c-1_祈り
気づけば、それはそこにあった。
母の看病を終え、重くのしかかるような家の空気から逃れたくて、彼は庭に出た。
初めは、ただの雑草か何かだと思っていた。
小さく、細い。渦巻くような蔦。
奇妙な点があるとすれば、少し赤みを帯びていたこと。
とは言え、赤い植物は探せばいくらでも見つかる。
彼もその時にはそんな風にしか考えていなかった。
誰であってもそうだろう。
だが、その時の彼は心奥にてその奇異を捉えていた。
次の日の暮れ、彼はそれに水をやった。
なんてことはない、ただの気まぐれだ。水道から水差しに入れた水を差し入れした。
母のために用意した残りで、どうせ捨てるのならとその赤い蔦にふりかけたのだ。
庭に地を這うようにして生えているその小さな存在はちゃんと、その水を吸い上げたのだろうか。
植物を育てる機会がなかった彼には、よく分からなかった。
彼の網膜に映るのは水で湿った庭の土と、細い茎に滴る水滴が照らされて、暮れの陽光でガラス玉のように煌めいている様だけだ。
不気味だった。
彼は明日を思い、ため息をついた。
また、同じことの繰り返しか。あるいはそれよりも酷いことになるのか。これを続けてどうなるというのか。
それでも自分はそれを続けるほかない。見捨てることはできない。それだけはできない。
ならばどうすればいい?
やはり続けるしかない。それ以外に道が見えない。見えてこない。暗い。見えない。どこへ行けばいい。
「………もう、やめろ」
考えれば考えるほど気分が沈んでいく。
それを無理やり押し込むように、言い聞かせるように口にする。
今はそれを考えても仕方がない。どうしようもない。その結論は既に出ているではないか。
頭を振って無理やり思考を切り替えた。
彼は今は家にいない父のことに思いを馳せる。
父は今日も礼拝堂に詰めている。
そんなことはいいからこちらを手伝ってくれとは言えない。
祈りも大切だ。母は『神』に命を救われた。
彼の父は彼とは違うところで大変な思いをしているのだ。
「………止まれよ」
彼の口から時折漏れる言葉は、誰に届く訳でもない。
あるいは自分にさえ、それは聞こえていないのかもしれない。聞こえているのなら、彼の願いは達せられる筈だから。
止まらない思考に苛立ち、地面を殴った。
鈍い痛みが腕を伝って頭に響く。
何度もそれを続ける。何度も何度も。
そうすれば、少しは気が紛れた。
その瞬間だけは、痛みだけを意識すれば良い。
ふと、頬がむず痒く感じ、手をやれば、水滴が付いていた。
彼はそれを見て自嘲気味に笑う。
(この程度の痛みで過剰に反応しすぎだな。僕の身体は。たかだか、擦りむいた程度じゃないか)
彼は握られたままの拳を見る。
夕日の影になっている泥だらけの拳に、煌めく蔦の雫と同じような赤が滲んでいた。
「ああ、神様」
ポツリと呟かれたその言葉は全くの無意識のもの。
彼の頬に流れた涙と同種のものだった。
どうか、我々をお救いください…………




