中編
次に宮殿に足を踏み入れたのは、それから四年ほど経った十六歳のときだった。
社交界にお披露目をするためだ。相変わらず世間知らずのまま、いきなり社交界に放り出された。ひとつ年下で十五歳だった異母弟も、同時にお披露目した。
宮殿で生まれ育った弟は、私と違って顔が広かった。正式に社交界に出てこそいなかったものの、大多数の貴族たちとすでに顔見知りだったようだ。一方の私ときたら、貴族の当主どころか、侍女にも侍従にも知った顔がいない。
実態を知らない者たちからは「大事に隠し育てられた国王の秘蔵っ子」などと言われていたらしい。実際、大事に育てられたとは思うが、その実はほぼ平民育ちである。
夜会に限らず、社交界という場所は、私には居心地が悪かった。
特に苦手なのは、女性たちだ。誰も彼も、香水くさくてけばけばしい。
田舎風の離宮で平民だけに囲まれて、清浄な空気の中で育った弊害が、こんなところに出てしまった。
社交界でもまた、私は選択を誤った。
必要最低限の参加しかせずに、逃げ回ってしまったのだ。ただでも離宮暮らしで人付き合いがないところへ持ってきて、社交さえまともにこなさないとなれば、人脈など築けるはずもない。その間も弟は、着々と顔を売っていたのに。
こうして数年が経ち、十九歳になった頃、ミミに出会った。
この日も、夜会にはほとんど参加せず、夜会ホールから出て中庭をうろついていた。この少し前から、「王宮の庭には妖精が出る」といううわさが誠しやかにささやかれるようになっていたからだ。
もちろん真に受けたわけではない。だが、うわさになるくらいなら、うわさの元となるような、なにがしかの原因があるはずだ。それが何なのか興味があった。
そして見つけたのが、ミミだ。
彼女は満天の星空の下で、中庭の片隅から、夢見るような表情で夜会ホールを眺めていた。だが、彼女の視線の先にある夜会ホールなどよりも、彼女自身のほうがよほど美しい。背中に透明な羽がついていないのが不思議に思えるほど、この世のものならざる圧倒的な美しさだ。
一瞬、本当に妖精がいたのかと納得してしまった。でも人間だった。
ミミはとても感情豊かで、その上、辛辣だ。私に向かって呆れた視線を投げる彼女の顔には、わかりやすく「この男、頭は大丈夫?」と書かれていた。おかげで私は、少し冷静になった。
ミミという愛称を持つ彼女の名前は、ミリアン。男爵家の養女で、元女優が母だと言う。
彼女と知り合ってから、私は以前よりまともに社交に励むようになった。ミミに会えるのは、社交の場に限られていたからだ。会っては話をして、少しずつ彼女のことを知っていく。
ミミはとても教養が深かった。周辺国の言葉がひととおり話せるだけでもすばらしいのに、それぞれの国の有名な戯曲や詩集を完璧な発音でそらんじてみせる。自国の史劇も、ほとんど頭に入っているようだった。
ミミは頭の回転が速く、どんな話題にも打てば響くように返ってくるし、私に思い違いがあれば間髪を入れずに容赦なく指摘される。だから話していて、とても楽しい。
彼女はよく「母のように一流の女優になるのが夢なの」と言っていた。どこまで本気で言っているのかは、わからない。でも彼女なら、妖精の女王でも、純情可憐な村娘でも、見事に演じきってみせそうな気がした。
そして彼女は小悪魔のようにいたずらっぽく微笑み、返事に困ることを言う。
「私には、悪女役が似合うと思わない?」
「どうだろう……」
やれるかやれないかの話なら、きっとうまく演じるだろうと思う。けれども似合うかと問われれば、決して似合うとは思えなかった。大きな目をキラキラさせている彼女に、そんなことは言えなかったけど。
私にはどんな役が似合うかと尋ねると、彼女は「あなたは、主役が向いていると思う」と言った。うっかり喜びそうになったが、続く言葉に浮かれた気分は吹き飛ばされた。
「主役なら、その容姿があれば何とでもなるもの。脇は演技派が支えてくれるわ」
暗に、というか、もうはっきりと「取り柄は顔だけ」と言われている。全く褒めていないこの褒め言葉に、何とも言えず切ない気持ちになったものだ。だからといって「悪役の似合う男を目指す」というのも何か間違っている気がして、曖昧に微笑んで話題を切り替えた。
私が社交に顔を出すようになると、若い女性たちからのアプローチも激増した。中でも、とある侯爵家の娘はしつこかった。「婚約者候補筆頭」を自称し、他の若い女性たちを蹴散らそうとする。彼女が婚約者候補の筆頭だなんて、ありえないことなのに。だって私は、この娘がどうにも苦手だ。くさいし、しつこいし、けばけばしくて品がない。
家柄と年齢だけを考えるなら、確かに婚約者候補にはなり得るのかもしれない。
だが実際には、私の好みも必ず考慮されるから、彼女が候補になるなんてことは絶対にあり得ない。たとえ政略結婚であろうとも、本人の意向が完全に無視されることはないのだ。
だって家と家を結びつけるための婚姻なのに、肝心の本人同士の仲が険悪だったら、意味がないどころか逆効果ではないか。婚姻以外の方法で手を組むことを考えたほうが、よほどマシというものだ。
実際、父の例を見ればよくわかる。父はきちんと継母を大事にしている。
私の亡き母のことを忘れずにいると言っても、悼むのは年に一度、命日だけ。それ以外の日はずっと、今の家族を大事にしている。政略結婚だからこそ、決して粗略に扱ったりはしない。
なのに侯爵家のこの娘は、これほどの自明の理をわかろうともせず、すっかり婚約者気取りだ。そして私の目の届かないところで、私が好意を寄せているミミにかみ付いていたらしい。
そこで私はミミを守るために、彼女の参加する夜会には積極的に参加して、彼女に付き添うことにした。もっとも、ミミは華奢で可憐な容姿とはうらはらに、案外したたかで苛烈なところがある。私の庇護などなくとも、余裕で攻撃をかわすばかりか、時にはやり返すことさえあったらしい。
話に聞くだけでも痛快だ。ぜひその場に居合わせたかった。
社交の場での嫌がらせに大した効果がないと学習し、侯爵家の娘はさらに悪辣な手段に訴えることになる。ある日、彼女がとある伯爵夫人と話している場面を目撃してしまった。この伯爵夫人は、ミミの養家の長女だ。
侯爵家の娘の、キンキンとした不快な声が聞こえる。
「家族仲がよろしくて、うらやましいわ。次はいつお会いになるの?」
「今度の木曜日に、母と義理の妹が会いに来てくれます」
「まあ、そうなの。楽しみね」
「はい」
この会話の後、伯爵夫人のもとから離れた侯爵家の娘は、醜悪な笑みを浮かべた。見るからに何やら悪事を画策していそうだ。もう、嫌な予感しかない。私はすぐさま会場内にいたミミの養父である男爵を捕まえて、警告をした。確証はないが、次にミミと養母が外出するときには、くれぐれも身の安全を図るように、と。
男爵は、適切に手を打ってくれた。外出の日時に合わせて、憲兵隊の実地訓練を組んだのだ。おかげでミミたち二人は、ならず者の襲撃は受けたものの無事だった。
事件の翌日、ミミたちの無事な姿を確認してから、父のもとに向かった。侯爵家の娘を糾弾するためだ。しかし父に会う前に、宮殿内で弟に出くわした。
「そんなに青い顔をして、いかがなさいましたか、兄上」
「すまないが、先を急いでいる」
「ああ、兄上の大事な妖精姫が襲われた件ですか?」
図星をつかれた私は、足をとめた。
「父上に掛け合って罰していただこうというお考えでしょうが、それではいたちごっこですよ。今回は無事でしたが、次はどうでしょうね」
どういうことかと眉をひそめる私に、弟はしたり顔でとうとうと説明した。
王太子妃の座を狙う者たちにとって、ミミの存在は目の上のたんこぶだ。侯爵家の娘を処分したところで、今後も似たようなことを考える者は後を絶たないであろう。本当に心からミミを大事に思うのであれば、彼女を諦めるか、王太子の地位を捨てるしかない。
「王太子の座を捨てる覚悟がおありなら、僕に一任してください。彼女の身の安全を確保した上で、兄上と一緒になれるよう取り計らいますよ」
世間知らずで愚かな私は、ここで決定的に間違った判断を下した。弟の提案に乗ってしまったのだ。騙されたと気づいたのは、すべてが片付いた後のことだった。
確かに私は王太子の地位を剥奪されるのと引き換えに、ミミと一緒になることができた。ただし「侯爵家の娘を陥れるために、狂言を演じた」という、根も葉もない汚名を着せられて。
私は子爵に叙せられ、ミミの養父が治める領地に隣接した、小さな貧しい領地を賜った。小麦どころかライ麦さえも育たない、やせた土地だ。
領主館は、一般的な農家よりは多少広いだけの、質素な屋敷だった。それでも私の育った離宮よりは広々としていたのだが、ミミにとってはどうだっただろう。
結婚した当初、私はミミを泣かせてばかりだった。
何しろ私はミミにプロポーズするどころか、甘い言葉をささやく時間さえ与えられずに、結婚させられたのだ。私はよくても、ミミにとっては喜ばしいことではなかったに違いない。彼女の危機にあって、助けるどころか、騙されて陥れられるような能なしの男と一緒にさせられて。
結婚した後も、私は間違ってばかりだった。
泣かせたくないのに。笑顔でいてほしいのに。
私が間違ったことをするたびに、ミミは怒ったり泣いたりして私をなじる。そのたびに私は、心臓がえぐられる思いがした。彼女に捨てられるのではないかという恐怖で、居ても立ってもいられなくなる。決して逃げられないよう腕の中に囲って、ただひたすらに謝罪して、許しを乞う。
ミミは怒ったり泣いたりすることはあっても、私を見捨てることはなかった。その都度、私が何を間違えたのかを教えてくれる。何度目かの失敗を経て、やっと私は彼女を悩ませているものの本質を理解した。金だ。金がない。要するに、生活苦だ。
家計管理は自分がするというミミの言葉に甘えて、丸投げしていたことを心から反省した。彼女に見せてもらった家計簿からは、生活費を切り詰めるために四苦八苦している様子が手に取るように読み取れた。必要な支出に対して、収入が足りていない。これでは苦しいわけだ。
そこで私は、家計管理も引き受けることにした。と言っても、家計簿の管理はミミにお願いしたままだ。変えたのは、生活費の渡し方。定期的に決まった額を渡すのではなく、手持ちが減ったらその都度渡す。彼女は決して浪費などしないのだから、やりくりを気にする必要はない。それは私の仕事だ。
家計も領地の歳費に組み込んで、一括管理することにした。
生活苦から脱却するには、領地を富ませる必要がある。
だが私に与えられているのは、ろくに作物が育たず、羊の放牧だけで何とか生計を立てているような貧しい領地だ。頭に詰め込まれた学問は、この問題の解決にはあまり役に立たなかった。代わりに助けてくれたのが、妻の養父、私にとっての義父である男爵だ。
彼は領地経営の基本を私にたたき込み、「何か特産品を作るべき」と指針を示してくれた。
この特産品は、ミミのおかげで生まれた。
この地域では牧羊が盛んなだけあって、羊毛を使った伝統的な編み物がある。生成りの糸で編むのだが、模様が複雑で目が詰んでいるので厚みがあり、風を通さず、保温性が非常に高い。この領内の家庭で女性たちは、この模様で編んだセーターを夫や子どもに贈る。寒冷な気候の中で暮らすための、生活の知恵だ。
ミミはこの模様に関心を持ち、セーターではなくタペストリーやベッドカバーを製作した。美的感覚の鋭い彼女ならではの作品で、伝統的な模様の組み合わせでありながら、上品な華やかさを併せ持っている。
庶民向けのセーターなどは大した値段で売れないが、これなら貴族向けに売り出すことも可能だと私は判断した。ミミにしてみたら、金をかけずに美しいものに囲まれて暮らしたかっただけなのだろうが、領民にとっては大きな転換となった。
ミミがデザインしたものを領民に作らせ、貴族向けに販売することにする。
模様が独特な上に複雑なので、模倣は難しい。だから希少性があり、この領ならではの特産品とするのに申し分なかった。
義父に相談すると、販路を確立してくれた。
義父とその長男、すなわち私の義兄は、中堅規模の商会を持っている。うちからは、そこに卸すだけでいい。しかも義父の長女は伯爵家に嫁いでいて、彼女が貴族の間での宣伝にひと役買ってくれた。まさに至れり尽くせりだ。
お陰で領民の収入は大きく増加し、それにともなって税収も安定した。税収の安定は、領主の生活の安定でもある。増加した収入の大部分は領内の整備に充ててしまったから、私たちの生活が劇的に向上したわけではないが、余裕があるのとないのとでは気持ちが変わる。
生活が安定すると、ミミは毎日笑顔を見せてくれるようになった。
彼女は元来、明るく朗らかなのだ。彼女が笑顔でいてさえくれたら、私も毎日しあわせでいられた。その上、子宝にまで恵まれる。ルルこと長女のルシール、長男のフィリップ。二人ともかわいいが、おしゃまなルルはよくミミの口真似をするのが、面白くて、たまらなくかわいい。
貴族としては底辺だったのだろうが、領地経営は安定しており、家庭内には妻と子どもの笑顔があふれている。しあわせすぎて、怖いくらいだった。だが、ルルが六歳、フィリップが四歳になった頃、私はしあわせの絶頂から絶望の淵に突き落とされる。
子どもたちが流行病で、相次いで天に召されたのだ。そればかりか、日を置かずにミミまで倒れ、回復することなく帰らぬ人となる。