じゃんけん
一言で言うと、俺は手話というのをなめていた。
「これは無理だな、うん」
帰りに寄った本屋でもいくつか教材は見つけたのだが、どれもいまいちというか、「これじゃない感」が凄かった。何というか、基礎中の基礎というか、そもそも手話って何?ってところから知りたいわけで。
というわけで本は買わずに帰宅。ネットの世界にならいい動画とか記事とか転がっているだろうと、そう布団にもぐりながら電波の波に乗っていたわけだが...。
「だめだ、難しすぎる」
もっと手軽に学べるものだと高をくくっていた。だけどこれはやばい。独学じゃ無理だ。
数が多いのもそうだけど、組み合わせとか出てきたらもう手に負えない。
「...とりあえず、保留だな」
そもそも一日やそこらで身に着くものじゃないのはさすがに分かってたし、そこまで焦ることもないか。
ーーーー
【おはよう】
「...おはよう」
翌日。朝。教室。
この日はいつも違った風景を、教室は俺に映してきた。普段は挨拶なんてしない。だけど二人の、俺たちの関係性は変わった。
たったこれだけの変化でさえ、真新しいものに見えてくるから不思議である。
【今日は遅かったね?】
『いつもはもうちょっと早く来てるような』
「え、ああそうだな」
確かに鈴野の言う通り、いつもは余裕をもって登校しているのだが、今日は結構遅刻ギリギリだった。
「たまたまだよ」
【そっか】
まぁ本当は遅くまで動画とか漁ってたからなんだけど、さすがにそれは恥ずかしくて言わないけれど。
「そう言う鈴野は、いつも早いよな。何か理由があるのか?」
思い返せば、鈴野はいつも俺より早く登校している。
『それは万が一遅刻したときとか、説明するのが大変だから早めに来るようにしてるんだけどーー。あぁ、字間違えた。やば...待たせてる。早くしなきゃ...!』
...こういう所を本人が気にする性格だから、会話を避けるんだろうな。
確かに、会話のテンポは最悪だ。俺はノートを見る前から答えを読んでるから、そこまで気にならないのだが、当然ほかの人は違うだろうし。
「...急がなくていいから」
『え?』
「焦んなくてもいいから」
『...やっぱり優しいな』
...優しいとはちょっと違うけどな。文字通り相手の悩みがわかるから、それに合わせて言葉を選んでいるだけ。それがはた目から見れば優しく見えるんだろう。別に気遣いができるわけじゃない。
【もし遅刻しちゃったらさ、説明しなきゃいけないしそれが面倒で。ただでさえ悪目立ちしちゃうから】
「悪目立ちって...まぁたしかに面倒なのは間違いないか」
【それに声が出せないってだけで、過剰に心配されることもあるから、それが嫌で】
『前は寝坊しただけで、めっちゃ先生に心配されたし』
「なるほどね」
確かにそれは面倒だ。自分からしてみれば大したことなくても、周りからは過剰に心配される。それは確かに嫌だな。
「おーい。ホームルーム始めるぞー早く座れー」
なんて話してたら、いつのまにか先生が教室に入ってきていた。
我がクラスの担任、黒川怜奈先生は、一言で表せば「かっこいい」人だった。
そのスタイルは女性らしさをしっかりと兼ね備えているのだが、立ち振る舞いというか、その態度が何だか「大人」であることを体現している。
性格も毅然としていながら、話しかけやすいときた。もはや欠点が見当たらない。早くも男女問わず生徒からの人気を集めているようだ。
「...ほぉー」
「...?」
その時はっきりと目があった気がしたのは、気のせいだろうか。何か深みのあるような視線を向けられたような気がして、少しソワリとする。
「...それじゃ、早速だが前より予告してた委員会決めるぞー。学校のこともそろそろわかってきた頃だろうし、できるだけスムーズに決めるようになー」
先生はそう切り出し、教室内がにわかにざわめく。
(俺は図書委員かなー)
本が好きだし、何より他の委員会よりも仕事が少ないらしい。放課後はバイトもあるし、他の選択肢はない。
(被りませんように、被りませんように!!)
委員会は一つにつき男女1人ずつであり、被りは無いようになっている。願いを超え、祈りを掲げる。これは一年を左右することだ。頼む...!
ホームルームは進み、次々と委員会が決まっていく。お目当ての図書委員まではあと少しだ。
『どうしよ...聞いたら変に思われるかな...。でも、どうせなら一緒かいいな...』
・・・。
ふと、隣からそんな「声」が聞こえてきた。
もちろん声の主は鈴野である。
『どうしよ...。どんどん候補無くなるし、そもそも被ったら一緒になれるかわからないし、てか一緒がいいのは私だけかもしれないし...』
・・・気持ちはわかる。こういうのって聞きづらいよな。特に鈴野みたいな性格だと。
「俺図書委員にするけど、鈴野も一緒に、どう?」
「!!」
『うそっ!篠原君から教えてくれたっ!』
ーーこれはあれだ。流石に少し恥ずかしい。俺はつい顔を逸らしてしまう。
【『そうする!』】
心とノート。二つの方法で肯定を伝えてくる。なんというか、喜びがダイレクトに伝わってきてすごいこっちまで気恥ずかしくなる。
「それじゃー次、図書委員会がいい人いるか?」
そんな先生の言葉に、鈴野はババッと手を挙げる。普段はそんな素振りを見せないので、周りの席の人は少し驚いていた。
それに遅れて俺も挙手。実はやりませんなんてボケは挟まない。なんかそれやったら泣きそうだし。
...ちょっと見てみたいけど。
「はーい。俺もやりたいでーす!」
そこで俺とはもう1人、名乗りを上げたやつがいた。
ーーまじかよ。よりによってかあいつか...。
「んー。篠宮と大倉か。んじゃ、2人で話し合って決めるように」
「ーーだってさ、篠宮」
「...そうだね。どうしよっか」
俺の席に寄ってきた大倉が、視線を鋭くして話しかけてくる。あぁ、なんとなくこの先の展開が読めてしまうのが嫌だなぁ。
「ね、わかるでしょ?俺が図書委員会を選んだ理由。出来れば譲って欲しいな〜ってね?」
「...よくわかんないけど?」
(ちっ、鈴野狙いだったことぐらいすぐに察せよなー。ま、友達いないぼっちにはわかんないかも知んないけどさー)
まぁ、そうだろうとは思ったけどさ。
「本当はわかってるだろ?めんどくさいのは嫌いなんだけど、どうする?」
「ーーそうだね...」
大倉は段々と声を落としてそう言ってきた。これはあれか、一応脅しているつもりなんだろうな。
だけど足りない。本当に人の心に影を落としたいなら、そんなものじゃ足りない。
それに何よりーー
『お願いっ!頑張って篠宮君ー!』
それがどんなものであれ、求められるのはやっぱり少し嬉しいもので。
踏み込むと決めたから、彼女と友達になった。だからその期待には応えたいと思う。
それに頭に来た。耐えられるからって、痛く無いわけじゃ無いからな。
だからーー
俺は口元をニヤリと歪め、にっこりとした笑顔で、みんなに聞こえる声ではっきりと言った。
「ーーじゃんけんにしよっか!」