中編
人生の転換点となった、あの出来事が起きたとき、私は十七歳になっていた。
出来事というか、事件だ。
養母と一緒に、姉、つまり男爵家の長女が嫁いだ先の伯爵家を訪ねようとした日のこと、人通りの少ない小道に入ったところを暴漢に襲われたのだ。
御者と、女二人を乗せただけの馬車だから、銃を持った男たちに襲われたらひとたまりもない。御者は引きずり下ろされ、養母と私も馬車から引きずり出されそうになった。こわかった。
しかし、何という幸運か。この日、憲兵隊が町中で一斉に実地訓練を行っていた。その一環で見回りを行っていた班がこの襲撃に気づき、現行犯で捕縛した。
この事件の話は王宮にも届いたようで、翌日、ジョルジュが血相を変えて男爵家の屋敷に飛び込んで来た。
「ご息女は無事か!」
玄関の騒ぎに気づいて、何ごとかと様子をうかがいに行った私は、いきなり勢いよく駆け寄ってきたジョルジュに両手をとられて目を白黒させた。
「はい、おかげさまで母ともども無事でございます」
「よかった……」
ジョルジュは安堵したのか、大きく息を吐き出した。
彼は私と目を合わせてじっと見つめ、真剣な表情でこう宣言した。
「誰の差し金かは、わかっているんだ。もうこれ以上、好き勝手はさせない。きみは僕が守るよ」
正統派ヒーローみたいなセリフだけど、このとき私はときめきを感じるよりも、ただ困惑して不安を感じた。今にして思えば、その不安は無視すべきじゃなかった。
けれどもこのときの私には彼をとめるすべはなかったし、結局はどうすることもできないことだったのかもしれない。
とにかくジョルジュは王宮に戻って、彼が信じる正義をなそうとし、あっさり返り討ちにされた。
いわゆる「ざまぁ」ものと呼ばれるたぐいの芝居と、同じ結末を迎えることになってしまったわけだ。ざまぁものとはつまり、最近ちまたで流行している「悪役に仕立て上げられた娘が、断罪の場でどんでん返しをする」という筋書きの、あの芝居のこと。
まあ、そもそもあの芝居に出てくる偽ヒロインと偽ヒーローのモデルが、何を隠そう、私とジョルジュなのだけど。
具体的に何が起きたかというと、ジョルジュはあの暴漢たちを雇ったとみられる人物を、人目のある場所で糾弾した。糾弾されたのは、私に派手な嫌がらせを繰り返していた、あの侯爵家のお嬢さまだ。彼は依頼主がそのお嬢さまの従者だったという証言を、暴漢たちから得ていた。ジョルジュはそのまま侯爵家の責任を追及するつもりだった、らしい。
ところがそこへさっそうと現れた第二王子が、盤面を見事にひっくり返した。
第二王子は暴漢たちと司法取引をした結果「正しい証言」を引き出したと言う。彼らを雇ったのは実はこの私であり、捕まったら「雇い主は侯爵家のお嬢さま」と言うよう指示されていた、との証言を得たのだそうだ。つまり、あの襲撃は私の狂言だった、と。
そんな狂言に惑わされて、罪のない侯爵家のご令嬢を人目のある場所で糾弾したとして、ジョルジュは人望を失うこととなる。あれよあれよと言う間に王太子の称号を剥奪されて、王宮を追われ、申し訳程度の領地を与えられてそこに封じられた。なぜか私と一緒に。
かの侯爵家のご令嬢は、彼女を救った真のヒーローである第二王子と結ばれた。
ほら、芝居の筋書きどおり。
芝居としては「めでたし、めでたし」なんだろうけど、私は全然めでたくない。
しかも、とんでもない悪女に仕立て上げられてるし。
だいたいこの芝居の筋書きって、いろいろ不自然じゃない?
だってまず、私が狂言を仕組む理由がない。
何もしなくても私はジョルジュに好かれてるし、侯爵家のご令嬢は嫌われている。わざわざ手間暇とお金をかけてまで、余計なことをする必要なんてどこにもないのだ。
それに第二王子の登場がタイミングよすぎて、まるで待ち構えていたとしか思えない。
何より、この場面で司法取引ってあり得ない。実際やったのは司法取引なんかじゃなくて、口裏合わせのための裏取引でしょ。
要するにジョルジュは、はめられたのだ。
そして私はその巻き添えをくらった、ということだ。
なぜジョルジュが実の弟である第二王子から陥れられたかというと、ジョルジュと第二王子は母親が違うからだ。ジョルジュのお母さまは他国から嫁いできた王女で、彼を産んだときに亡くなってしまった。その後すぐにあてがわれたお妃さまが、第二王子の母親だ。
国王陛下は最初のお妃さまと深く愛し合っていて、いつでもどこでも一緒にいらしたと聞く。今のお妃さまとの間に何人ものお子をもうけた後でも変わらず、最初のお妃さまのことを大事に思っていらっしゃるそうだ。
そのたったひとりの忘れ形見が、ジョルジュだ。
彼はお母さまゆずりの甘く整った顔立ちをしているから、国王陛下からはとりわけかわいがられていたらしい。勉学にも優れ、教師陣の評価は高かった。お妃さまやその子どもたちにしてみたら、それが面白くなかったのだろう。
きっと、ずっと陥れる機会をうかがっていたに違いない。
そんなわけで私は、都落ちした負け犬のジョルジュと結婚することになった。
ロマンスなんてかけらもない。出会いはそう悪くなかったはずなのに。
ジョルジュに与えられたのは、本当に小さな領地だった。ただ私にとって幸いなことに、その領地は養父の男爵領と隣接していた。
結婚当初、私とジョルジュは喧嘩してばかりだった。
いや、うそだ。私がジョルジュに対して癇癪を起こしていただけ。彼が私に怒ることなんて、まったくなかった。
私はつまらないことですぐに癇癪玉を破裂させた。
そもそもジョルジュと結婚させられたことが気に入らなかったのだ。
別にジョルジュが嫌いだったわけではない。でも、かといって愛していたわけでもなかった。恋だの愛だのを味わう前に、政争に巻き込まれた挙げ句に強制的に結婚させられたのだから。
「守るって言ったくせに! うそつき!」
ジョルジュにひどい言葉を投げつけるたびに、彼は身体を物理的に傷つけられたかのようにこわばらせ、痛みをこらえる顔をして「ごめん」と繰り返した。何を言っても彼は決して言い返さないものだから、私の怒りは行き場を失って、さらに激しく燃え上がる。
私が激高するあまり涙をこぼすと、ジョルジュは自分も泣きそうな顔をして私を抱きしめ、背中をさすりながら私が落ち着くまでいつまででも「ごめん」と繰り返した。
こうして思い返すと、愛想を尽かされなかったのが不思議でならない。
でもあのときから一貫してずっと、ジョルジュにはこの世で何よりも私のご機嫌が大事だった。
あるとき彼は、珍しく一日家を留守にした。
帰ってくると、何やらうれしそうな顔でポケットから小さな包みを取り出し、私に差し出した。
「これ、きみに似合うと思って」
私は礼も言わずに包みを受け取り、中身を確かめるとカッとなって彼に突き返した。それは金貨ほどの大きさの、見事な彫りのカメオのブローチだった。
「いらない」
「えっ……」
ジョルジュの顔からは笑みが消え、あわてた表情で「でも」と何かを言いかけたけれども、私はまなじりをつり上げて、彼の言葉を遮って責める口調で言いつのった。
「いらないわよ、こんなもの! こんな暮らしをしていて、いつ、どこで使うっていうの。だいたい、いくらしたのよ。返してきなさいよ!」
私は慣れない家事に疲れ、常にかつかつの家計に悩まされていた。
見るからに高そうなこのブローチのお金が手もとにあれば、どれだけ楽になるだろうかと思ったら、ジョルジュを罵倒する言葉がとまらなくなってしまった。
彼は泣きそうな顔をしていた。
「ごめん。喜んでほしかっただけなんだ。ごめん……」
しぼり出すような声でつぶやかれた彼の言葉に、ようやく私の怒りは少し冷えた。
怒りが冷えてくると、何だか彼がかわいそうになってきた。丸一日かけて、彼はこの贈り物を探してきたのだろう。最近ずっとイライラしている妻の喜ぶ顔が見たかったのだろう。
喜んでくれるかな、と期待を込めて手渡した彼に、私のかけた言葉は────。
そこまで考えて、ジョルジュの絶望にまみれた悲痛な表情を見上げたら、怒りは蒸発したように消えてなくなり、代わりに無性に悲しくなってきた。急に静かになったと思ったら、ほろほろと涙を流し始めた私を見て、ジョルジュは動転して抱きしめてきた。
意固地になって黙りこくってしまった私を、ジョルジュはただ抱きしめて、いつものように「ごめん」と繰り返しながら背中をさすった。
彼の腕の中で気持ちが落ち着いてくると、私はぽつりぽつりと彼に自分の不満を訴えた。
お金がない。とにかく、お金がない。通いの女中を解雇すればその分のお金は浮くが、こんな片田舎ですぐに次の働き先が見つかるわけもなく、彼女は路頭に迷うだろう。だから、それはしたくない。
ブローチよりも、お金がほしかった。
ジョルジュは私を抱きしめる腕の力をゆるめずに、うん、うん、と相づちを打ちながら話を聞き、ときおり「ごめん」と謝った。
家計のやりくりが私の悩みの大きな部分を占めているとわかると、彼は「お金の管理は僕がしよう」と言った。元王子さまなんかに火の車の家計管理ができるのか疑わしく思ったけど、彼は見事にやってのけた。そればかりか、わずかながらではあるが貯金もできるようになったのだ。
ジョルジュは、私が癇癪を起こすたびに抱きしめて、辛抱強く話を聞いてくれた。そしてその都度、できる範囲で私の不満を解決してくれた。
結婚して半年も経った頃にはもう、私が癇癪を起こすことはなくなっていた。
豊かな暮らしからは縁遠くとも、私は確かにしあわせになっていた。
もともと私は、母と二人で質素に暮らしていたのだ。質素な暮らしは少しも苦にならない。
私の機嫌がよければ、ジョルジュもしあわせそうだった。
私は恋を知らないけれども、この頃にはすっかりジョルジュは私の「大切な人」になっていた。
ジョルジュへの気持ちがさらに変化するのは、彼の都落ちの裏事情を知ったときのことだった。