10.懐古(弍)
「おい坊主。お前、怪我してるぞ」
祖父の下で行った戦闘訓練の後、フラフラとおぼつかない足取りで家へと歩いていた僕は、不意にそんな声を聞いた。声の方向へと目を向けると、ちょうど通り過ぎようとしていた木の下で腕を組み、こちらを見ている男がいる。筋肉質でよく日に焼けた、ガタイの良い男だった。
「…おじさん、誰」
ぼんやりとした思考で僕は興味なさげに口を開く。体が重い。今すぐにでも目を閉じてしまいたい。男へと向き直りながらも、僕は疲労を隠せないでいた。男はそれに大口をあげて笑い声を上げる。僕はそれを胡乱な目で見つめていた。
「随分お疲れじゃないか。でも自分の怪我に無関心とはいけない。自分の身は自分で守らなくちゃならないからな」
そう言うなり、男は大股で僕との距離を詰める。僕はそれに驚いて目を見開き、咄嗟に距離を取ろうと足を引いた。…つもりだったが、思ったよりも体は限界を迎えていたらしい。足は思うように動かず、もつれて僕は倒れ込むように後ろ向きに転んだ。男はそれでも構わずに僕に詰め寄る。その姿が不意に何かに重なる。一瞬強く脳を揺さぶった記憶に僕は顔を顰め、それからうまく息が吸えないことに気がついた。ひゅ…っ、と笛のようなか細い音を立てて浅く息を吸い込んだ時、重なった記憶が蘇る。僕はそれに目を見開き、顔を歪め、頭を抱えた。
「嫌…っ!!!」
何かから庇うように体を小さく丸めた僕に、男の足が止まる。虚無だった僕の心を恐怖が埋め尽くす。心臓は嫌な音をたて、僕を急かすように素早く波打った。けれど体はまるで嘘のように動かない。恐怖に染まった目を、父に重ねた男へと向ける。体はガタガタと震え出した。
「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい…っ!」
小さく夢中で繰り返す言葉。それに何の意味があるだろう。けれど僕は駆り立てられるようにその言葉を繰り返す。男の驚愕に染まった顔。僕の目には憎しみの染まった父の顔が映る。
男は僕に手を伸ばした。
記憶の父が、僕の方へと手を伸ばす。髪を掴んで、揺さぶって、叩きつけて。それから…
「ごめ…なさ…」
一筋溢れた涙と共に、震える唇がそう囁いた。それから急に、視界が真っ白に染まる。
「おい…っ?!」
何かに引っ張られるように体が崩れ落ちる感覚と、地面のざらついた冷たさ。男の太い声。それを最後に僕は気を失った。
◯◯◯
額に触れる、冷たい何かと鼻を刺激するツンとした匂い。
—アルコール?
僕は閉じていた瞼をゆっくりと開いた。同じ屋敷の中だから当然かもしれないが、目に映るのは見知った天井で、けれど僕が寝かされている布団は知らない匂いがした。体を起こすと額から濡れた布切れが落ち、それをしばらく見つめて拾おうと手を伸ばす。そこで初めて、自分の右手を覆うように包帯がぐるぐるに巻かれていることを知った。妙に厚ぼったく巻かれている包帯に首を傾げる。どうして包帯が巻かれているのか。動かしにくい。数字を言われて算盤の珠を弾いたみたいな、反射的な考えだった。僕は右手の包帯を解こうと、左手をそれに伸ばす。
「触るな」
不意に響いた太くはっきりとした声に、僕は体を震わせた。声の方へと目を向け、その姿を確認した時、僕はようやくぼんやりとした思考が冷める。
「おじさんだね、僕をここに連れてきたのは」
目を細め、冷たい声でそう言った。おじさんはそれに小さく笑い、腕を組んで部屋の入り口の柱にもたれかかる。
「そりゃあ、目の前でぶっ倒れたら連れてくるしかねえだろ」
ぶっ倒れる。その言葉に僕は静かに殺気を放った。わかっているのか、いないのか、おじさんはそれに全く揺らがない。
「ここに連れてきてくれたこと、それから怪我の手当ては感謝します。ですが、あの時見たものは忘れてください」
「…忘れろ、ねぇ」
意味深に笑ったおじさん。僕はそれに何も言わず、布団を這い出て立ち上がった。そのままおじさんに目を合わせないまま入り口から出ようとする。
けれど、それはガンッ、という強い音と共に目の前の道を塞いだおじさんの足のよって拒まれた。僕はその足を見、そしておじさんを睨む。
「何するんです」
おじさんは僕を斜めに見下ろし、意地の悪い笑みを浮かべた。それは僕の睨みなんかより、よっぽど恐ろしかった。余裕があるような笑み。殺気。自分が格下なのだとはっきり思い知らされる。
「坊主、晃兄さんのところの坊主だろ?」
—晃
おじさんが紡いだ言葉に僕は目を見開く。それは僕の父の名前だった。そしておじさんは言った。晃兄さんと。僕の父は三兄弟の次男だ。それを兄と呼ぶのは三男である叔父をおいて他にいない。
「おじさん、夏生さんだね」
睨んだ目をそのままに、僕は確信を持って言った。その言葉はおじさんの正体を言い当てるものでありながら同時に僕自身の素性を明かすものだった。僕の言葉におじさんは歯を見せて笑う。好戦的な笑みに、僕は思わず一歩足を引いた。それに僕は目を見開く。
—これがあの、負け犬?
父や鬼灯、祖父から延々に聞かされていた言葉を思い出す。叔父・夏生さんは出来損ないの負け犬だと言う言葉。子供もおらず、忍びとして何も持たない。次の長の座を奪い合う、その土俵にすらいない。
夏生のようにはなるな、負け犬になるな。そう、言い聞かされてきたのに。
僕の目の前にいるこの男が本当に夏生さんなのか。負け犬なのか。頬を伝った冷や汗。僕は震えた足に力を込める。今、僕は完全に狩られる側だ。僕はこの男には勝てない。この男は、負け犬じゃあない。
「綾目」
静かに、けれど威圧感のある声で呼ばれ、僕は肩を震わせる。夏生さんは僕を斜めに見下ろしたまま口を開く。
「お前、最近調子良いみたいじゃないか。よく噂で耳にするぞ。次の次、将来霧の門の長になるのは綾目様だろうって。以前とはまるで別人のような噂をな」
その言葉に僕は今度こそ夏生さんを睨んだ。
「何が言いたいんです。—あなたは僕に何を聞きたいんだ」
そう言うと、夏生さんは喉の奥で堪えるような笑い声を漏らした。それからもたれかかっていた柱から身を起こし、僕の方へとかがむ。目線の高さを合わせ、真正面から見つめられる。そこには先ほどまでのような好戦的な笑みも、威圧感も何もなかった。真剣な温度のない眼差しだけが、まるで僕が一生懸命隠したものを暴くかのように心の内を覗いてくる。生唾を呑んだ。
「綾目、お前の本性はどれだ?」
静かに問われた言葉。夏生さんは続けた。
「冷酷な暗殺者か。長の命令に、親父の言葉通りに動く、操り人形か。将来有望な理想の忍びか。何も持たない空っぽの人間なのか。それとも—…」
—…て
耳の奥、心の奥底から何か小さな声が聞こえるような気がした。心がざわつく。ずっと暗闇ばかりの、音もない、凪いだ世界だったのに。今、小さな漣が立つ。平穏が、崩れる。
—…めて
「それとも、俺の前で何かに怯えたように気を失ったお前なのか」
半ば確信めいたものを抱えた目が、僕の目の奥を覗く。心臓がどきりと大きく脈打った。唇が震える。何か言おうとして、言葉が紡げない。
—やめて
遠くから聞こえていた小さな声が、ようやく耳に届く。幼い僕の声。怯えきった、震える声。体を小さく丸めて何も聞こえないように、何も見ないように閉じこもる僕。ずっと前に心の奥底に押し込めて隠した、本当の、僕。
「お前も俺と同じ、異端だろ」
夏生さんの声が僕の心を揺らした。これ以上ないほど開かれた僕の目。さっきから、何か音がうるさい。そう思っていたが、僕はその音が僕の心臓の音だとは気が付かなかった。僕がしゃくりあげるように繰り返し吸っている呼吸の音だとは。酸素が吸えない。苦しい。
—やめて、もう、僕は…!
夏生さんのこちらを見る目の中に、頭を抱えて首を振る少年の姿が映った気がした。息ができない。苦しい。浅い呼吸が、どんどん早くなる。
「僕は…っ!」
喘ぐように吐き出した言葉。震えた唇。うまく働かない頭。自分でも何が起こっているのかわからなかった。
「僕はもう、全部忘れていたかったのに…っ!」
言い切って、膝から崩れ落ちた。それを夏生さんが捕まえて抱える。喉が痛い。目が熱い。
絶叫するように泣いていることに僕自身が気がつくのは、泣き止んで落ち着いた後だった。