オチャコと黄泉送り路面電車の噂
聖アガサ女学院の制服姿になった浅井茶子さんが通学カバンを持って、リビングに顔を出します。愛称は「オチャコ」です。
のほほんと麦茶を飲んでいるお母さんが話し掛けてきます。
「あら、あんた学校?」
「見ての通りよ。今日、図書室の開放日なの」
「ふうん。気をつけて行きなさい」
「はあい!」
颯爽と歩いて地下鉄T線の駅へ向かうのです。
太陽光線が眩し過ぎます。
出発してから四十分くらいで、聖アガサ女学院に到着しました。
中等部三年三組に在籍する図書委員の山一豊子さんが、図書室の貸し出し窓口にいます。彼女の愛称は「トヨッピー」です。
よく話すクラスメイトの一人だから、笑顔で挨拶します。
「おは!」
「こんにちは。とっくに午後ですよ」
「あっ、そうだった。一本取られたでござる」
「……」
「あはは、お疲れっす。でもトヨッピー、なんだか暇そうだわねえ?」
「退屈過ぎて、雇っている欠伸係が、ブラックバイトだって怒りそうです」
「なにそれ、ウケる」
他愛のない雑談をしていたところ、トヨッピーが急に声をひそめます。
「ねえオチャコさん、こんな噂があるのを知っていますか」
「えっ、なになに?」
「可愛がっている孫のうち一人を失い、罪悪感で首吊り自殺した松吉さんが、十三掛ける素数年後の命日がくると、ゾンビになって黄泉送り路面電車を運転して、十四歳の少女と八歳の男の子をさらってゆくのよ」
「は??」
トヨッピーは、平然とした面持ちで一から説明を始めます。
「今から九十一年前、東京で、当時は沢山の路面電車が走っていたのだって」
「ふうん、それで?」
「松吉さんにはね、とても可愛がっている孫が三人いたの。十四歳の少女Aさん、弟の十一歳Bくんと八歳Cくんよ」
「へえ~、孫たちはアルファベットの仮称なのね」
「事件は八月十三日に起きたわ」
「あっ、今日と同じ日」
「九十一年前のね」
その年の八月十三日、松吉さんがBくんと一緒に百貨店へ出掛けました。孫を三人とも連れてゆく予定でしたけれど、生憎なことに、AさんとCくんは、夏風邪のせいでダウンしていたのです。
帰り道、はしゃいでいたBくんが路面電車に激突して死にました。
大きなショックを受けて悲しんだ松吉さんは、その夜「儂がしっかり手を握っておれば、Bくんは、あんな目に遭わずに済んだはずじゃわい」というような罪悪感のせいで首を吊りました。
ここまで聞いたオチャコが思わずつぶやきます。
「悲惨な事件だわ」
「まったくね」
「それでどうなるの?」
「二十六年後の命日、つまり今から六十五年前の八月十三日、松吉さんとは関係のない他人だけれど、Bくんが死んだ場所の近くにいた十四歳の少女と八歳の男の子が、忽然と姿を消したの。二人はゾンビになった松吉さんにさらわれたのよ」
「ええっ、それってマジ?」
「噂話だから、信じるかどうかは、その人次第」
「あたし信じるわ。だって、信じる者は救われるはずだもの」
「そうですか」
トヨッピーは、平然とした面持ちで話を続けます。
「三十九年後の命日に同じような事件が起きたの」
「偶然かしら?」
「どうでしょうね。実際、二度あることは三度あるという言葉通り、六十五年後の命日に、また十四歳の少女と八歳の男の子が行方不明になったわ」
「うわ、あたしの推理脳が必然性を感じている!!」
「SNSに拡散されている噂によると、社会心理学者というのを目指している高校生が法則を見破ったそうよ。十三掛ける素数年後の命日がくると、必然的に惨劇が繰り返されるという法則があるのだって」
「ええっ、怖い法則だわねえ!」
「今年が九十一年後です。オチャコさん、九十一を素因数分解してみて」
「あたしは、そういう高度な計算のできる女じゃないから……」
「十三で割ればいいのよ」
「あ、そうか」
オチャコは、スマホの電卓アプリを使います。
「九十一割る十三は七だわ」
「それくらい自分で考えないと、ずっと計算が苦手のままです」
「あたし、計算高い女にだけはなりたくないの」
「そうですか」
トヨッピーは、「高度な計算のできる女と計算高い女って、表現として似て非なるものだわ」と思うけれど口には出さず、平然とした面持ちで話を続けます。
「七は素数。今年が十三掛ける素数年後に該当します」
「うん」
「ここ数日、SNSで一部の人たちが騒いでいるわよ。今年の八月十三日、つまり今日、松吉さんが再びゾンビの身体で黄泉帰るとか発言しているのよ。彼は、初めて路面電車を見た時から運転士に憧れていたのだけれど、だから自分で黄泉送り路面電車を運転して、十四歳の少女と八歳の男の子をさらってゆくに違いないって、圧倒的多数が信じ込んでいるわ」
「なるほど。あたしの知らないところで、そんな噂が広まっているのね」
オチャコは得心すると同時に、一つの疑問を抱きます。
「それにしても松吉さんは、ゾンビになってまで、どうして子供をさらったりするのかしら?」
「黄泉の国にいる十一歳のままのBくんに、お姉さんと弟の代わりになる子供が必要だからよ。松吉さん自身も、きっと寂しいでしょうし」
「迷惑な人さらいゾンビだわ。でも以前さらった子供たちはどうなったの?」
「知りません。大人になって用済みになるのかもしれないわ」
「ふうん」
「あと別の法則もあるのよ」
「どんな?」
「さらわれる十四歳の少女は必ず、Aさんと同じ九月生まれだってこと」
「えっ!?」
「もしかして、オチャコさん」
「うん。あたし誕生日が九月二日で、今まだ十四歳なの」
「前回の事件で行方不明になった二人は、地下鉄T線に乗っていたところ、忽然と姿を消したらしいわよ」
「ええっ!!」
「帰り道、くれぐれも気をつけて下さい」
「……」
オチャコは、通学カバンに入れてきた三冊の本を返却してから、別の三冊を借りました。そして、不安な胸ドキの状態で、聖アガサ女学院を後にします。
帰宅するため、地下鉄T線に乗らなければなりません。午後二時半頃です。車内は、どちらかというと乗客は少ないです。
空いている座席に腰を下ろします。
通路を挟んで向かい側、オチャコから見て一人分だけ右へずれたスペースに、白い半袖シャツと黒い半ズボンという身なりの男の子が座っています。首に結んでいるネクタイは黒です。荷物は持っていません。
《八歳くらいだわね。一人で乗ってきたのかなあ?》
周囲に、男の子の連れらしい人物は見当たりません。無表情で行儀よく座っている姿に違和感を覚えました。頭上の荷棚には、雑に折り畳んだ新聞紙が放置されていて、他になにも載っていません。
相手が年下の子供でも、しげしげと観察するのは無礼になるでしょうし、「変な女に見られていてウザい」だなんて思われたくないから、オチャコは視線をそらして、借りてきた本のうち一冊を通学カバンから取り出そうとします。この瞬間、手が滑りました。
電車の床に着地した単行本を右手で拾ってから、ふと気になって、男の子の位置に視線を戻します。
《あれっ、まさか!?》
人の動く気配をまったく感じなかったのに、男の子がいません。五秒くらいの隙に、忽然と消えたことになります。
無人となった座席に、どういう訳か、白いつぼみのついた「お供え」にするような花の茎が一本だけ置いてあります。見るからに場違いです。オチャコは、背筋が凍るかのように震撼させられました。
夜中に、不気味な夢を見るのです。
冷たい風の吹く暗闇を走る路面電車に乗っていて、近い座席に喪服を着た男の子がいます。他に乗客の姿はありません。運転しているのが老男性のゾンビで、制服の胸についている名札に「松吉」と書いてあり、血液と涙で滲んだように汚れて、悪臭を放つかのようでした。
これは絶対トヨッピーに話そうと思いました。でも、それができません。彼女は行方不明になったから。