魔法は信じるものじゃない
「マチアス、学校は楽しいか?」
ラーズ叔父さんにそう聞かれて、僕は「うん」とだけ答えたけど、ほんとうはもっとたくさんのことを答えたかった。あの灰色の場所のことについて、話すことは特別何もない。何もないということをたくさんのことばで話したかった。叔父さんの知っている僕の子供時代がどれだけ幸福に満ち足りていたかということと、現在の僕の毎日がどれだけ何もないかということを、比較しながら雄弁に語りたかった。でも──
「そうか」
叔父さんは、僕の言葉を信じてしまった。安心したように笑顔を浮かべると、また世界のどこかへと旅立ってしまった。
写真家になりたい。ラーズ叔父さんの弟子になって世界中を旅して回るほうが、きっと学校の勉強より何倍も僕を成長させるだろう。でもパパとママがそんな自由なことは許さない。僕は真面目に勉強して、きちんと学校を卒業し、将来はどこでもいいからいい会社に就職して──そんなことを予想するだけで、僕はまた憂鬱の檻の中で膝を抱える。
「魔法を信じるか?」
大声でそんなことをいいながら、クラスの陽気なやつが、僕の席のすぐ横を駆けていった。
彼の目には僕が見えていない。きっと卒業してからは、僕の名前など思い出しもしないことだろう。僕はまるで亡霊だ。生きているうちから誰にも存在を気づかれていない、それでいて魔法のように人気のあるオカルトなものでもない。あってもなくても変わらない、そんな無価値な存在だった。
天井を見上げる。白いそこについた染みが人の顔のように見えた。そいつにじっと見られているのが嫌で、木の机に目を落とす。木目がまた顔に見えてしまった。どこを見ても人の気配がする。けれど僕はひとりぼっちで、やるべきことも何の役に立つのかわからない勉強を除いて、何もないのだった。
「ねぇ、マチアス・ヒュッテガルド」
前の席の男の子に名前を呼ばれ、僕は急に自分が存在していることを思い出したように、びっくりして顔をあげた。
「あ……。何? ユーリウス・ウシャウコフスキくん」
白い細面の彼の顔についた、表情の希薄なふたつの目が、じっと僕を見つめていた。
彼──ユーリは不思議な男だ。僕よりも静かで、存在感もないように見えて、まるでクラスで一番の有名人みたいなオーラを纏っている。
「宿題、やってきた?」
「あ、うん。もしかして忘れた? いいよ、見せるよ。書き写しなよ」
僕は彼が宿題を忘れたものと決めつけて、そう言ったのだけれど。
ユーリは笑った。
「あの問題に隠された呪文、気づいた?」
そんなことを言うと、僕に回答を求めた。
呪文? 何のことだろう……? 僕はそう思ったけれど、負けず嫌いなところがつい顔を出してしまって、言い張ってしまった。
「もちろん! 気づかないやつ、いるのかな?」
「ふぅん?」
彼は頬杖をつくと、興味をもったように僕を見つめる。
「じゃ、彼女を助けてあげなよ」
何のことかわからなかった。でもわかってるふりをして、彼に返した。
「き、君が助けてあげればいいじゃないか」
「僕は女の子はきらいだから」
引き戸が音を立てて開いて、先生が教室に入ってきた。いつもの栗色のモコモコしたかつらを、いつも以上になんだかお洒落にセットしていた。
「朝礼をはじめるぞ」
いつもの尊大な口調で、手にした教鞭をてのひらにピシリと鳴らしながら、先生が僕らを眺めまわす。まるで囚人を統率する獄長みたいに。
そして出欠をとり終わると、教室を出ていく前に、思い出したように振り返った。
「なんだ、マルガレーテ・アルハイネ。私に用か」
先生の後を追って、一人の女生徒が立ち上がっていた。
地味な灰色の制服に青っぽい金色の長い髪を垂らした後ろ姿が僕からは見えた。マルガレーテ・アルハイネだった。大人しいけどかわいらしいと男の子が口を揃えて噂してる子だ。
彼女は先生にむかって何かいったけど、僕からは聞き取れなかった。先生は高慢な顔に満足そうな笑みを浮かべると、何もいわずに彼女を引き連れて教室を出ていった。
「早速魔法にかかったぞ」
前の席からユーリの白い顔が振り返り、僕にいった。
「マルガレーテ・アルハイネが獲物だったんだ」
どう返事をしたらいいかも、これがどういう物語なのかもわからず、僕が何も答えずにいると、ユーリの表情がなんだか険しくなった。そして悪い子を見つけたように僕にいう。
「きみ……。ほんとうに呪文に気づいてた?」
僕はもう白状するしかなかった。
「ごめん。なんのことだか意味がわからなかったけど、わからないのは癪だと思って……」
「くだらないやつだ」
ユーリが獲物を捕まえた蜘蛛みたいに笑った。
「くだらないやつは好きだ」
「教えてよ、ねぇ」
そういいながら追いすがる僕を無視して、ユーリはどんどん歩いていった。もうすぐ次の授業が始まるというのに、そんなことはどうでもいいように、どんどん校舎から離れて裏の森へと入っていこうとする。
「ねぇ、教えてよ、ユーリ。先生があの子に何かしたの?」
するとユーリがいきなり歩を止めて振り返った。綺麗なその口に人差し指を立てていた。
「しっ……。この先だ」
この先に何があるというのか、そこで何が行われているというのか、僕にはさっぱりわからなかったけれど、何だかワクワクしてしまっている自分のことには気づいていた。灰色の学校生活の中に、突然何かの舞台劇が始まったみたいな感じがして、その行方を追うのがやめられなかった。僕はごくりと唾を飲み込むと、黙ってまた歩きだしたユーリの背中をついていった。
森の中に小さな小屋があった。
木の板を無造作に張って作ったような、熊にでも襲われたら簡単に倒されそうな小屋だ。
小さな窓がひとつだけついていた。ユーリが僕に、そこから中を覗くようにうながす、いたずら小僧みたいな笑いを浮かべて。
この中に先生とマルガレーテ・アルハイネがいるのだろうか? 何をしているんだろう? 未成年が見てはいけないものだったら嫌だな──そう思いながらも見たい誘惑には勝てず、音を立てないように気をつけながら、僕は窓から中を覗いてしまった。
クラウス・ヤプス先生──中年で、栗色のモコモコしたかつらをいつもかぶってて、生徒を見下す目つきをした嫌われ者の先生だ。女生徒からの人気なんか、あるわけがない。そのヤプス先生が、マルガレーテ・アルハイネと向かい合って立ち、狭い小屋の中でキスを交わしていた。
息を飲んでその光景に釘づけになってしまった僕の背後から、ユーリの落ち着き払った声がした。
「ふぅん……。あんなこともできるんだ」
そこから先のことはわからない。
僕はすぐにユーリに手を引かれ、「授業が始まるよ」の言葉とともに、校舎へ戻ることになった。
「なんだったの、あれ!?」
興奮した口調になってしまいながら、僕の手を引くユーリに訊いた。
「なんでマルガレーテ・アルハイネがヤプス先生とキスをしていたの!?」
「魔法は信じるものじゃない」
ユーリがいった。
「現に存在するものなんだ。ヤプス先生はそれを使える」
そういいながら振り向いた彼の目が、悪匠をする世紀の大泥棒みたいにギラッと光った。
「僕はあれを自分のものにしてみせる」
Å Å Å
魔法なんて創作物の中にしかないしろものだ。ほうきに乗って空を飛び、炎や氷を杖からだして、人の心を操る方術なんて、僕は信じていなかった。クラスのやつらだってそうだ。オカルトなものはみんな大好きだけど、信じてはいない。この、20世紀になってもう50年以上が経つ、おおきな飛行機が空を飛び、映画のスクリーンに人間が閉じ込められる現代に、誰がそんな時代遅れなものを信じるだろう? ロマンチックだとは思うけど、それは信じるものですらない。あったら素敵だなと思うだけのものだ。
そう思いながら灰色の学校生活を過ごしていた僕は、いきなり未知の大陸に放り出されたように、ユーリの後をついて冒険に出たような気分だった。
ζ ζ ζ
「マジか……。先公の野郎、許せん!」
ルドルフ・マイネくんがユーリから話を聞き、壁を叩いて怒声をあげた。
「ウフフ……。やっぱり魔法はそんなことができるのね?」
ブリュンヒルデ・エグゾザムザさんが、なんだかワクワクしているような声で、いった。
「魔法は信じるものじゃない」
ユーリがいった。
「やっぱり現実に存在しているよ。僕はこの目で見た」
ユーリは一人じゃなかった。魔法の実在を探求するグループを作り、使われていない教室を使って活動していた。メンバーは3人しかいないようだったが、僕が4人目のメンバーにされた。
教室の真ん中に、机の上に髑髏が置かれていた。何をするものなのか、本物なのか作り物なのかもわからない。ただそれがこの場のオカルト的な雰囲気を盛り上げていることだけは確かだった。
窓辺にもたれて背中から陽を受けているユーリにつっかかるように、ルドルフくんが提案する。
「マルガレーテ・アルハイネを救おう! あの気障な栗色の帽子をかぶった先公の毒牙から守るんだ!」
ユーリは不思議そうな目をして聞いた。
「なぜそんなことを?」
「決まってんだろ! 正義の心があるなら許せるもんか!」
「どうでもよくないか?」
声に熱をこめるルドルフに、ユーリはあくまで冷静な口調で返した。
「先生に魔法を使ってみせてもらうためにはマルガレーテ・アルハイネはあのままがいい。実験体として、あのままでいてもらったほうが都合がいいな」
「同意だわ」
ブリュンヒルデ・エグゾザムザが微笑んだ。
「私も早く、誰かを夢中にさせる魔法を使ってみたいもの」
「魔女になりたいんだね、きみは」
ユーリがブリュンヒルデさんに優しい笑みを向ける。
「魔女狩りはとっくの昔の悪習だ。現代に魔女の力を手に入れても火あぶりにかけられることはない」
「オレは許さんぞ!」
ルドルフくんがまた声を荒らげる。
「正義の名の下において、オレは魔法を悪用するヤツは管理する!」
「ちょっと待って!」
あまりのわけのわからなさに、僕は思わず声をあげていた。
「なんでヤプス先生が魔法を使えるのさ? どういうこと?」
3人は僕のほうを振り返ると、声を揃えていった。
「知らないよ」
「知らないけど、ワクワクしないか?」
3人を代表するようにユーリがいう。
「このつまらない学校生活の中に、みんなが憧れる魔法というものが実在してる。それを使えるやつがいる。それだけでもワクワクするじゃない? 僕らは理由なんてわからなくてもいい。ただ実在するものを追っているだけさ」
そして宿題の問題が書かれたノートを机の上に広げてみせた。
「いいかい? ここの文章だよ。ここに呪文が忍ばされている。『愛の神は豊穣を司った』──ここだ。おかしいだろ? 豊穣を司るのは豊穣の女神だ。愛の神といえばエロスのことだ。僕は一目でこれが呪文だとわかったよ。意味はわからないけどね、文章がおかしい。先生はこの文章を読ませて、特定の標的の心にエロスを植えつけたんだ。どうやったのかは知らないけど、その標的──マルガレーテ・アルハイネはまんまとその魔法にかけられた」
ユーリのいうことはよくわからなかったけれど、僕の頭がよくないせいかもしれない。ルドルフくんとブリュンヒルデさんはわかっているようだったから。
「前にも先生はこんな魔法を使ってたの?」
僕が聞くと──
「今に先生は誰かを魔法を使って殺すかもしれない」
ユーリは未来の話をいった。
「だぁれが、殺した、マルガレーテ・アルハイネ」
ブリュンヒルデさんが歌った。
「やめろ! 学園内で殺人など、このオレが許さんぞ!」
ルドルフくんが怒鳴った。
なんだか茶番に巻き込まれている気がしてきて、僕はこっそりと扉を開けて帰ろうとした。
すると教室の真ん中に置かれていた髑髏が、喋りだしたのだ。
カタカタと顎を鳴らして髑髏はいった。
「おまえら、見てたな? 森の中の、小屋の窓から。知ってるぞ」
それはクラウス・ヤプス先生の声だった。
ユーリが愉快そうに薄笑いを浮かべ、いった。
「ほぅら。泥棒ネズミが姿を現した」
髑髏がおおきく口を開き、ヤプス先生の声で吠えた。
「殺してやる」
「逃げるよ」
ユーリが僕の手首を握った。冷たいその感触が頼もしかった。
「素敵! 素敵!」
ブリュンヒルデ・エグゾザムザさんが、髑髏が喋ったのを見ながら興奮して叫ぶのを、抱いて守るルドルフ・マイネくんを残して、僕ら二人は外へ駆け出した。
僕はいまだに半信半疑だった。
これって何かの遊びだろうか? あの髑髏はユーリが仕込んだカラクリで、ルドルフくんとブリュンヒルデさんも、それを知りつつ遊びに乗っているんじゃないかって思えていた。
先生はほんとうは魔法なんて使えない。
でも、だとしたら、なんであの森の小屋の中で、先生とマルガレーテ・アルハイネはキスをしていたのか? それはわからない。でも……
ユーリに手を引かれて髑髏から逃げながら、僕はどうにもこの魔法騒ぎに乗ることができずにいた。
でも、ひとつだけ、確かなことがあった。
息を切らしてユーリが立ち止まった。
「ここまで来れば大丈夫だ」
そういいながら、僕のほうへ振り返った。
春の陽気が彼の背中から降り注いでいた。小鳥のさえずりが彼を取り囲み、世界に彼しか存在していないみたいに、僕に見せていた。その彼を目にして、僕は確かなことを知ったのだ。
僕は恋をしていた。ずっと前からだ。前の席に座る男の子のうなじをいつも見つめていた。ずっと話しかけてほしいと思っていた。そんな自分の気持ちに、ここまで気づかなかった。
恋をしている。それだけが僕にとって確かなことだった。恋をすると、魔法にかかったように、世界がきらめいて見える。それが僕にとって唯一の確かなことだった。
恋の魔法は信じるものじゃない。理由もわからず、ただそこに存在するものだ。マルガレーテ・アルハイネももしかしたら、そんな魔法にかかっていたんじゃないだろうか。そう思えてしまう。冴えない中年の、栗色の帽子をかぶった高慢なあのヤプス先生のどこに恋するような魅力があるのかなんて、僕にはさっぱりわからない。でも恋をしてしまったマルガレーテ・アルハイネには、あの先生がこんなふうに、きらめく光の中に存在するように見えてしまっているんじゃないかって。
ユーリはぶっきらぼうだ。冷たい感じがする。こちらの質問に、はぐらかすような返答しかいつもしない。嫌な子だとすら思える。
でも、僕は彼への恋の魔法にかかっている。
「ヤプス先生の魔法を暴こう! 魔法は存在するってことを、そして先生の悪行を全校生徒に知らしめてやるんだ!」
そんな僕のノリノリの乗りに、ユーリは嬉しそうに微笑んでくれた。
僕の灰色の学校生活が春色に彩られはじめた。