番外編 ありし日の出会い《中編》
時が止まったかのような静けさが場を支配する。
誰も何も言わない。僕も悠河雄くんも、その友達も、唖然とした表情で天使さんのことを黙って見上げていた。
誰も質問に応えてくれないからか、天使さんは焦れたみたいに柵を軽々飛び越えて、敷地内に入って来る。あの柵、大人の身長くらいあるのにな。
僕らの目の前に降り立った天使さんは、何を考えているのかわからない表情で、僕達に近付いて来た。
「……な、何だお前は!?勝手に施設の中に入って来たらダメなんだぞ!!」
畏れか、緊張か。悠河雄くんがいつもより早口になりながら叫んだ。
しかし天使さんは止まらない。コテンと首を傾げて「そうなんですか?」と、気にする素振りすら見せなかった。
「そんなことより」と、天使さんは真っ直ぐと人差し指を悠河雄くんの左手に向ける。
「その石、どうするつもりですか?」
天使さんの真っ青な瞳が、二人を射抜く。まるで金縛りにでもあったみたいに、悠河雄くんもその友達も固まっていた。
天使さんは更に続ける。
「そこで蹲ってる子、傷だらけですけど……君達がやったんですか?」
別に目や眉が吊り上がってる訳でも、声に激情が滲んでいる訳でもない。
それなのに、やけに威圧感を感じた。僕自身に向けられている訳でもないのに、圧迫感で目が離せない。
「う、うるさい!」と怒鳴った悠河雄くんの声は震えていた。
「だったら何だよ!!お、お前に関係ないだろ!?大体、お前は一体何なんだよ!?」
ビシッと、悠河雄くんが人差し指を突き付ける。
だが天使さんは「ボクですか?」とキョトンとした表情を浮かべるだけで、一切怯んだ様子はなかった。
「ボクは……通りすがりの寂しがり屋ですよ〜。確かに君達とは全く関わりがないですけど〜……でも、虐めの現場を見過ごす訳にはいかないんですよね〜」
フワフワと告げながら、ニコリと天使さんが笑う。
こちらに畏怖を与えるだけ与えて、天使さんは呑気なものだ。それが気に障ったのだろう。
悠河雄くんは「『虐め』じゃねぇよ!!」と剣幕を纏った。
「コイツは“疫病神”なんだよ!!俺達が不幸な目に遭ったのは、全部全部コイツの所為なんだよ!!コレが当然のムクイだろ!!!」
「ッ!!」
悠河雄くんが左腕を高く振り上げる。
石を投げ付けようとするモーションに、僕は反射的に目を瞑った。
しかし。
「…………??」
いつまで経っても痛みが来ないので、恐る恐る瞼を開ける。
「ッ…………!」
僕を庇うようにして、天使さんが立っていた。その右手には、先程まで悠河雄くんが持っていた石が握られている。
天使さんと僕達の距離はまだ多少はあった筈だ。この一瞬で間に割り込んで、投げられた石をキャッチするなんて、どう考えても只者じゃない。
……天使さんからずっと、不思議なモノを感じる……何だろ、コレ……何でこんなに安心するんだろ……君は一体……本当に“天使”なの……?
心の声が聞こえる筈もなく、天使さんは応えてくれない。代わりに悠河雄くんに「そうなんですか〜」と応えていた。
「ボクは君達の詳しい事情を何も知りませんけど……でもだからって、コレはやり過ぎですよ〜。当たり所が悪ければ、死んじゃいます。この世に死んで当然の子なんて居ませんよ?」
「う、うるさいうるさいうるさい!!!俺達は悪くないんだ!!悪いのはソイツなんだ!!!俺は何も悪くない!!死ねば良いんだ!ソイツなんか!!生まれて来たのが間違……ッ!!!」
悠河雄くんの言葉が途中で途切れる。
動けない。誰一人として動くことを許されない。
天使さんは石を軽く指で弾いた……ソレだけのように見えた。だが実際は、弾かれた石は悠河雄くんの頬スレスレを掠め、施設の壁に深く埋め込まれている。
あんなのがまともに当たったら、当たり所関係なく死んでしまう。
誰も言葉を発せずにいる中、天使さんは変わらぬ笑顔でフワリと告げた。
「ダメですよ〜、それ以上言ったら。一度出した言葉は取り返しがつかないんですから……絶対に言っちゃダメです。それから〜……」
そこで言葉を区切ると、天使さんは纏うオーラを変えた。
ただでさえ冷え切った空気が、完全に凍り付いた気がする。
天使さんは右手人差し指を口元まで持って行った。
「またこの子に酷い事すれば……次は本当に当てちゃいますよ?」
一気に二人の顔が青褪める。
「ヒッ……!!」
「ば、化け物ッ!!!」
捨て台詞を残して、二人は転がるようにこの場から逃げて行った。
悠河雄くんのあんな怯えた表情、初めて見たな。
次いで訪れたのは、見知らぬ天使さんとの二人きりの時間である。
天使さんはクルリと僕の方へ振り返ると、ニコリと微笑みかけて手を差し出してくれた。
「大丈夫でしたか?」
「…………」
優しい表情。優しい声。一目で“天使”だと思える程だ。
本当にこのまま縋ってしまいたくなる。
でも……ダメだ。
誰だって最初は優しいんだ。最初だけ……。
もう期待なんてしたくない。信用なんてしたくない。
いつか見限るくらいなら、最初から放って置いてよ!
僕は痛む腕を持ち上げると、天使さんの手を叩き払った。
驚いたような、天使さんの真っ青な瞳が僕を見つめている。これ以上見たくなくて、僕は地面に視線を落とした。
「……余計なこと、しないでよ……僕は『助けて』なんて頼んでない……」
言った。
少しぎこちなかったけど、ちゃんと相手に聞こえた筈だ。
怒れば良い。「助けてやったのに」って、怒ってさっさと僕の前から居なくなれば良い。
しかし、天使さんの反応は、僕の予想とは全く異なるモノだった。
「……すみませんでした。事情も知らないのに、勝手なことしちゃって」
「えっ……」
思わず顔を上げる。
視界に映ったのは、申し訳なさそうに眉を下げている天使さんの表情。
……怒ってないの……?
困惑する僕に構わず、天使さんは続ける。
「君、泣いてるみたいでしたから……放って置けなくて……」
そう言って、天使さんは右手を僕の目元まで持って来ると、何かを掬う動作をする。離れた天使さんの人差し指には、小さな雫が一つ。
咄嗟に僕は顔を俯けさせた。
今更こんなことで涙が出てるとは思ってなくて、羞恥心が心を満たす。
初めて涙を拭ってくれた事実に、喜びが全身を駆け抜ける。
「ほっといてよ!!」
感情のままに、口から飛び出していた。
頼むから、優しくしないでくれ。
「関係ないじゃん!!余計なお世話なんだよ!!僕に近付くな!!あっちへ行け!!早く……早く行けったら!!」
「…………」
久しぶりにこんな大声を出した気がする。案外疲れるもので、僕は肩で息をしていた。
天使さんは何も言わない。
今度こそ見限ってくれただろうか。
「ごめんなさい。嫌です」
「ハァア!!?」
つい反応してしまった。
再び目に入って来た天使さんは、良い笑顔を浮かべていた。
困惑している僕に構わず、天使さんは「泣いてる子を放って置けないって言うのも事実ですけど」と言葉を紡ぎながら、何故か同じように地面に横になり始める。
お揃いみたいな体勢になれば、天使さんは「ボク……」と少し恥ずかしそうにはにかんだ。
「君とお友達になりたくて……」
「……と、もだち…………」
何を言われたか、一瞬わからなかった。
『友達』……僕と“友達”になりたいって?
……『俺は悠河雄!親が居ない同士、今日から俺とお前は友達な!』
……『気にすんな、気にすんな。ちょっとの失敗くらい誰にでもあるだろ?俺はお前を絶対に見捨てたりしねぇよ』
……『……お前の所為だ。お前の……この“疫病神”!!お前なんか、さっさと消えろ!!!』
急に頭の中にフラッシュバックされた記憶。
別に悠河雄くんだけじゃない。
今まで出会った人達、皆そうだった。
どれだけ優しい人だって、必ず……ううん、優しい人なんて居ないんだ。皆、自分が一番大切だから。
僕だってそう。今まで散々、色んな人に同情されて優しい言葉を貰って来たけど……裏切られた瞬間「やっぱりな」って、すぐさま見限った。見限れた。自分の所為で傷付いてる人達を見ても、罪悪感なんて湧かない。
周りに迷惑と不幸を振り撒くだけ振り撒いて、僕はいつだって自分の事しか考えていなかった。
最低でしょ?誰がこんな奴と友達になりたいの?
どれだけ取り繕おうとしたって、僕は所詮自分勝手な“疫病神”なんだ。
「……僕、“疫病神”なんだよ……」
思ったよりも冷めた声が出た。
目の前の天使さんはキョトンとしている。そんな表情も今だけだ。
「悠河雄くん……さっきのあの子、右腕怪我してたでしょ?僕の所為なんだよ。僕が居るから、怪我する子も病気になる子も増える。僕が居るから、喧嘩する子が増える。僕が居るから、先生の機嫌が悪くなる。それだけじゃない。僕が生まれて、父さんの会社は倒産した。僕が生まれて、母さんと父さんは離婚した。僕が近くに居るだけで、皆不幸になってくんだ。君だって、僕の側に居たら不幸になるよ?そんなの嫌でしょ。良いから、僕のことなんて放って置いてよ」
「……ソレ、本当に君の所為なんですか?」
「ッ!!!……そんなの知らないよ!!!」
堪らず叫んでいた。
「だって皆そう言うんだよ!!!火事も事故も、何度も起こした!!!僕が原因で、入院してる子だって居る!!!僕は“疫病神”なんだよ!!!僕の近くに居るだけで、皆不幸になるの!!それが事実なんだよ!!!!」
ふと、僕の右手が温かいモノに包まれた。
天使さんの手の平だ。
「それが事実でも……ボクは君と友達になりたいですよ?不幸か幸せかを決めるのはボク自身です。君の所為だなんて思いません。それじゃあダメですか?」
「ッなら、あの池に飛び込んで来いよ!!」
天使さんの両手を払い除けて、池のある方を指し示す。
「『何でそんなこと』って思うでしょ!?『そんなことしたくない』って思うでしょ!?理不尽でふざけんなって……でも、僕と友達になるってそういうことだよ!!ずっと嫌な事が付き纏って来るの!!池に飛び込むよりももっと嫌な事が!!ずっとずっと……最初は皆、君みたいに僕に手を差し出してくれたよ!!優しくしてくれた!!最初から虐められてた訳じゃない!!でも皆、最終的には僕のこと嫌になるんだよ!!当たり前だよね!!僕だって、こんな奴と一緒に居たいなんて思えない!!何に巻き込まれるかわかったものじゃない!!毎回毎回……もううんざりなんだよ!!優しくされるのも、裏切られるのも、それに慣れる僕自身も!!!どうせいつか見限るくらいなら、最初から近付かないでよ!!!もう僕は誰とも一緒に居たくない……誰のことも信じたくない……僕なんて……こんな僕なんて……死んでしまえばッ…………」
「それ以上は言わないで」
口が塞がれて、物理的に僕の声が止まる。
……何で……?
目の前の、僕の口を両手で押さえている天使さんは、何故か泣きそうな表情をしていた。
泣きたいのは僕の方なのに。
数秒、沈黙が流れた。
天使さんはソッと口を開けると「言霊って知ってますか?」と問い掛ける。でも答えは求めてないらしく、「言葉にはね」と話を続けた。
「力があるんですよ。とっても強い力が。一度口にしちゃったら、それが現実になるかもしれません。そんな風に感情を込めて言えば余計に……だから言っちゃダメです。自分で自分を傷付けるようなことは、絶対に言っちゃダメです」
「…………」
僕に二の句を告げることはできなかった。
だってあんまりにも、天使さんの声が悲痛だったから。
天使さんは泣きそうな表情のまま、歪に微笑んだ。
「ボクね、ずっと独りぼっちなんです。家に沢山人は居ます。家族だって、零じゃありません。それでもね……ボク自身を見てくれる人は誰も居なくて……とっても寂しくて……だから友達探しに、お家を抜け出して来たんです。そして……」
……「君を見つけた」
いつの間にか、口を塞いでいた天使さんの両手は、僕の両頬を包み込んでいる。
「虐められてる君を見て、『この子ももしかして、ボクと同じ独りぼっちなのかな?』って……興味が湧いたんです。友達になりたいなって思った理由はソレですよ」
「酷いですよね?」と笑えば、天使さんは僕の顔から手を離して、立ち上がる。
土で汚れた服を払うことなく歩いて行けば、ある所で足を止めた。
寝そべっていても、何処で止まったのかなんてすぐにわかる。
池だ。池の一歩手前で、天使さんは立ち尽くしている。
僕の方へと顔を振り向けた天使さんは、相変わらず優しい表情をしていた。
「この池に飛び込めば、友達になってくれるんですよね?ボク、恥ずかしながら泳げないんで、後で誰か呼んで来て貰えたら嬉しいです」
言うが早いか、天使さんは軽く地面を蹴って、池の中へと沈んで行った。
「…………は、え、…………」
嘘でしょ嘘でしょ嘘でしょ!?
頭の中が大パニックだ。
いくら小さな池とは言え、普通に足が付かないくらいの深さはある。子供なら尚更、絶対に付かない。しかも、あの子は何て言った。
『泳げない』……確かにそう言っていた。
言葉が真実であることを裏付けるように、未だ池から天使さんが上がって来る気配はない。
このままでは溺死してしまう。
「……だ、誰か、呼ばなきゃ……」
痛む身体を持ち上げれば、「あ…………」と腕が震えた。
怪我の所為じゃない。
……誰が僕の言葉なんかに、耳を傾けてくれるんだろ…………。
そもそも天使さんは施設の子供じゃない。
今はまだ就寝中の時間だし、この場所は立ち入り禁止のエリアだ。
誰に助けを求めたって、無視されて終わりに決まってる。
…………。
誰にも頼れないなら……僕が行くしかない。
いくら何でも、虐めから助けてくれた人を、見殺しになんてできる訳がない。
僕は身体を引き摺って、池の前まで進む。思いきり息を吸い込めば、覚悟を決めて池の中へとダイブした。




