11.懐古(参)
「…で、落ち着いたか」
夏生さんに抱えられ布団に逆戻りした僕は、着せられていたまるで女のような着物の袖で、片っ端から溢れる涙を拭っていた。ずびっ、と鼻をすすった音に夏生さんは呆れたような顔をして尋ねる。
「お前、そんな格好してめそめそ泣いてたらほんとに女みたいに見えるぞ」
「…うるさい」
目の前に胡座をかいて頬杖を着く夏生さんを睨む。霧の門では最終試練を終えて一人前の忍びと認められるまで、女のように花の名前で呼ばれる。そして同時に、本家の子供だけは女物の着物を着せられていた。僕は綾目という名前に合わせて、菖蒲柄の着物を羽織る。けれど女などと呼ばれる筋合いはなかった。
僕の睨みに夏生さんはほんの少し目を見開いて、それから膝を叩きながら豪快に笑った。
「いいぞいいぞ、さっきまでの冷たい睨み方より今の方がずっと良い。もっと感情を表に出せ、若造」
「若造って…、それに、感情を表に出すことはあまり良い事では無い。そうでしょう?」
僕が言うと夏生さんはぴたりと笑うのを辞めた。僕を見て、肩をすくめる。
「綾目はどうしてそう思う?」
「…それは、」
「長に言われたからか?父親に言われたからか?忍びたるもの、常に冷静で冷酷であれ。情に流されるな。…だからか?」
夏生さんの言葉に僕は口を噤む。それが全てだったからだ。僕が言おうとしたことは、全て彼に言われてしまったからだ。そんな僕を夏生さんは鼻で笑う。
「だとしたらお前は空っぽだな」
ー本当に、その通りだ。
僕は目をふせ、自分の手を見た。小さな手。忍びになどなりたくないと何度この手で訴えても、誰も聞いてはくれなかった。所詮、叶うはずもなかった。いつしか訴えることにも疲れ、僕は考えるのをやめた。空っぽな空虚な人間になった。
でも、それがこの人に分かるというのだろうか。夏生さん。負け犬、と呼ばれたこの人は、確かに他者に見下されていただろう。彼の訴えは何も聞き入れられなかっただろう。でも、彼はこんなにも強いじゃないか。負け犬だなんて言葉が似合わないほどに。現状を変えられずとも、自分を曲げずに済むほどに。
「…夏生さん、あなたは僕のことを自分と同じ異端だと言いましたよね」
僕の言葉に夏生さんは迷わず頷いた。
「言った」
「…それは、どういう意味ですか」
夏生さんはまた、頬杖を着く。冷めた目で僕を見た。
「どうもこうも、お前はわかってるだろ。異端は異端。霧の門の考え方とは違うってことだよ」
「…あなたと僕は違いますよ」
夏生さんはそれに目を瞬いた。
「同じだろう」
それに僕は眉を寄せて笑った。力ない、情けない笑みに夏生さんは片目を細める。
「違う。全然、違いますよ。ー僕はずっと、長の言う言葉が理解できなかった。人を殺して生きていくことが良い事だとは思えなかったし、それを誇りにする忍びは歪んでると思った。忍びになりたいと思ったことは、一度もありません。…だけど、」
「お前の父親はそれを許さなかった、だろ?」
僕の言葉の先を夏生さんは紡いだ。少し、懐かしむような笑みを浮かべながら。夏生さんは自分の頭をガシガシと豪快に掻きながら、どこか遠い場所を見るように空を仰いだ。
「晃兄さんは負けず嫌いの野心家だからなぁ、当然、自分が次の長になるって息巻いたろう。そして、息子にも優秀さを求めた。ーお前が俺に怯えたのは、晃兄さんに重ねたからだろ?」
そう言って夏生さんは探るような目を僕に向ける。僕は何となく居心地が悪くなり、目を逸らした。
「殴られて、蹴られて…、でも、僕はそれでも忍びになりたいと思えなかった。むしろそんな父を見れば見るほど、あんな風になりたくないと忍びを嫌悪した。でも、疲れてしまって、」
体に襲い来る痛みに耐えながら、僕はずっとわかっていた。冷静だった僕の頭には、父の怒りを鎮める方法が浮かび上がっていた。そしてそれを実行した。
「優秀な忍びになれば、父はもう、僕に手をあげることはない」
そう呟いて、それから夏生さんに再び目を向ける。夏生さんは変わらずに僕を見ていた。
「ね、僕は自分を曲げたんです。僕には力が無いから、嫌でも現実を変えられない。痛みに耐えて、そのまま辛い世界から自分を消してしまうことも出来ない。自分を曲げて、生きていくためには仕方ないって、どこかで言い訳をするしかない。…自分を曲げずに、負け犬と呼ばれても気にせずにいられるあなたとは違うんです」
負け犬。忍びになることを理想として、長に従うことを最も重視する霧の門においては、確かに夏生さんは負け犬かもしれなかった。子供を作らず、長の命には従わず。のんびりと、その生を謳歌する。彼らにとっての負け犬。でも、僕にとっての負け犬は僕自身だった。
夏生さんは僕の言葉を聞いて、黙っていた。沈黙が痛かったけれど、夏生さんの目だけは真剣だった。しばらくした後、夏生さんは小さく自嘲するように笑って、ぽつりと呟いた。
「俺はお前が羨むような人生を歩んじゃいねえよ」
「…え?」
上手く聞き取れなかった言葉に、僕は目を瞬いた。夏生さんは柔らかく笑い、なんでもない、と言う。それから僕の頭の方へと手を伸ばした。
「…っ!」
けれど、僕は思わずそれに目を固く閉じ、身構えてしまう。相手は夏生さんだということぐらい、わかっている。僕に手を挙げた父は記憶の中で、もうずっと昔のことだということも。それでもどうしても、体は反射的に庇おうとしてしまう。焦げついた記憶が、離れない。
僕はすぐに目を開いた。夏生さんは伸ばしかけた手をそのままに、僕を見て困ったように笑う。
「ごめんなさい、そんなつもりじゃ…」
「いや、良いんだ。わかってるよ。悪かった」
空を切った夏生さんの手が地面に落ちる。僕はそれを見つめて、心が痛むのを感じた。自分が情けない。いつまでも昔の傷を惨めったらしく舐めて、怖がって、忘れられないで。今だって、思い出してしまったことを後悔している。取り戻してしまった感情を疎ましく思っている。あのままいられれば、僕は罪の意識に苛まれることもなく、何不自由なく忍びとして生きていけたのではないかと思ってしまう自分がいる。それは自分が最も恐れたことのはずなのに、どこか心惹かれてしまう。
どうして、自由に高潔に、正しく生きていくことの方が難しいのだろう。人の言いなりになって、汚れて生きていく方が何倍も楽なのだろう。どうしてこんなにも、僕は息苦しさを覚えているのだろう。
「綾目、お前は正しい」
自己嫌悪に陥る思考の中、夏生さんの声は強く耳の鼓膜を揺らした。僕はそれに顔をあげる。
「お前が今まで悩んだことも、折れてしまったことも、それでも諦められなかったことも、全部間違っていない。間違いにしなければ良い。お前が悩んだのは、お前がちゃんと自分の頭で悩んだからだ。お前の中にある、誰も傷つけたくないという優しさは、絶対に間違いなんかじゃない」
夏生さんの目は僕を射抜く。彼の手が、そっと僕の胸の方を指差す。
「この歪んだ世界でそれに自分で気がついて一人で立ち向かったお前は、強い」
「でも…」
「だから—」
言い淀んだ僕の言葉に、夏生さんは間髪入れずに言葉を続けた。
「だから、今度は自分を曲げなくて済むように、俺がお前に力を教える。お前の人を惹きつける力も、優しさも、全部わかってる。わかってるから教えるんだ。力は使い方を間違えれば忍びのように多くの命を奪うこともできる。—綾目は、それをちゃんと、正しいことに使うんだ。自分を守れるように、そして、自分が思う正しさを守るために」
目を見開く。涙が一つ、目の端から落ちる。夏生さんが、僕に手を差し伸べる。
「負け犬についてくる愚か者になるか、綾目」
人を惹きつける才能?夏生さんは僕の何をみてそういったのだろう。目が節穴じゃないのか。本当に人を惹きつける人というのは、きっと、あなたのような—…
僕は笑って、その手を取った。




