声の出せない少女
「行ってきます」
年季の入ったドアノブを捻り、家を出て鍵をかける。返事は返ってこない。ここに住んでいるのは俺一人だからだ。
とうとうはじまった一人暮らしだが、大して気持ちは高まらない。新生活へのワクワク、というよりは辛い生活からの脱却、という感覚が強すぎるためか安堵の気持ちに近かった。
叔父さんと叔母さん。二人との別れは後味の悪いものだった。
(やっと終わった。これでゆっくり生活できる、か)
もちろん口には出されていない。育った家から出る瞬間、俺が勝手に心を読んでしまっただけだ。二人の安堵に寂寥感を感じながら、俺は二人と別れた。
とはいえ、二人はすごい人だと思う。心の中で俺を疎ましく思いながらも、表面上は一切その感情を悟らせなかったのだから。
二人が俺をどう思っていようが、そこは感謝である。
ともあれ、二人と別れたことが生活の改善に繋がることには他ならない。一人は色々と楽でいい。
少々古いアパートではあるが、その程よい古めかしさが俺は気に入っていた。これも一つの風情というやつだろうか。
偉そうに語れるほどの人生経験はないが、心の中で一人得意になるぐらいは許されるだろう。
家具もすでに一通り揃っており、当面の生活に対して特に不安はなかった。
駐輪場に停めてある自転車にまたがり、春特有の暖かい風を全身に浴びながら登校する。街道沿いに咲いている桜は満開で、今日という入学の日を、その景観をもって祝福してくれているようだ。
朝一にしか味わえない感覚を楽しみながらも、反面心はどんどんとそのテンションを落としてゆく。
俺にとって学校は、決して楽しいものなんかじゃない。なにせ、半ば強制的に人間関係の形成を強いられるからだ。できるだけ一人でいたい俺にとっては、文字通り遊びの場ではないからだ。
通信制の学校を選ぶ選択肢もあったが、とある理由で断念した。そこに関してはこれ以上考えても仕方ない。
ともかくこれから三年間、また俺は耐えなければいけないんだ。込み上げてくる不安のせいか、自転車を漕ぐ力はどんどん弱くなっていった。
スピードの落ちた自転車を走らせることおよそ15分。俺が通うこととなる都立東和学園高等学校が見えてきた。
景観はそこそこ。大きくもなければ小さくもない。まぁ良くも悪くも「普通の学校」といったところだ。
駐輪場に自転車を止めて、教室へと向かう。すでにクラス分けは通達されており、人の波に逆らうことなく俺は自分のクラスにたどり着く。
教室にはもうすでに人がたくさんいた。時間的にも、大体真ん中ぐらいだろうか。
(おっ、一番後ろか。ラッキーだな)
すぐに席替えがあるかもしれないが、小さな幸運に喜びつつ席に着く。
予定としてはこの後入学式があり、その後各教室でホームルームが行われる。
やがて時間になり、全員で移動を始める。
すでに周りには友達を作っている人もいたが、俺は一人だった。友達を作る気はなかった。そういう人に話しかけてくる奴はいないし、俺から誰かに話しかけることもない。
...これはちょっと強がりだな。正確には「作れない」が正解だ。どうせ自分から壊してしまう関係を作るのは嫌だ。
ーーそんなことになるなら、俺は最初から一人がいい。
ーーーー
「篠宮幸仁です。よろしくお願いします」
入学式が終わり、今はホームルーム行われていた。
手始めとして、順番に自己紹介が行われた。
俺の自己紹介が終わると、教室を小さな拍手が包んだ。当たり障りのない、まさに平凡なものだった。
(普通だな)(つまんなそーなやつ)(うーん65点)
教室のいたるところから、そんな心の声が聞こえてくる。悪かったな普通で。
てか点数つけんな。65点なら...まぁいいのか?
自己紹介は滞りなく進んでいく。途中最高得点の95点を叩き出した奴もいたが気にしない。仲良くなることもないだろうしな。
(あっ!次あの子だ!)(わっ!まじで可愛いなー)
瞬間、教室の「声」が一気に増えた。俺だけに聞こえるものと、俺以外には聞こえていないもののどちらもだ。
教室中から注目を浴びるのは、ちょうど俺の隣の子。
その子は朝から注目されていた。皆が一様にその容姿を心の中で褒めていた。
黒い髪を長く伸ばし、ピンと背筋を伸ばした凛としたその姿に、俺はつい見惚れてしまった。
(綺麗な子だな)
そんなことを胸中で思いながら、彼女の様子を見守る。
すると彼女は立ち上がって、他の人がその場で自己紹介したのにも関わらず、黒板の前まで出た。
その行動に、教室のざわめきが強まる。そりゃただでさえ注目されてた子が、周りと違うことをしだしたらこうなるだろう。
彼女の手には一冊のスケッチブックがあった。
【私の名前は、鈴野琴葉です。よろしくお願いします。】
開かれた1枚目にはそんな文面。
状況を掴みきれず、教室を包む喧騒が鳴りを潜める。
そして2枚目には・・・
【私は声が出せません】
そう書いてあった。
教室がざわめきを取り戻す。それもそうだろう。いきなりそんなことをカミングアウトされたって、反応に困る。
彼女は凛とした佇まいを崩すことなく、自分の席まで戻ってきた。
周りのことなど気にしていない様子で、彼女は席に着く。
その毅然とした姿に、またしても俺は見惚れてしまった。
一言で表せば、美しい。そう思わせるようなオーラが彼女にはあった。
だけどそのイメージは、一瞬で崩されることになるのだった。
『あー、めんどくさっ』
「えっ」
聞こえてきた「声」に、思わず返してしまった。
やばい。やってしまった。
【どうかしましたか?】
彼女はそんな俺に対して、あらかじめ用意されていたのだろうか、慣れた手つきでページをめくって見せてきた。
こつんと首を傾げる姿は、先程の態度とは違って、どこか可愛らしさを醸し出していた。
『なんだろ?もしかして声出てた・・・?あっ、出せないんだったわ』
「ぶふっ」
いきなりぶっこまれたブラックジョークに、思わず俺は笑ってしまった。まずいまずいまずい。
なんというか、ギャップがすごい。なんかさっきまではカッコよさすら感じていたのに、もう既にそれを微塵も感じさせない。
だけどどこか親近感が湧くと言うか・・・。
というかとりあえず謝らないと、色々とまずい。
「ご、ごめん。何でもないから・・・」
その言葉に、彼女はコクンと頷いた。一応納得はしてもらえたのだろうか?と思ったのだが。
彼女の内心では・・・
『何だこいつ』
第一印象。何だこいつ。
最悪である。
まぁ、今のはうっかり反応してしまった俺が悪い。
この先仲良くなることもないだろう。関わることだってないはずだ。
きっと、俺にそれはできないだろう。
だって俺には、普通に話せる人にさえそれができない。喋ることのできない彼女となんてもってのほかだろう。
俺は前を向き、残りの人たちの自己紹介を聞き流していった。
ーーーー
学校が始まって2週間が経った。
教室ではすでにグループがあらかた完成しつつあり、それぞれの生活を形作っていた。
しかしそんな中でも、やはり輪に属さない人間もいるわけで、かく言う俺もその一人だった。
(...形はそれぞれだな)
思いは様々だ。本当は華々しい高校デビューを試みていたが失敗した人。そして俺と同じく、本当に一人が楽だと思い、必要以上に人と関わらない人。
(ま、俺には関係ないか)
どうせ関わることなんてない。俺は手元の小説に目を落とす。
本はいい。嘘をつかないし、その裏切りに誰かが傷つくこともない。教室内の喧騒をバックグラウンドに、おひとり様の世界に沈む。
俺が読書にハマったのは中学の頃だ。時期的に一番辛かった頃、他人と関わることのできなくなった俺は、孤独を紛らわせるようにそれに没頭した。
今ならあれが強がりで、ただの誤魔化しだったとわかる。
あるいは今だってーー
『うわぁ、次国語かぁ。あの先生苦手なんだよなぁ・・・』
・・・・・・。
『はぁ、しかもその次の体育ペア活動か・・・』
・・・・・・。
『結局またひとりぼっちになっちゃうなぁ・・・。まあしょうがないかもしれないけど・・・』
・・・・・・うるさいな。
や、勝手に聞いてしまっているだけで、文句を言う筋合いが無いのはわかっているけれど。
わかってても気になってしまうほど、その声は大きいものだった。
『話しかけてくれても、ちゃんと返せないし・・・仕方ないよね・・・。みんなは手話、分かんないし』
隣の席の鈴野さんーー声の出せない少女は、そんなことをぼやいていた。学校が始まって2週間。ずっとこんな様子だ。もちろんそれだけってわけでも無いのだが。
もちろん、その声は心の中のものだ。
そして彼女が言う通り、この二週間でみんな、彼女との付き合いを避けるようになっていた。
正確には、「人を避ける彼女」をさけるようになった。
最初の方こそ、みんな彼女に話しかけていたのだが、やはり返事が遅いということが、そしてその返事も文字であることが良くなかったのだろう。
別に無理に彼女に付き合う義理もないクラスメイトは、ひとり、またひとりと彼女に声をかけることがなくなっていった。
もちろん俺は、最初から声をかけてはいないんだけど。
『まぁ、同情で話しかけられるよりはいいけどさ。みんな、明らかに可哀想な目で私を見るし』
まぁ、実際その通りだった。事実、彼女に話しかける生徒はみな、心の中で「可哀想」だとか「優しくしてあげよう」と思っていた。
悪いことだとは思わない。だって仕方ないじゃないか。
俺だって事実、彼女を可哀想だと思っている。
当たり前のことが、彼女は当たり前にできないのだ。少なくとも、「普通の女子」として接することは難しい。
それに、だ。彼女の「声」は人一倍多いのだ。
きっと声が出せるのなら彼女は、いわゆるおしゃべりさんになっていたに違いない。
そういうことを、俺はわかってしまうから。なおさら彼女のことを可哀想だと思ってしまう。きっとこの感性は普通のものだと思う。
そして彼女が、ネガティブなことだけ考えているわけではないことも知っている。
彼女はかなり好奇心旺盛だ。
クラスメイトの会話に耳を傾けては、色んなことに興味を持っている。娯楽に対しての欲求もかなり強いようだ。
だからこそ、こんなにもいろんなことを思って、それを発信できない彼女が可哀想だった。
じゃあ何かしてあげるか?それはノーだ。
俺にできることなんてたかが知れてるし。
それにいつかはきっと傷つく。俺も彼女も。
俺が持ってしまった障害は、そういうものなのだ。
というか、俺だって彼女のことは言えないしな。
人を寄せ付けないように生活していたら、あっという間にぼっちの出来上がりだ。
まぁ、彼女と一緒ではないけど。
彼女は望んでもできないから。
対して俺は望んでいない。悩むことから逃げ、諦めているから。
ーー根本的に、俺と彼女は違うんだ。
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