安寧の閉環
そこは黒で満たされた空間だった。わずかな作動音が空気を振動させている。その空間の主は無数の集積回路によって象られた大きな意思をもつコンピューターだ。
外部とのネットワーク回路を兼ね備えた電解溶液に満たされ、そのコンピューターは思考を続ける。作られてから幾星霜の時を息つく間もなく生き続け、この先、億度月が満ち欠けてもなお休む事は許されない。そう作られた。
動作に合わせ明滅し、硬質なアクリルのようなもので覆われ形作られた巨大な水槽に浮かぶその姿はまるで、胎動をしている羊水の中の赤子を思わせた。
人々が生み出し、己が未来の舵取りを任せた文明の赤子。その名を「CentraL‐セントラル‐」と言った。
その意思は人々の願いによって作られ、己の存在意義を全うすることのみを常に考えていた。選択と責任と過ちの繰り返しの螺旋に疲弊し、行き詰った人類からその重責を引き渡され楽園の管理を任された存在。神に守られたエデンで口にした林檎で、考える力と変わる力を手にしたヒトが行きついた先は変わらぬ世界だった。
セントラルが数度瞬く。
水槽の下部に取り付けられたモニターに、セントラルのシステムのログが表示されていく。
見る人間など想定されておらず、いまやセントラルのある世界の中枢の部屋に入る事を許された人間すら居はしないの何故この様なモニターが存在するのか。それはコンピューターに管理される事を望んだ人類が、それでもコンピューターによる管理をあくまで人が監視するのだ、と言う滑稽な姿勢の現れであった。
――異思矯正統一選瞥の正常動作を確認。対象コードID38485bbo9福見マルセオ。
――当該のネイション二級市民に未然危険対象域の思想を確認。以降ネイションの恒久安定規定に従い、異思洗浄への移行。適応プログラム、コードIC。
――矯正人格の移植による、自律思考レベルの抑制を確認。
――ID38485bbo9福見マルセオの思想を再走査。
――未然危険対象域への浸潤は確認できず。第三種保護観察処分に指定しネイションへ復帰。
人が血の山河の上に築いた約束の地。それが情報集積回路による中央集権システムによって運営されるネイションだ。
一切の格差なき社会システムが成し得た完全なる平等。飢えと寒さ、病いから解き放たれた人々は、他者の領域を侵さない限りにおいてありとあらゆる肉体的、精神的な充足を許され、緩やかに生き、緩やかに死んでいく。すべてが許された世界。人類の科学が成し得た最高到達点と人々は諸手を掲げてその仕組みを受け入れた。その背景には豊かになる技術に反比例して歪んでいく世相が数多の涙と悲哀を産んでいたという事実があった。
ネイションの実施前。そのシステムに異を唱えた社会学者が居た。ユーゼクルフ・篠岡。世界統合政府の保安機関から弾圧を受け、人権団体や宗教家からは光に闇に命を狙われ、亡命先のアフリカの某国で凶弾に倒れた反ネイション派の旗頭だ。
彼は生前。反ネイション派コミュニティの広報動画内で、「CentraLは墓守だ」と揶揄しながら、こう続けた。「生を追求してきた進化の果てが可能性の凍結という袋小路を選択したという事が私は悔しくてならない。殺し、奪い、犯し、盗む。そんな陰惨で許されざる行為が蔓延りながらも、我が子を抱き聖母の笑みを湛え、酒盃を空にしながら友人と夜通し笑い転げ、歌と画と踊りを愛し、誰かのために涙を流せる。そんな世界こそが私は好きである。どうか一人でも多くの人にこの想いが届いて欲しい。正しいとは言っていない。そういう世界が、私は、好きなのだ。ただそれだけだ」
彼の言葉は、その劇的な死に様と相まって一時のセンセーションを巻き起こした。しかし、安寧を求める世論の波は揺らがなかった。
西暦2285年。人類はついにゴールにたどり着く。
そんな歴史の上で墓守が黙々とその仕事をこなしていた。
彼の仕事は墓と揶揄された楽園の管理。楽園に異を感じる者、楽園を汚そうとする者、それを矯正する事が彼の役目だ。決して殺しはしない。なぜならそれらの人間を守るために彼が存在するからだ。
「プログラムコード‐003PA/IC‐」それはセントラルが使役する、主人から授かった道具。均整と調和の権化であるネイションをかき乱す存在を見つけ出し、その存在を無毒化する、ネイションの免疫機構だ。
セントラルのお膝もとの排他地域にあるビルの一室。安寧と停滞の連鎖に疑念を抱いた男が電子の世界から帰還し、ゆっくりとその瞳を開いていく。福見マルセオだった福見マルセオが。
もしこの文章を目にしている貴方が、決して短くはない本作を読んで頂いた方であるなら、心より御礼を申し上げます。
そうでない方、「今すぐ読んでください」といいたいところですが、なにぶん量が量ですからね。無理しないで頂いて、もし少しでも興味がおアリでしたら、是非、通して読んでみて頂ければ、幸いでございます。
さて、後書きです。
「ゲームの相手が自分」という着想から短編を練っていたときから、思えば遠くに来たもんです。
まさか40000字弱にまで伸びるとは。はっはっはっはっはっは。
いつも小説を書くときは後書きに何書こうかなんて思いを馳せながら執筆をするんですけど、大体書き終わる頃には一字でも言葉を紡ぐ事が億劫になってるもんです。この作品は今までのそんな経験の中でも最たるもんですね。
期せずして長編になった事でプロットの大切さや構成というものを意識させられる結果になったとか。
あとは、そもそもSFとしてのこのオチがどうなんだとか。
っていうか閉鎖空間でのアクションサバイバルものとして、とか云々かんぬんあるわけですが、もういいや。また別の機会にしっかりまとめてどっかに書こう。
とりあえずちゃんと終わらせられて良かった。
ではでは。
また別の作品の後書きでお目にかかれれば幸いです。