験であり、クリアすることで初めて霧の門の一人として正式に認められ、名前を授かる。以前、祖父からそう聞いただけで詳しい内容を僕は知らなかった。
夏生さんは僕を見て、苦笑した。そうして優しい声で言う。
「なあ、綾目。お前は強いし、優しいし、賢い。人より良くものが見えているだろうし、だからこそ嫌なことにだって気が付くんだろう。でも、お前には見えているからこそ、見えていないままに沈んで行こうとする右腕をそのままにしちゃあいけない。」
補佐である雛菊を。僕が過去の自分に重ねて厭う彼を、夏生さんは迷わず右腕と呼ぶ。僕は目を逸らせないまま、彼の真意を探るようにその目を見た。
「この家で浮いた考え方をするお前にとって、この家に疑念も持たない雛菊は理解できない嫌なものだろう。過去の自分を見ているようで嫌になるのもわかる。補佐というのは綾目が最も嫌う霧の門の長の椅子に座るのを助ける存在だ。でも同時に、一生で一番長い時間、自分の最も身近におく存在。—だから、雛菊を見捨てるな。見捨てればいつか、優しいお前はそれを後悔する」
胡座をかいた夏生さんは、いつの間にかその背筋を伸ばしていた。その眼差しに、威厳に、僕の背筋も伸びる。
「歪んだ霧の門の中で、お前のその正しい考えを貫くのは難しすぎる。いつか必ず、折られる時が来る。だから、一番身近な場所にお前の考えを理解する味方が必要だ」
「—それは、夏生さんじゃ駄目なんですか」
僕はポツリとそう尋ねた。夏生さんの言い方が、どこか寂しげだったのが気に掛かったのかもしれない。なぜだか、彼はまるで自分が将来僕のそばにいないことを前提に話しているように聞こえた。
夏生さんは僕の言葉にわずかに目を見開く。一瞬言葉に詰まって、それからどこか迷うような口調で言葉を紡いだ。
「いつまでもお前の世話をしていられるほど、俺は暇じゃねえんだ」
悪戯っぽく、いつものように揶揄うように言った夏生さん。それなのに、僕の心はどこかざわつく。それでも僕はそれ以上夏生さんに聞くことはできなかった。夏生さんが、僕に声を掛けたからだ。
「とにかくお前は雛菊を諦めるな。どんなに時間がかかったって良い。雛菊にお前が辿ったかもしれない闇へ続く道を歩ませるな」
夏生さんの目が、嫌に硬い意志を持っていたのを覚えている。