君は僕の心臓なんだから
前世の自分は本当に反省してほしい。そして誠心誠意今世の自分に謝ってほしい。
かつての自分がやんちゃだったことは認める。認めたくはないが認めよう。周囲の魔法使いとは一線を画すほどの魔力を持った魔法使いだったのだ。調子に乗るのも無理はない。
しかし。しかしだ。やんちゃだったとは言え、何百も離れた年若い魔法使いの心臓を奪い取る行為はいかがなものかと思う。『悔しかったから奪い返してみなさい!』なんて、どこのガキ大将だ。しかも散々煽った後、あたしはその魔法使いの男をそばに置き、死ぬまで下僕のように扱った。本当に万死に値する。
それ以外にもまあ見事にいろいろやらかして、かといって諌めてくれる相手もいなかったあたしは、調子に乗って、調子に乗って、調子に乗り続けて、死んだ。
死因は覚えていない。しかしロクな死に方ではなかったであろうことは想像に難くない。
『貴方の心臓はあたしが貰っていくわ』という死ぬ間際に吐いた言葉だけで、前世のあたしの傲慢さを推し量ることができるというものだろう。
*
「ああ、もう! ほんっと最悪! 前世のあたし、絶対に許さない!!」
前世の自分に対する悪態は枕が受け止めてくれるものの、底をつかない怒りの感情を消してくれることはない。
また前世の記憶を見てしまった。最悪な目覚めだった。せめて夢の中だけは昔の悪行を思い出させないでほしいと思うのは贅沢な願いなのだろうか。
前世魔法使いであったあたしは、気付けば生まれ変わっていた。前世の記憶持ち、かつ心臓を二つ持つ人間として。
心臓が二つある理由はすぐに察した。一つはあたしの心臓。もう一つはあの魔法使いの男から奪った心臓だ。
最期の言葉通り、あたしは男の心臓を返すことなく、今世に持って来てしまったようだった。
神とやらがいるのなら、そこはあたしが死んだ時点で男に返してほしかった。わざわざあたしの言葉通りにするなんて神というのは馬鹿なのかもしれない。
魔法使いは長命だ。何百年、何千年と生きる。ということは、あたしが死んで何百年経っていようと、心臓の持ち主である魔法使いが未だ存命であることはほぼ確実で。
心臓を奪った魔法使いが弱者に生まれ変わり、かつ自身の心臓を持っていると男が知ったなら? あたしだったら絶対に奪い返しに行く。ついでに殺す。いや、積もりに積もった憎悪のせいで殺すほうが目的になるかもしれない。
「……ううっ」
一生外の世界に怯えて生きるしかないなんて、人生ハードモード過ぎて泣けてくる。
枕を濡らしながら体を震わせていると、バンッと扉を壊す勢いで誰かが入ってきた。
「クラシュナ! 起きてるんでしょ! いいかげん少しは外に出なさい!」
「っ、いやよ! お母さんはあたしが死んじゃってもいいわけ!?」
「アンタは部屋の外を魔境かなにかと勘違いしてるの!? 体調が悪いわけでもないでしょう! 部屋を掃除するんだからつべこべ言わずさっさと出る!!」
母親の怒声から身を守っていた毛布は呆気なく剥ぎ取られ、ベッドから落とされたかと思えばパジャマ姿のまま部屋からも追い出される。
「魔王め……ここが地獄か……」
「なにか言った!?」
「なにも言ってないです!!」
廊下に留まり続けるわけにもいかず、お腹も空いてきたので、泣きべそをかきながらリビングに向かう。
「ご飯……」
「ここに用意されてる」
「ありがと……え、サラ?」
一人だと思っていた部屋から声が聞こえるものだから、驚いて顔を上げると、そこには我が物顔でダイニングチェアに座る幼馴染の姿があった。
「遊びに来てあげた」
「……どうも」
「なに、そんな不細工な顔をして。可愛い顔が台無しじゃない」
「だって」
「どうせまたおばさんに怒られでもしたんだろうけど」
「ふん」
サラの向かいに座り、もそもそと朝食兼昼食を口に入れていく。その間サラから外出の誘いを受けるも、いつものように頑なに拒否する。呆れた溜息を吐かれようと嫌なものは嫌だ。
「あんたほんと外出するの嫌いだよね。なにをそんなに怖がってんの?」
そろそろ白状しなさいとサラが怖い顔をして言うものだから、あたしは食べる手を止め、下唇を噛む。
「……殺される」
「誰に?」
「魔法使いに」
「はあ? なに言ってんの。魔法使いはあたしたちのような魔力を持たない人間の味方じゃん。殺されるなんてそんなこと口が裂けても言わないほうがいいよ」
諭すような声音に、やはり理解はしてもらえないかと閉口する。
「大体クラシュナは魔法使いたちの魅力を知らないからそんなことが言えんのよ。私の推し魔法使いなんて、顔もスタイルも良くて、歌が上手で、踊りも完璧で──」
この世界は何千年も前から魔法使いと人間が共存して暮らしている。この時代の人間にとって魔法使いは、魔物やら魔獣やらの脅威から守ってくれる憧れの存在らしく、前世生きていた時代とは正反対の価値観に衝撃を受けたことは記憶に新しい。
「……てことで、いいよね?」
「うん」
「よし。じゃあ早速準備しましょ」
「え? ごめん、聞いてなかった」
前世のことを考えているうちになにか話しかけられていたらしい。頬をつねられてしまった。
「まあいいわ、言質は取ってるし。クラシュナに拒否権はないから」
「な、なによ。どこに行くつもり?」
深みを持たせた言い方に怯えるあたしに対し、サラはニヤリと笑った。
「魔法使いの社交場──【僕の心臓】よ」
*
「だ〜か〜ら〜! あたしは帰るってば!!」
「ここまで来たんだから観念しなさい! こんな機会滅多にないんだから!」
木製の重厚なヴィンテージドアを前に言い合うこと早一時間。両者とも一歩も譲らないため状況は一向に善くならない。
サラに無理矢理連れてこられた【僕の心臓】は、引きこもりの私でさえ知っているとても有名なお店だ。
魔法使いの社交場というだけあって、入場対象は魔法使いに限られている。魔法使いと知り合いだろうが人間の中で偉い地位にいようが、平等に人間の入場は禁止されているため、人間にとって生きているうちに一回は行ってみたい場所となっているのだとか。
「だいたいどこでチケットなんか手に入れたのよ? 違法な手を使ったんじゃないでしょうね」
「聞いたら驚くわよ。なんと」
「なんと?」
「抽選に当たったの!」
「は? ……ってことはあのイベントに参加したの!?」
実は人間が【僕の心臓】に入るのに唯一の方法がある。それは百年に一度の周期で行われる入場チケットの抽選イベントで当選することである。
応募者が殺到し、死傷者まで出ると言われる超レアイベントに参加するだけでも凄いというのに、あまつさえ何百万倍もある倍率の中から当選したというのか、この幼馴染は。
「一生分の運使い果たしたかも」
「……せっかくだしサラ一人で行けば? 一人でいたほうがたくさんの魔法使いとお近付きになれるはずよ!」
「顔を輝かせないで。一人で行けないから付いてきてほしいって言ってんでしょうが」
魔法使いしかいない場所ということは、前世の知り合いに会う確率が一気に高まるということで、つまりそれはあたしの正体があの男にバレて殺される可能性が大きくなるのと同義なのだ。そもそもその男がいないとも限らない。そんな場所に誰が好き好んでいくものか。
しかしここまで言ってもサラがなぜ引き下がらないのかと言えば、どうやらサラにはお目当ての魔法使いがいるらしく、ここを生活の根城としている彼に会うための勇気がほしいのだそう。
「一生のお願い。彼を一目でも拝めたらすぐに帰ってもいいから」
「……」
「なにか奢る!」
「……」
「課題も代わりにしてあげる!」
「……」
「……たまに授業サボってること、おばさんに言うから」
「あー! 急に行きたくなったなー! 早く入ろう! いっぱい楽しもう!」
「そうこなくちゃ」
実はあたし、魔法使いの男より、お母さんのほうを怖がっているのでは……?
「やば、ドキドキしてきた。……ちょっと、なんで私の後ろを歩くわけ?」
「あ、お気になさらず。サラの後をついて行くので」
受付で貰った特別ゲスト用の名札を首にかけ、一階フロアを所在なく見回す。
心地よい音楽とともに耳に届く男女の会話。鼻を擽るアルコールと香水の匂い。照明を落としているのか全体的に薄暗いが、それが大人の空間を作り出していて、その落ち着いた空間が強張るあたしの体を解してくれるようだった。
思い思いに自分の時間を楽しむ魔法使いたちは、美形かつ奇抜な髪色、格好をした者ばかりで、異空間に来た感覚を覚えると同時に、故郷に帰ってきたような懐かしい気分に陥る。
あたしたちの近くでお酒を嗜む女魔法使いの服を見て、布面積の少なさも変わっていないのね、と思わず笑みがこぼれた。
「めちゃくちゃエロくない? どうしたらあんな色気出せるわけ? 三百年生きなきゃ無理?」
「三百年生きたところでサラは貧乳だから無理よ」
「は? あんた今全世界の貧乳敵にまわしたから」
「じゃあ私は全世界の巨乳たちを集めて対抗するわ」
そんなくだらないことを喋っていると、件の女魔法使いがあたしたちに近付いてきた。
「はあい、貴女たち人間かしら?」
「はい、特別ゲストで入らせていただきました」
首にかけている名札をサラが見せれば、美女は「そうなのね」と微笑んだ。あたしが美女の笑顔に見惚れる一方で、サラはたゆんと揺れる胸をガン見している。
この幼馴染、周囲から持て囃されるほどの美少女なのにもかかわらず、オタク気質かつむっつりすけべな内面なものだから、残念美少女と言われることが多い。いや、気持ちは分かるよ。実にけしからんおっぱいだもんね。
「運の良いことに今日はシモン様も表に出ておられるようだから、お会いできるといいわね。じゃあ、楽しんでいってちょうだい。ロジェスティラの御加護があらんことを」
「ありがとうございます」
サラは美女が離れていくと、途端に口を忙しく回し始めた。
「まって、さっきのおっぱい美女言ってたよね? 大魔法使いシモン様がいるって。どこ、どこにいんの? っっ、もしかして、あそこにいんのってそうじゃない……!?」
サラが興奮気味に指差す方向は、二階フロアーだ。
そこには胸の大きいお姉さま方に囲まれながら気怠げにグラスを揺らす男が一人。腰より長いプラチナブランドの髪を持つ男は、あたしたちの視線に気付いたかのようにエメラルドグリーンの瞳をこちらに向けた。
──目が合った、気がした。
「あたし帰る」
「えっ、なんで」
「体調が悪くなったの」
ダラダラと汗が流れ始めた。あたしの心臓が異常なほどに脈打っている。
間違いない。あの男こそ、前世あたしが心臓を奪った男だ。
男がシモンという名前であったことをすっかり忘れていた。しかも大魔法使いシモンと言えば、この世に存在する魔法使いの頂点に立つとさえ言われている人物ではなかったか。
「本当に具合が悪そうね。仕方ない、私も帰るわ」
「いや、サラはまだ楽しんできなよ。まだその推し? にも会えてないんだし」
「今にも倒れそうな親友を放っておくほど私は非情じゃないよ。それに、クラシュナがいないと私一人でいたって楽しくないし」
「……サラ」
めったに見ない親友のデレに感動していると、横から一人の男性が近づいてきた。黒服を着た男性はどうやらこの店のスタッフらしく、恭しくあたしたちに頭を下げる。
「ご歓談中失礼いたします。お二人は特別ゲストのサラ・マークウェン様とクラシュナ・オレイフ様でお間違いないでしょうか?」
「そうですが……なにか?」
「今からお二人の時間をいただくことは可能でしょうか」
「どうしてですか?」
「あそこにおられます、大魔法使いシモン様がお呼びです」
思わず二階に視線を動かしそうになった。スタッフが声をかけてくるタイミングが意図的かと思うほど完璧すぎる。
「ど、どうしてシモン様が私たちをお呼びに?」
「百年ぶりの特別ゲストですので、オーナーであるシモン様がぜひ挨拶を、とのことです」
ということは、特別ゲストだからあたしたちを呼ぶのであって、あたしだから呼ぶのではないと、そういうことでいいのだろうか。
たとえそうだとしても、シモンと顔を合わせるのだけは無理だ。可及的速やかに、あたしはあの男から距離を置かなければならない。
サラはあたしの体調を慮って誘いを辞退してくれるだろう。だから今、あたしがすべきことはただ一つ。
「クラシュナ」
「ええ、分かっているわ。このお誘いはもちろん」
「受けるわよ!」
「そこは断るところでしょ!?」
「シモン様直々のお誘いなのになぜ断る選択肢があると思っての? 体調なんて今気合いで治しなさい」
「さっきの感動を返して!!」
サラは満面の笑みでスタッフさんに向き直り誘いを受けることを伝えると、スタッフさんは「ではご案内いたします」と微笑んだ。
突然の親友の裏切りに、あたしは泣いた。
ああ、お母さん、魔王なんて言ってごめんなさい。先立つ親不孝な娘をどうか許して。
断頭台に上がる気分で階段を上がりきって最初に視界に入ったのは、高級ソファに腰掛け足を組んだシモンだった。
先ほどまでいたはずの悩殺美ボディ女性たちはいない。それどころか、二階フロアにはあたしたち以外誰もいなくなっている。
「やあ、君たちが特別ゲストの二人だね。【僕の心臓】へようこそ。オーナーのシモンだ」
「オマネキイタダキアリガトウゴザイマス。タイヘンコウエイデス。サラトモウシマス」
緊張のせいで盛大に片言になっているサラを横に、あたしはシモンの長い足を見ながら小さな声で挨拶をする。そう簡単にあたしの前世を見抜けるわけではないだろうが、相手は魔法使いなのだから油断はできない。
するとその態度が功を奏したのか、特別シモンはあたしに反応することはなかった。気にし過ぎていたあたしが馬鹿みたいに思えたが、それでも安堵する自分を否定することはできなかった。
「どうぞ、座って」
「あ、ありがとうございます」
あたしが死んでから何百年経ったのだろうか。多くの老若男女を狂わせてきた美貌は相変わらず健在だが、当時とは比べ物にならないくらいに大人びた顔付きになり、それに比例するように色香が増していた。
「せっかくだからなんでも聞いて。人間にとって魔法使いは珍しいものなんでしょ?」
柔和な笑みを湛えあたしたちを歓迎する空気を醸し出すシモンのおかげか、サラはすぐに緊張が解き、シモンに関する質問を恐る恐るながらも投げ始めた。時折あたしにも振られたが、緊張で話せない体を作って遠慮させてもらった。
すっかりシモンに気を許したサラに、なんの気もなかったことはもちろん分かっている。
だからこそあたしは無邪気に開いたサラの口を止めなければならなかったのに、反応するのが遅れてしまったのが全て敗因だ。
「あの、魔法使いの皆さんって心臓が首の後ろにあるんですよね? ドキドキする時とかってやっぱり心臓の音が大きく聞こえるんですか? 首にあるってどんな感覚なんだろうと思いまして」
「……さあ、どうだろう。僕には心臓がないから分からないんだ」
は、と肺から漏れ出た音が聞こえた。音を出したのはサラか、それとも自分か。
「し、心臓がないって」
「不安がらなくても僕はちゃんと生きてるよ。……昔、一人の魔法使いに心臓を奪われてしまってね。それ以来ずっと僕には心臓がないままなんだ。ないことが当たり前になってしまって、あった時の感覚はもう思い出せないなあ」
「シモン様から心臓を奪える相手なんているんですか?」
「ふふ、仕方ないよ。あの頃の僕は魔法使いとしてまだまだ未熟だった。まあ、僕の心臓を取ろうなんて暴挙を許すほど弱くもなかったけど……あの魔法使いだけは格別で……特別だった、それだけさ」
そろそろ心臓の話をやめてくれないだろうか。あたしの心臓に悪い。
「ち、ちなみにその魔法使いって……」
「誰もが知っている偉大なる魔法使いさ」
「偉大なる魔法使い……もしかして、始まりのロジェスティラですか!?」
「正解。光栄だと思わない? 彼女に心臓をもらってもらえるんだから」
「それなら理解できる気がします」
始まりのロジェスティラ。偉大なる魔法使いと謳われる彼女は、かつて深い確執があった魔法使いと人間の間に橋を掛けた人物として、世界で知らない者はいないと言われている。
また魔法や文明の発展にも貢献するなど多大な功績を残したことでも有名で、魔法使いに限らず人間からも崇められている存在だ。
そしてなにを隠そう、ロジェスティラとは前世のあたしのことだ。
後世に誇る素晴らしい魔法使いではないと自覚していたがゆえに、最初こそ同名の魔法使いかと思っていた。しかし今代に残る数々のエピソードを聞いていくうちに、ロジェスティラがかつての自分であることを否定できない要素がたくさん出てきてしまい、最終的には嫌々ながらも認めた。
正直過去の自分が持ち上げられている状況が恥ずかしくて仕方なく、外出を拒む理由の一つとなっていたことは否めない。
「あ、だからこのお店の名前が……」
「うん。早く僕の心臓が見つかりますように、ってね」
【僕の心臓】、この名前を初めて聞いた時から嫌な予感はしていた。あえてなにも考えないようにしていたが、こうしてシモンから名前の由来を聞いてしまうと、シモンがロジェスティラに対し怒りを抱いていることが明確になってしまった。
いや、怒っているなんて可愛らしいものではないだろう。復讐心に満ち溢れているに違いなかった。
心臓を奪われ奴隷のようにこき使われ、あたしが死んでようやく解放されたかと思えば心臓は返ってこない。つまるところシモンは未だあたしに囚われたままの身なのだから。
「なるほど。でも魔法使いって本当凄いですね。心臓がなくても生きていけるなんて」
「いや、僕じゃなければ死んでただろうね。僕の魔力と彼女の魔力の相性が良かったから、僕は今でも生きているようなものさ」
かぶりを振ってサラの言葉を否定したシモンは、そこで初めてあたしに視線を向けた。なぜここであたしを見る! と内心泣きそうになりながら、にへらと不恰好な笑顔を作ったその時。
「シモン〜、二階フロアからみんな追い出したんだって〜? なにして……あれ」
一階フロアと繋がる階段からひょこりとピンク色の髪が見えたかと思うと、一人の青年が現れた。
その直後、サラが奇声を上げながらソファから飛び上がった。
「えっ、うそ、えっ、も、も、もしかして魔法使いのスクルド様ですか……ッ!?」
「ん〜? その反応を見るに、君オレのファン?」
「はい! 大ファンです!!」
サラの推しらしき男を、あたしは知っている。そして彼の男もロジェスティラを知っている。
つまりあたしのことに気付いて欲しくない人物が一人増えたわけで、冷や汗が噴き出したのが分かった。
不自然にならない程度に顔を逸らしているが、顔に突き刺さる視線の強さに発狂しそうになる。スクルド、めっちゃ見てくるじゃん。
「……ふ〜ん。なるほどね。あんた、名前はなんて言うの?」
「サラです!」
「サラね。じゃあサラ。せっかくだからオレとお話ししよっか。特別ゲストかつオレのファンってならおもてなししてあげないと」
「いいんですか!?」
「えっ」
「もちろん。さあ行こっか。ということだから、あとはお二人でごゆっくり〜」
目の前で展開されていく状況に唖然としているうちに、二人は一階へと姿を消してしまい、サッと顔が青ざめる。
二人きりになったフロアには重たい沈黙しか残っていない。一階に響く音楽と魔法使いたちの喧騒が遠くに聞こえ、あたしはなんてところに来てしまったのだと、改めて自分が窮地に立たされていることを実感してしまった。逃げなきゃと思うほど足が固まってしまって、一ミリたりとも奴と距離を取ることができない。
軽くパニックになっていると、突然ソファーが沈みバランスを崩しそうになった。そんなあたしの肩を支えたのは、……シモンだ。
傷み一つない髪が首が傾くのに合わせてサラリと揺れた。あたしの鼻腔を擽る男の香りは、死に別れたあの時からなに一つ変わっていない。
「クラシュナ、だったかな」
「……そうです」
「君はどうしてここに来たの?」
「サラに、連れて来られて」
そう、と少し気怠げに返事をしたシモンの様子に、一瞬でも油断したあたしが馬鹿だった。
「クラシュナ、君は、君がここに来たことをただの偶然だと思っているんだね」
「……」
「遥か昔から、心臓はあるべき場所に帰りたいと願っていたのに」
「──なにが、言いたいんですか」
なにも知らない者からすれば脈絡のない言葉に聞こえるだろうが、あたしにとって、それは獲物を仕留めんとする鋭利なナイフとなんら変わりはなかった。
「僕が言いたいのはただ一つ。君は君の心臓に従いここに来たということだけさ」
トン、と首の後ろを指の腹で叩かれた。その瞬間、全身が燃えるように熱くなった。心臓が元の持ち主に反応しているのだ。
本能が警鐘を鳴らしている。前世の自分が逃げろと訴えてくる。
「あっ、あの! あた、あたし、用事を思い出したのでこれで……」
ソファから勢いよく立ち上がり、足を一歩前に踏み出そうとしたその時。
「ダメじゃないか、逃げちゃ」
「ヒッ」
背後から伸びてきた腕がお腹に回りバランスを崩したあたしは、そのままシモンの膝の上に座り込んでしまった。
突如与えられた他人の熱に、ぶわりと顔が赤くなる。二つある心臓がどちらも煩いくらいに脈打ち始めた。
「ねえ、僕を呼んで」
呼ぶ、とはなんだ。名前を呼んだらいいのか。彼の名前はなんだ。ああそうだ。思い出した。何百年も前にロジェスティラがつけた呼び名を思い出した。しかし、今それを呼ぶなんて論外中の論外。だからあたしは彼の名前を呼ぶ。
「シモン、サマ」
「うん、そうだね。そうだけど、違うよね」
「っ」
「昔のように僕を呼んで。──『あたしの心臓』って」
片手で首の後ろを掴まれたかと思うと、耳のそばでそっと囁かれた。低くて甘い声音にビクリと体が揺れる。
バレている。あたしが彼の心臓を奪った犯人だと。
先ほどまで頭の中で鳴っていた警鐘はいつのまにか人生の終わりを告げる鐘となり、一際高い音を響かせあたしの意識を一瞬奪った。
『ちょっと! ちょっと来て!』
『うるさいなあ、なに?』
『ちょっとこれ着てみてくれない? 貴方に似合うと思って買ってきたの!』
『嫌だ』
『即答!? なんでよ、これを着たらもっと素敵に見えると思うの。なあに、あたしの見立てがおかしいって言いたいの?』
『別に……、こんな僕を着飾ったって意味がないよ。君は自分のことだけに金をかければいいのに』
『はあ? 意味ありますけど? とってもありますけど!?』
『っ』
『いい? よーく聞きなさい! 貴方の心臓はあたしが貰ったわ! だから貴方の心臓はあたしのもの! つまり貴方自身もあたしのもの! 確かに貴方はそのままでもイケてるわ。でもあたしのものになったからにはもっともっと魅力的でいてもらわなきゃ! あたしがより輝くために!』
『なに、それ』
『心臓を奪われたのが運の尽きと諦めることね。覚悟しなさい、あたしの心臓! おーほっほっほっ!』
不意に前世の記憶を思い出してしまい、頭を抱えたくなる衝動に駆られた。馬鹿じゃないのか。本当に馬鹿じゃないのか。阿呆丸出しの高笑いは完全に黒歴史だ。最後に思い出す記憶がこんな場面なんてあんまりだ。走馬灯を見せるのならせめて今世の記憶にしてほしかった。
「貴方がなにを言っているのか、あたしにはさっぱり分かりません。シモンサマとお会いしたの初めてなのに、魔法使いの頂点に立つような貴方の呼び名なんて、人間のあたしごときが知るはずも、ッ」
最後の悪あがきはソファに押し倒しされたことによって強制的に終わらせられた。
シモンの長髪によって作られたカーテンのせいで視線をよそにやることができず、自然と視線が真上に浮かぶ冷ややかな表情にいってしまう。美しい緑の瞳の奥に怒気が含まれているのが分かり、余計に恐怖心が煽られた。
「知っているよ。クラシュナ、それは君が一番よく分かっているはずだ」
「な、なんでそう思うんですか」
どれだけ気丈に振る舞っても震える声は誤魔化せない。殺される。殺されてしまう。彼は自身の心臓を取り返した後、今度はあたしの心臓を奪い取ることだろう。今世のあたしは人間だ。心臓を取られた時点で死んでしまう。
諦めるしかないのは分かっている。それでも人間であるあたしは、しぶとくも生きていたいと思ってしまうのだ。
恐怖に震えたあたしの問いかけに、心臓のない男はきょとんと不思議そうな顔をした後、ゆっくりと、うっそりと、笑った。
「そんなの決まっているじゃないか」