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しのぶれど。  作者: 朝月夜
◆『懐古』編
12/31

9.懐古(壱)

 鬼灯に切られた首の傷が熱い。僕がそこに触れると、ぬめりとした感覚と共に血の温かさが手に染みる。


「綾目さま、傷の手当を」


 白音が僕に歩みより、眉根を寄せた険しい顔をする。そのまま僕の傷に触れようと手を伸ばすので、僕はそれに首を振った。


「大したことない、気にしなくて良いから」


「ですが…っ!」


「良いから」


 僕の言葉に白音は何かを飲み込んで顔をゆがめた。傷へとのばし損ねた手でそのまま拳を作り、力なくそれを僕の胸へと叩き付ける。


「馬鹿じゃないですか、綾目さま…」


 白音の掠れた声が、耳に刺さった。傷からとめどなく、細く血が溢れているのがわかる。頭に昇った血が失われて、冷静になれるような気がする。ちょうど良い。少し、冷静さに欠けていたところだ。


「…()()()に比べたら、痛くないよ」


 眉を寄せて笑って見せた僕の顔が、白音の瞳に映る。白音はそれを見て、また顔を歪めた。


「さぁ、牛車を追いかけないと」


 僕は白音の顔から逃げるように踵を返し、茂みの中、遠くに去っていった牛車の方へと歩みを進める。背の高い草が僕の服を撫で、ガサガサと音を鳴らした。足を踏み下ろす度、草が小さく悲鳴をあげる。不意に歩いてきた道を振り返れば、そこには細く僕の通った道が浮かんでいる。木々の影、二日月、深い茂み。暗く、黒く、沼の底のような道。重く足が取られる。視界が悪い。—何も、見えないはずなのに。忍びとして幼い頃から教育を受けてきたせいか、僕の目にははっきりと全てが映る。見たくないものまで。僕はこっそり自嘲した。細く尾を引く茂みをかき分けた痕跡は、まるで僕が今まで歩いてきた道だった。踏みしめて悲鳴をあげた草だって—…


 血が流れる、首の傷が熱い。


 —『あなたが私の話し相手になってくれて良かったわ』


 ねぇ、杏。君は知らないだろう?僕が一体何者で、今まで何をして生きてきたのか。君と団子を齧って話す傍らで、僕がどんなに冷たく冷めた思考をしているか。僕の手が血に塗れていることも。君は、何も知らない。


 市女笠の下、柔く弧を描いた紅の乗る唇を思い出して、僕は急に胸が締め付けられたような気がした。杏は何も悪くない。裏切っていたのは僕だ。それなのに、彼女に裏切られたような気分になった。


 彼女と過ごす、あの時間があまりにも穏やかで、ゆったりとしていたから。焦がれて手を伸ばしても届かないはずの「表」の世界に彼女があの時強引に僕の手を引いて連れ込んだから。本来関わるはずもなかった、踏み入る資格すら持っていなかった僕なのに、いつの間にか錯覚していた。僕も、いつかはって。所詮、あれはまやかしだったのに。


 どうして、僕は僕の犯した罪を一瞬でも忘れていられたんだろう。馬鹿な夢を描いたんだろう。


 痛むこの心臓はなんだ。自分がバラバラになるような感覚は。


 空を仰ぐ。木々の隙間から覗く、薄い二日月。仄暗い光。


 —『私、感情の機微を読み取るのが得意なのよ』


 ねぇ、杏。そんなに得意げに笑うなら、僕が隠した本性を読み取って。暴いて。そして、どうか僕から逃げて。僕の血に塗れた手はいつか必ず君を傷つけるから。杏が何を隠していても、顔を見せようとしなくても、本名を言えなくても、なんだって良い。君はずっと、光の中で団子を食べて—…


 鬼灯の言葉が蘇る。負け犬の僕。夏生さん。()()()と同じ状況。僕はまた、何も守れない。ただ失うだけ。


 僕は静かに瞼を落とした。昔の光景をなぞるように。


 ◯◯◯


 目の前に、父の手が迫る。それは勢いよく僕の髪を乱雑に掴み、壁の方へと投げつける。小さな体は叩きつけられ、背中からの衝撃に息が止まる。目を見開いて、今度は急に肺へと流れ込む空気に咳き込んだ。涙で霞む視界で父を見上げる。父の、鬼のような、憎悪に歪んだ表情を。


「父…上…」


 僕の声に、父は舌打ちをこぼす。そうして、また、髪を乱雑に掴み上げた。痛みに顔を歪める。


「痛い…っ!」


「痛い…?ふざけるな、お前はどうしていつもそうなんだ!!」


 目の前に迫る、父の顔。耳をつんざいた怒号。涙に濡れる目が、これでもかと開かれる。髪を引っ張られて痛い。打ち付けられた背中が痛い。心臓が、痛い。


「お前がそんなんで俺はどうしたら良いんだ!そんなんで、兄貴の餓鬼たちに勝てると思うか?!」


 掴んだ髪で、揺さぶられる。唇をかみ、目を固く閉じて痛みに耐える。


 ごめんなさい。


 ごめんなさい、ごめんなさい。


 不出来で、意気地なしで、無能で。


 生まれてしまって、ごめんなさい。


 ポロポロと落ち続ける涙。収まらない父の怒り。


 —深く刻まれた、心の傷。


 霧の門本家に生まれた僕の父は先代の長である僕の祖父の次男だった。長男である伯父には長男・鬼灯のほかに別の母親の子供である双子の椿と牡丹がいた。三男の叔父・夏生さんには子供はいない。僕ら子供世代が祖父から忍びとしての教育を受ける傍ら、長が高齢になるにつれて次の長は誰になるかという問題が上がり始める。候補者は父、伯父、そして夏生さん。長の決定には様々な要素が関わってくるとはいえ、その子供の優秀さも問われることがあった。


 だからだろうか、父の僕への態度は、ある時を境に豹変した。父は僕に忍びとしての素質を求めた。才能を、野心を、努力を。けれど僕は霧の門に生まれ、忍びになるべく育てられてきたにも関わらず忍びになりたいと思えたことはない異質者だった。人を傷つけて生きていくことが良いことだとは思えなかった。仕方ない、と心の中で折り合いをつけることもできなかった。女が一人もいない霧の門に違和感を持った。長の言うことを信じて疑わない家が、歪んで、気持ち悪かった。父の望みとは逆に、僕には忍びになる意思がなかった。そして、一番求められる冷酷ささえも備えてはいなかった。


 父は焦った。このままでは確実に優秀な子供を育てられなかったと言う点で伯父に劣ると。実際、鬼灯も椿も牡丹も忍びとしての才能を見せ始めていた。特に鬼灯は野心家で長にも一目置かれていた。


 父は呪いのように僕に囁く。お前も忍びとしての意識をしろと。長になれと。


 僕はそれを拒否し、殴られ、蹴られた。


 ただ、それだけだった。


 それを幾度となく繰り返していたある時、僕ははっきりと、何か固いものがぽきりと音を立てて折れたのを聞いた。それにほんの少し驚いて目を見開き、けれどその直後、急に視界に映る景色が灰色に、味気なく見えた。あんなに悲鳴をあげていた心臓も、もう痛くなかった。


「父上、僕、言うとおりにします」


 振り上げられた父の拳を無感動に見つめていた時、僕は小さく口を開いて無感情にそう言った。振り下ろそうとされていた拳が、ぴたりと僕の鼻先で止まる。


「僕は、霧の門の長になります」


 —疲れた


 心の奥底で、悲鳴をあげながら泣いていた僕はもういなかった。静かに凪いだ暗闇だけが広がった虚無だった。僕の言葉に父は目を見開き、それから手の平を返したように喜んだ。ようやくわかってくれたか、我が息子よ、と。それまで決して与えられることがなかった笑顔と抱擁。それを受けながら、僕の目に父は映らず、何も聞こえてはいなかった。


 僕は父の操り人形だった。


 忍びたる者、何も考えず、任務に忠実であれ。


 長の命令には絶対服従。


 常に冷酷であれ。


 祖父の呪いの言葉通りに、何の疑問も抱くことなく、機械のように。そうして訓練に励み動く僕はきっと、理想の忍びそのものだったのだろう。()()()()()()()()()()()()()僕は、次第に長からの期待を背負うようになった。


 僕は、壊れていた。


 心には何も抱かず、父の望むまま、祖父の望むままに振る舞う僕に、僕自身は存在しなかった。空っぽの人間だった。心の痛みはもちろん、いつしか、僕は体の痛みにすら鈍くなった。僕自身が傷つくことを何とも思わなくなった。閉じ込め、心の奥底へと封じられた僕の本音だったのかもしれないと思う。このまま体も壊れて、死んでしまえれば良いと。


 だから、祖父の下で行っていた戦闘訓練で負った怪我にも気が付かなかったのだろう。


「おい坊主。お前、怪我してるぞ」


 —快活に笑う、夏生さんに声をかけられるまでは。

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