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第九話― 体育祭シリーズ④ 傷だらけのヒーローたちへの応援歌(1)

 派茶目茶高校のビッグイベントである体育祭。若者たちのさまざまな人間模様が錯綜しながらも、午前中の競技種目も後半戦へと突入した。

 スタート時こそ最下位に甘んじていた七組チームであったが、男のプライドをかけた闘いを繰り広げる拳悟と勝のおかげで、ここに来てようやく最下位から脱出することができた。

 勝は七組チームのリーダーとして、どんどん順位を上げていこうと拓郎や他の仲間たちのやる気を鼓舞する。それに応えるように、彼らもチーム一丸となって弾んだ声を張り上げていた。

 一方その頃、休む間もなく競技に参加しなければならない拳悟は障害物レースで他のチームとの混戦の真っ最中であった。

 この障害物レースだが、数メートル間隔に置かれた障害物となる平均台やハードルなどを越えて、最後の難関とも言えるクモの巣のようなネットの中を潜り抜けてゴールを目指すというシンプルな競技。

 単純明快なこのレース、現在首位を独走しているのは誰かというと、平均台をあっさりと渡り切ってしまった二年八組のデンジャラスな中国人である中羅欧だ。

「ハッハッハ! ワタシに勝てる、ヤツなんか、この世にいないアルね!」

 向かうところ敵なし。余裕しゃくしゃくの笑みを浮かべて、長い弁髪を振り回してハードルをジャンプしていく中羅欧。ところが、そんな彼に付いていくことができる生徒がたった一人だけいた。

「はっはっは! おまえに勝てるヤツなんて、この世で俺一人あるね!」

「ムム――!? ケンゴ、アルか!」

 自意識過剰なチャイニーズをさらりと追い越した拳悟は、障害物として立ちはだかるハードルを一つ一つ慎重に飛び越していく。その機敏な動きは、これまでの疲労など微塵にも感じさせない。

 これで彼が一歩リードしたと思いきや、そう易々と独走とはいかないようで、中羅欧も飛び抜けた身体能力を生かしてハードルの二つ飛ばしという離れ業をやってのけた。

「お先、アルよ~!」

「うわ~! おまえ人間じゃねーだろ?」

 一位の中羅欧、それを追い掛ける二位の拳悟。障害物レースの最後の障害物となるクモの巣のようなネットが彼ら二人のことを待ち構える。

 グラウンドに敷かれた網目状のネットに潜り込んだ中羅欧。ほふく前進しながら、閉塞的な狭苦しい網の中を掻い潜っていく。

 拳悟という強敵に気を取られるあまり、中羅欧は気持ちばかりが逸っていた。ネットの脱出口を見つけた途端、もの凄い勢いでネットから這い出ようとした――が、そんな彼を涙ぐましい悲劇が待っていた。

『――グキッ!』

 それは見ている方も痛くなるような鈍い音だった。

 特徴とも言うべき弁髪がネットに引っ掛かり、中羅欧は首を思い切り捻ってしまったのだ。もちろん彼はそこから起き上がることができず、ただただ声にならないうめき声を漏らすしかなかった。

 惨めな中国人を難なく追い越して、哀れんだ餞別を言い残していく拳悟の姿がそこにあった。

「お気の毒。……今すぐとは言わないけど早めに散髪に行けよ」

 ファンからの黄色い声を浴びながら、このまま順当にゴールラインの白いテープを切った拳悟。記念すべき赤いリボンを受け取り、彼はこれで本日三つ目の一等賞をゲットした。

 残すところあと三種目。競技のたびに疲労感が増していくはずの彼はモチベーションを維持したまま、いくつの赤いリボンを手に入れることができるのだろうか?


* ◇ *

 拳悟が障害物レースの勝利に酔いしれている頃、ここは体育祭の喝采から少し離れたグラウンドへと繋がる通路の一角。

 ズボンのポケットに手を突っ込んで、ヨタヨタとだらしなく歩く三人組がいる。それは紹介するまでもなく、つい先程まで屋上でサボっていた弾番長とその仲間たちだ。

 そこへ向かい側からやってくるのは、おしゃべりをしている男子生徒が二人。話題に盛り上がっているせいか、番長たちの姿や威厳にすら気付く様子もない。

 狭い通路の上で男子生徒と不良が今まさにすれ違おうとした瞬間、余所見をしていた男子生徒のうちの一人と偉そうに闊歩していた弾の肩が接触してしまった。

「おっと、ごめんな」

 謝罪をポツリと呟いた男子生徒は目上に対する挨拶もお座なりにしたまま、もう一人の生徒と雑談しながらそこから離れていこうとする。

 ここは恐れ多くも、天下御免の派茶目茶高校の番長。軽くあしらわれて、このまま黙って見過ごすわけにもいくまい。彼は振り向きざまに、男子生徒の首根っこをガッチリと鷲掴みにする。

「おい、てめぇ、待てコラ!」

「わぁ~、す、すみませんでしたぁ!」

 突き刺すような鋭い目つきで、怯える男子生徒のことを睨み付ける弾。

 それは一触即発のただならぬ事態――のはずが、番長の口から出てきた言葉は意外にも、その生徒の身を案ずる心優しい気遣いであった。

「おまえ、ぶつかった時、肩とか怪我してねーか? 脱臼とかしてない?」

「――へっ? は、はい、大丈夫と思われます」

 拍子抜けしたように萎んでしまった男子生徒は、どうリアクションしたらよいのかわからぬままに校舎の方向へと早足に立ち去ってしまった。

 一方、途中停止を食らった番長たち一行も、進むべき道を誤らないようグラウンドの方角へと踵を返した。

 体育祭というお遊戯など関心も興味も示そうとはしなかった弾たち三人。ところが彼らの足は今、体育祭で盛り上がるグラウンドに向かっている。いったい、どんな心境の変化があったのだろうか?

「おい、ダン。本当にグラウンドへ行くつもりか?」

 リーゼント頭のノルオが問うてみると、茶髪頭の弾は迷うことなくコクンと頷く。番長曰く、お昼ごはんまでの単なる時間潰しなのだという。

「時間潰しだったら、わざわざグラウンドじゃなくてもいいだろう」

 赤毛のコウタが指摘してみるも、弾はそれを拒むようにぶんぶんと茶髪を振り乱していた。

「いやなに、生き生きとした若人たちのほとばしる汗と涙、躍動する熱い胸の鼓動を、ちょっとばかり見学させてもらおうと思ってな」

 弾は一人頷きながら、生徒たちの青春熱血ドラマのワンシーンを感慨深く思い浮かべていた。そんな彼の好きなドラマのジャンルは、案外女性の入浴シーン満載のサスペンスものだったりする。

 ノルオとコウタの二人も溜め息を一つ零して、ひねくれ者のくせに何を抜かすかと、カッコつけている番長に冷め切った蔑みの視線を送っていた。

 この時、番長たちの近くを通りかかる不幸な少女がいた。その人物こそ、渇いた喉を水道水で潤したばかりの、弾の意中のマドンナ、愛しい女神でもある由美であった。

もっと不幸なことに、クラスメイトといった顔見知りが近くにおらず彼女は独りぼっちなのであった。

「――あ」

「――ん?」

 お互いの存在に気付いた由美と弾の二人。

 その距離、十メートルほど。呪われた運命の糸で結ばれたこの二人は、こんなタイミングで偶然の再会を果たした。

 しばらくの間、見つめ合ったまま硬直していた二人だが、先に行動を起こしたのは愛しの女神に首ったけの弾の方だった。

 彼はスプリンターのごとく、由美というゴール目掛けてハイスピードで疾走していく。戦慄のあまり動けなかった彼女は、彼から逃れる術など持ち合わせてはいなかった。

 狙った獲物は逃さない。弾はあっという間に由美の目の前まで迫ってきた。

「見つけたぜ、お嬢ちゃ~ん!」

「キャァァ~!」

 またまたこの時、クラスのマドンナの危機を察知した幸運な少年がいた。その人物こそ、障害物レースを一位で終えてホッとしている、由美の憧れの人である拳悟であった。

 彼は何をしていたかというと、同じレースで首を負傷してしまった中羅欧を哀れに思い、自らの肩を貸せる形で保健室まで付き添っている最中だった。

『キャァァ~!』

 その声はまさしく由美のおののく悲鳴。拳悟はすぐさま、三百六十度の広い視野にサーチライトのような視線を発射する。

 血眼になって捜索すること数秒後、変態番長に襲われている彼女の危機一髪のシーンをその目で確実にキャッチした。

「チュン、急用が出来ちまった。悪いけど一人で保健室に行ってくれ」

 拳悟は自分の肩から中羅欧を引っ剥がすと、クラスメイトの窮地を救うためにスニーカーのつま先で地面を思い切り蹴り出した。

 支えを失った中羅欧はどうなったかというと、そのままバランスを崩してしまいフラフラとグラウンドの上にへたれ込んでしまった。

「ひどいアル。中国人、結構根に持つアルよ!」

 拳悟は怒涛のごとく駆け出していく。傷物にされる危険性をはらんだうら若きマドンナを救出するべく――。

 その頃、うら若きマドンナはどうなっていたかというと、彼が不安視していた通りまさに貞操の危機に瀕していた。

 もう逃がしてなるものかと、じわりじわりと追い詰めてくる弾の威圧感に由美はすっかり怯えてしまい、救いを求める声すら上げることができず全身を縮こまらせることしかできない。

「フッフッフ。俺のことを忘れちゃいねーよな? この派茶目茶高校の生きる伝説と呼ばれる碇屋弾番長様のことを」

 一歩一歩後ずさりしていく由美。そんな彼女に一歩一歩近寄っていく弾。この男女二人の隙間に何人たりとも寄せ付けない緊迫感が漂っている。

 どこから見ても彼女の危機は一目瞭然だが、それを見て見ぬ振りしてしまう生徒たち。素っ気ない顔を浮かべる彼らを見る限り、この番長だけには関わりたくないという複雑な心情が垣間見れた。

 誰か助けて――。由美は叶わぬ願いを祈りつつも、悲壮な覚悟を決めて瞳をグッと閉じる。その願いが通じたのか、悲運な彼女にも身を挺して守ってくれるヒーローがいてくれた。

「はい、そこまで~!」

「――え?」

 由美と弾の隙間に飛び込んできた男子生徒。彼こそ、番長の恐ろしさを物ともしない勇気と度胸を兼ね備えた、ヒーローと呼ぶにふさわしい勇希拳悟その人であった。

 彼の勇ましい大きな背中に守られて、由美はホッと胸を撫で下ろし内面に秘めていた想いをほのかに表情に映してしまう。

「弾センパイ、この女の子は人違いなんですよ」

「な、何じゃとぉ~!?」

 この女の子はクラスメイトの一人であり、あの愛しい女神とは別人なのだと拳悟は必死の形相でそう捲くし立てた。

 衝撃的な事実を知って弾はびっくり仰天で仰け反るも、どうにも釈然としない顔つきだった。それもそのはずで、彼の懐にあるスナップ写真の中にいる女神と目の前にいるカワイコちゃんの顔がそっくりだからだ。

 それを追及されても、拳悟は平静を装いながら下手な勘ぐりをされないよう滑らかな口振りでごまかしていた。

「あまりにも似ているから、この俺も見間違えたぐらいですもん。ほら、この世には、そっくりさんが二人はいるって言うでしょ?」

「う~ん、そっくりさんか……。そう言われてみると、何となく別人のような気がしてきたぞ」

 さすがは天下無敵の落第生。筋金入りの単純な性格のせいか、拳悟の熱弁にあっさりと説き伏せられてしまう弾なのであった。

「お嬢ちゃん、申し訳なかったな。どうも人違いだったみてーだ」

「……あ、いえ。気になさらないでください」

 ここでの非礼を詫びる律儀な番長に、首振り人形のようにペコペコと頭を下げている由美。ようやく彼女は、身の危険という緊張感から脱出することができたようだ。

 弾は気まずそうに別れを告げると、ノルオとコウタの二人を従えて去っていった。彼らの後ろ姿が小さくなったところを見計らい、拳悟と由美の二人はそれはもう長~い吐息を漏らした。

「ふぅ、何とかバレずに済んだみたいだ。良かったね」

「一時はどうなるかと思いました。ケンゴさん、どうもありがとう」

 頬を赤らめる由美の瞳に、男らしくてたくましい拳悟の横顔が映る。

 競技を終えたばかりで、しかも彼女のもとに大慌てで駆けつけた彼の顔には、たくさんの輝かしい汗が零れていた。しかし、その滴り落ちる汗の量がどうにも尋常ではない。

 よく見てみると、それは顔だけではなくタンクトップから覗く首筋や胸元までも汗でびっしょりと湿っていた。

「ケンゴさん、すごい汗ですよ。わたしのハンカチ使いますか?」

「ああ、大丈夫だよ。これから水飲み場に行って顔洗ってくるからさ」

 涼しい水を目一杯浴びて、汗ばんだ顔も気持ちもリフレッシュしようとした拳悟。ところが、彼の望みを邪魔してしまう次の競技である借物レースの集合を知らせるアナウンス。

 借物レースに参加する拳悟は出鼻を挫かれてしまい、やむを得ずグラウンドの方へとんぼ返りする羽目となった。これも、八種目もの個人種目に出場しなければいけない者の悲しき宿命であろう。

「それじゃあ、俺、行ってくるよ」

「がんばってください。わたしも席に戻って応援しますね」

 拳悟のことを励ましながら見送った由美だったが、この時、彼の真の異変にまで気付くことができなかった。休む間もない連戦続きのせいで、すでに気力も体力も限界に近づいていたことを――。


* ◇ *

 ここは二年生の借物レースの集合地点。参加すべき生徒たちが意気揚々と集まっていた。

 拳悟が到着した時には、彼と同じく七組チームとして参加する志奈竹などの面々も揃っていた。その中にはもちろん、三度目の対決で争うことになる勝の顔もあった。

 左足の調子が優れないのだろう、勝の表情が明らかに険しい。拳悟に一ポイント後れを取っていることも、少なからずそれに影響しているのかも知れない。

 言葉すら交わすことなく、一定の距離を置く拳悟と勝の二人。そのギクシャクとした圧迫感に、志奈竹を始め同じチームの生徒たちは困惑の表情を浮かべるしかない。

 この借物レースのルールだが、ここで説明するまでもないだろう。

 あえて解説すると、コースの途中にある箱の中から用紙を一枚引いてそこに書かれている物を応援席にいる生徒から借用し、それを持ったままゴールするというもの。

 男のプライドをかけた熾烈な闘いを余儀なくされる拳悟と勝。このレースの出走順、先ほどの二人三脚とは反対にまずは勝が先陣を切って出走することになる。

 放送席のスピーカーから競技開始のアナウンスが高らかに鳴り響く。そして、スタート地点にスタンバイした選手たちがスターターピストルの轟音に弾かれて一斉にスタートした。

 七組チームの先鋒として幸先のいい滑り出しを見せる勝は、左足の痛みなど見向きもせず一等賞でゴールすることだけを見据えていた。

(ここで負けちまったら、次の四百メートル走を前に俺の敗北が決まってしまう。何としてでも、この勝負は負けるわけにはいかねー!)

 勝はクラス委員長であり、さらにチームリーダーでもある。七組チームの優勝という目標に向けて突き進まなければいけないが、今の彼にはライバルとの対決を制する野望以外考える余裕などなかった。

 スタート地点とゴール地点の中間にある段ボール箱。その箱の中には、選手たちの順位を左右するであろう借物レースの趣旨なる紙切れが入っている。

 どのチームよりも速く、誰よりも先にダンボール箱まで到着した勝。簡単な物であってくれと、彼はそう切願しながら箱の中に手を突っ込んだ。

 引っこ抜いた手の中にある用紙には、彼の祈りが通じたのか借物レースとしては難易度の低いアイテムが記載されていた。

(……女の子のリボン、か)

 勝はしばらく思案する。それから数秒後、頭の中に浮かんだ、しなやかな黒髪を結んだ紫色のリボン。彼のミラーグラス越しの視線は、その持ち主がいる七組チームへと向けられていた。

 その頃、紫のリボンを結った七組チームの由美は、勝のファンを自称するさやかと一緒に借物レースの行方をハラハラしながら見守っていた。

「スグルく~ん、絶対に勝ってよぉ! ケンゴくんになんか負けちゃダメなんだからねー!」

 拡声器のように両手を合わせて、さやかは恋焦がれる男子に熱烈な声援を送っていた。それを横で見つめていた由美は、彼女の気持ちを汲んではいてもどこか複雑な心情を覗かせていた。

「さやかちゃん、もう少し落ち着いてよ。スグルくんも勝ってほしいけど、チームとしてはケンゴさんにも勝ってもらわないと」

「う~ん、それはそうなんだけどさぁ~……」

 勝個人のことも応援したいし、彼が在籍する七組チームにも勝利してほしい。そう心から願うあまり、背筋のあちこちがむず痒くなるほどもどかしいさやかであった。

 頭を悩ませていた彼女の目に、ふと猪突猛進のごとく突っ走ってくる男子生徒の姿が飛び込んだ。

「あれれ?」

「どうしたの、さやかちゃん?」

「ユミさん。スグルくん、こっちに向かってるよね?」

 さやかが人差し指で示した一人の男子生徒。大リーグのエンブレムの付いたTシャツと太陽を反射するミラーグラス。それは紛れもなく、紫色のリボンを借りるために駆け寄ってくる勝であった。

 彼は息を切らせて到着するなり、由美の唖然としている顔の前に借りる物が書かれた用紙を突き出した。

「ユミちゃん、その髪を留めてるリボンを貸してくれ!」

「えっ、は、はい!」

 責められているような尖り声に、由美はおののきながら頷くしかなかった。

 慌てる手つきで紫色のリボンを解いていく由美。そうしている間にも勝の表情に苛立ちが浮き上がり、行動ばかりか気持ちまでも逸らせてしまう。

 彼女の手からリボンを奪い取った彼は、感謝の言葉も疎かにしてゴールに向けて走り出していった。そんな彼の走りっぷりは、左足に爆弾を抱えているとは思えないほどの勢いだ。

 彼の鬼気迫る必死の形相に、能天気なさやかも動揺を隠し切れない由美も呆然とした顔を突き合わせていた。

「スグルくん、ちょっと怖かったね」

「そうだね。スグルくん、もし勝ったら、ケンゴさんにどんな命令をするつもりなんだろう?」

 女子二人の不穏な噂の渦中にあった勝はというと、借用したリボンを握り締めてゴールまであと二十メートルほどの位置にいた。

 勝の目前には、一等賞を邪魔しようとする生徒がたった一人だけいる。どんなことがあっても負けられない彼は、このまま二等賞で終わるわけにはいかなかった。

(うぉぉ~、俺様のど根性を見せたるわぁ~!)

 ラスト十メートルで、一位と二位の男子二人は最後の力を振り絞る。

 熾烈な借物レースの結末がどうなったかというと、写真判定並みの、ほんの一センチほどのど根性の差で、首の皮一枚繋がる勝の一等賞が確定したのだった。

 興奮と歓喜にどっと沸き上がる七組の応援席。彼のクラスメイトたちは肩を叩き合って喜びを表現した。そこにはもちろん、由美とさやかの二人の歓声も含まれていた。

 この勢いに続けとばかりに、次に出走する拳悟へ向けられる七組チームの熱視線。彼のことを心から信頼する由美も、他のクラスメイトよりもはるかに熱い眼差しをスタートラインに送っていた。

「それでは、位置について――。よーい――」

『――パン!』

 スターターピストルの破裂音が空気を切り裂き、拳悟は見事なまでのスタートダッシュを切る。彼は天性なる脚力を発揮し、二位以下をどんどん突き放していった。

 七組チームの声援がやんややんやと鳴り響く最中、さやか一人だけはなぜか気難しそうな表情をしている。その真意こそ、拳悟をこのまま素直に応援してよいのか?という心の葛藤である。

(もしケンゴくんが一位だとスグルくんがまた追い越されちゃう。一位以下ならスグルくんと並ぶんだけど、そうなるとチームの成績にも響いちゃう……)

 ショートボブの髪を掻きむしり、ぶつぶつと独り言を呟いているさやか。

 頭を抱えている少女を不審に思い由美が声を掛けようとした途端、唐突にわかった!と叫んで、さやかは椅子から勢いよく立ち上がった。

 由美のことなどほったらかして、さやかは七組チームの生徒たちを掻き分けていくとレースの戦況が一望できる応援席の真ん前までやってきた。

 いったい何が始まるのか……?他校の女子高生の不可解な行動に、拓郎や勘造といった面々は怪訝そうな顔を向け合っている。

 お嬢様っぽい制服をなびかせて、さやかは大きく胸を張る。そして肘を曲げた両手を胸に宛がい、深呼吸するように思い切り息を吸い込んだ。それはまるで応援団がエールを送るかのようなポーズだ。

「フレェー、フレェー、ケーンゴォー!」

 何と、さやかは人目もはばからず借物レースで奮闘している拳悟に向かって応援メッセージを張り上げたのだ。

 彼女の勇ましい応援ぶりに七組チームの生徒たちは一瞬唖然とするも、その熱心な心意気に感化されて彼女と一緒になって声援を送ろうとした。ところが……。

「フレッ、フレッ、二位だぞケンゴ! フレッ、フレッ、二位だぞケンゴォー!」

 これには生徒一同、思わずズッコケそうになった。この応援メッセージが耳に届いた拳悟も例外ではなく、前のめりで転びそうになってしまった。

 彼が二位であれば勝とポイント的に引き分けとなり、さらにチームの成績もそれほど落とさなくて済む。これこそが、さやかが悩みに悩み抜いて出したたった一つの結論であった。

「おい、さやか~、そんな中途半端な応援、めちゃくちゃ恥ずかしいぞ~」

 あまりの無様さに拳悟が眉をしかめて制止を訴えても、さやかの透き通るような声援(?)は繰り返しグラウンドの上をこだましていた。

 七組チームの面々もただ呆然とするだけで、自己中心的で独りよがりの女子高校生を黙ったまま見つめることしかできない。

 二位になれコールをひたすら叫ぶ彼女。そこへ怒鳴り声を発する者がいる。それは派茶目茶高校でただ一人彼女に文句が言える、つい先程のレースで一位を手に入れたばかりの勝であった。

「さやか、やめろ。みっともねーだろうが!」

 クラス委員長の落雷のような怒声に、拓郎や由美を始めクラスメイトたちがビクッと震え上がった。

 矛先となったさやかはというと、どうして止めるの?と言わんばかりに唖然としている。彼女にしたら、勝のために声を張り上げたのだからそれも当然であろう。

 彼女の厚意すらも冷たくあしらう勝は、もう奥に引っ込んでいろと彼女のことをこっぴどく叱り付けた。

 しゅんとしてしまい、肩を落として応援席の奥へと戻っていく彼女。

 苛立ちを隠せない彼のところへやってくるのは、腑に落ちないのか険しい顔つきをしている拓郎だった。

「おい、スグル。怒鳴らなくてもいいじゃねーか。さやかは、おまえのためにやってたんだぜ」

「大きなお世話だ。俺は自分の応援は許せても他人を野次ることだけは許せねー、ただそれだけだ」

 不公平なく正々堂々と闘うことを尊重する、クラス委員長らしい立派な台詞を吐き勝は自分の席へと歩いていった。レース真っ最中のライバルのことなど見向きもせぬままに。

 その頃、拳悟は予想外のことにペースを乱されながらも、どうにか二番手をキープしたまま借物が書かれた紙の入ったダンボールまで到着した。

 ダンボールの中へすかさず手を突っ込んでみる。果たして、彼が引いた借物とはこれいかに……?

「……サングラスか。スグルに借りるわけにゃいかんとなると、他にアイツしかいないな」

 拳悟の見つめる先は、七組チームの一年生が集合する応援席。その群集の中にどっかりと腰を据える、丸型レンズのサングラスをかけた大柄の男子生徒。

 その大柄の男子はただいま借物レースなどそっちのけで、身長百五十センチほどの小柄な女子生徒と楽しいおしゃべりをしながら有意義な時間を過ごしていた。

 そこへ駆け付けてくる一人の青年、滝のような汗を飛ばしている拳悟は、大柄の男子を襲撃せんばかりに飛び掛かっていった。

「タンザブロー! グラサンを俺に貸してくれぇ~!」

「うわっ、ケンゴさんですか!?」

 まるで追いはぎのごとく、丹三郎のサングラスを奪い取ろうとする拳悟。

 まったく事情が飲み込めず、丹三郎はとにかく冷静になるようにと慌てて懇願した。すぐ隣にいる小柄の女子生徒もびっくりして、目を逡巡とさせながら戸惑いの表情を浮かべるしかない。

 拳悟から借物が書かれた用紙を見せてもらい、丹三郎はようやく事情を把握できて安堵の吐息をついた。

「そんなわけだ。まー、気楽な感じでグラサンを貸してくれよ」

「尊敬するケンゴさんの頼み、断るつもりはないんですが……」

 丹三郎は承諾の意思を示すも、どこか抵抗しているようにも見える。すぐに返してほしいという条件を付けて、彼は恐る恐る丸いサングラスに手を掛ける。

「……早く返してくれないと、みんなが怖がるから」

 サングラスを外すと、そこには――!

 まるで突き刺すような、何人たりとも寄せ付けないほどに鋭く尖った三白眼の眼光が露となった。

 戦慄の視線を目の当たりにし、知っていてもびっくりしてしまう拳悟。そして、すっかり怯えてしまい口元を手で押さえて涙ぐんでいる女子生徒。

「おまえのその目、いつ見てもすごいな。どうやったらそんなおっかない目つきになれるの?」

「いやあ、こればかりは遺伝なので……。俺の両親に聞いてみてください」

 ギラリと鋭い目で不敵に笑う丹三郎だが、彼の両親の職業は意外にも子供に好かれる幼稚園の保父母だったりする。

 無事にサングラスを借りることができた拳悟だったが、さやかの心のこもった妨害やペースを取り戻せなかったことが災いし、結局二等賞という不本意な順位でレースを終えるのだった。

 この時点で対戦成績は二勝二敗となり、勝負の行方は拳悟と勝の二人にとって最後の対決となる四百メートル競争で決着することになった。

 左足に捻挫を負い、全力疾走ができないハンデを背負う勝。これまでに六つの種目をこなし、気力も体力も限界を超えている拳悟。この二人に休息を与えぬままに四百メートル競走の集合アナウンスが鳴り響くのだった。

 彼ら二人の最後の対決、雌雄を決する闘いを直前に控えて、戦果の行方を危惧するあまり七組チームの生徒たちの表情はいつになく硬い。ただ一人だけ、勝の勝利を確信しているさやかを除いて。

「雨が降ろうと槍が降ろうと、スグルくんが絶対に勝つんだもーん」

 能天気に明るく振る舞うさやかに由美も笑って応えてはみせたものの、その心中は拳悟と勝という親友同士の争いに危機感を募らせていた。

 お互いがいがみ合い、不毛で無意味な闘いを終えた末、ギクシャクとした険悪な関係になってしまうのは絶対に避けなければいけない。

 彼女の頭の中に浮かんでいた、彼ら二人にとって最良とも言える決着、それは次の四百メートル競走で二人が同着で終わることだった。

(ケンゴさんとスグルくんが同じ順位なら、この対決も引き分けで終わるわ。そうなったら二人はこれ以上争う理由もなくなるはず)

 八チームの計八人が走破するレースだけに、同着になる可能性は確率的には低いだろう。それでも、由美はそう願わずにはいられなかった。いや、そう祈るしかなかったのだ。

 丁度その頃、四百メートル競走の集合地点では、集まった参加者たちに伝えるように放送席のスピーカーから出走の順番が発表されていた。

 七組チームを代表して参加する拳悟と勝の二人。出走する順番は拳悟が最終組で勝がその一つ前の組であった。

 参加者の中に紛れていた勝も、いざ決着の時を間近に控えて由美が望んでいる結末が脳裏を過ぎっていた。しかし彼の場合、彼女とは考えがまったく反対だった。

(もし、俺とケンゴが同着だとしたら引き分けになっちまう。それじゃあ、ここまで踏ん張った意味がねえ。こうなったら――)

 勝はどうにも白黒を付けようと、とんでもない方策を打ち出した。拳悟がまだいない今がチャンスとばかりに、それを実行するため最終組に出走する生徒たちのもとへと近づいていく。

「おい、おまえら全員でじゃんけんしろ」

「……は?」

 最終組の生徒たちは、勝からの唐突な命令に目を丸くする。何の脈略もなく、しかもぶしつけにじゃんけんしろと指示されてはそれも仕方がないところだ。

 とはいっても、本当なら三年生である彼の高圧的な態度と凄むような姿勢を目の前にしては、生徒たちもまごまごしながら片手でグーチョキパーを出すしかない。

 拳悟を除いた七人のじゃんけん大会が始まり、その中からたった一人勝ち上がった生徒が決まった。勝がそれを確認するなり、幸運(?)な勝利者をとっ掴まえて小声で耳打ちする。

「いいか、おまえは最終組の一つ前のレースに出るんだ。この俺と入れ替わるんだ、わかったな?」

「え? そんなこと、勝手に決めちゃっていいんですかね?」

「心配すんな。悪いようなマネはしねぇ。だから俺と入れ替わるんだ。いいな?」

 勝とその生徒は極秘裏な密約を交わした。この二人が出走順を入れ替えるということ、それはすなわち、拳悟と勝のラストの対決は否が応でも勝敗が決まることを意味する。

 そんな談合があったことなど露知らず、対決の相手である拳悟は少しばかり遅れて集合場所までやってきた。彼は到着して早々、不敵な微笑で待ち構えている勝に懐疑的な視線を向けていた。

「おまえ、何にやけてるんだ? ちょっと気持ち悪いぞ」

「へん、悪かったな。四百メートル競走でケリをつけるために、ちょっとばかし小細工をさせてもらったのさ」

 気味が悪いほどに口角を吊り上げる勝は、拳悟の顔に向かって人差し指一本を突き立てる。

「俺はおまえと同じ最終組を走る。これで俺とおまえは同着がなくなり引き分けもなくなった。どうだ、俺たちらしい青春ドラマっぽい展開になっただろう?」

「おまえ、やりたい放題だな。どこまで破天荒なんだよ」

 勝の強引とも言える手段に、拳悟はもう呆れ返るしかなかった。どうにでもしてくれ……。疲労度がかなりピークなのだろう、彼の優れない顔色に嘆かわしさがにわかに浮かび上がっていた。

 とはいえ、この作戦は勝にとっても決死の覚悟と言えなくもない。左足の負傷を押してまでも負けられない男の生き様が、彼の闘争心をここまで掻き立ててしまったのだろう。

 派茶目茶高校の体育祭において、最大でかつ最強とも言える壮絶なる徒競走のスタートが、彼ら二人の思惑が混沌と交じり合う中もうすぐそこまで迫っていた。

 拳悟と勝が最終組で争うことを知らない同チームの仲間たちは、対決の行方に戸惑いながらも、その相乗効果によるチーム順位の浮上を願わずにいられなかった。

 最下位を脱した七組チームは現在、首位にこそ追いつかないものの、後半戦の競技の成績次第では優勝を狙えない位置ではなかったからだ。

 まさに浮上の足掛かりとなる拳悟と勝が出走するレースを見守ろうと、拓郎に由美、そしてさやかといった面々がコースを見渡せる応援席の前列まで身を乗り出していた。

「よーし、スグルくんを応援するよー!」

「ははは、さやかはそればっかりだな。ちょっとはケンゴのことも応援してやってくれよ。ねぇ、ユミちゃん?」

「うん、そうですね。二人が一等賞なら痛み分けだし、チームの順位だってぐんと上がるから」

 ライバル二人の同着を心から期待する由美に、ささやかながらも安堵感のようなものが見え隠れしていた。

 二人が同着であれば、しこりも遺恨も残さずに事態が終結してくれるはず。彼女にしてみたら、拳悟も勝もかけがえのない親友であり応援すべきクラスメイトなのだ。

 それから数秒後のことだった。彼女の期待を一瞬で消し去ってしまう、驚愕の事実がクラスメイトから告げられることになる。

「タクさ~ん、大変ッスよ~!」

 観戦モードの拓郎たち三人のところに駆け寄るのは、モヒカンの髪の毛を揺らしている勘造であった。血相を変えたその表情からして事態の深刻さが垣間見れる。

 もう少し静かに呼び掛けろと、疎ましそうに勘造のことを一喝した拓郎。何かトラブルでもあったのか問い詰めてみると、勘造は堰を切ったようにしゃべり出す。

「今さっき、他のチームのヤツから聞いたんですけど、次の四百メートル競走でケンゴさんとスグルさん、同じ組で走るつもりらしいんですよ!」

「な、何だと――?」

 拓郎は絶句してしまい、顔つきもみるみると強張っていく。

 彼はどうやら感づいていたようだ。あのライバル二人が引き分けという結末のない、泥沼の死闘を演じようとしていることに……。

 それはもちろん、彼の傍にいる由美の耳にも信じられない事実として伝播していた。いや、信じたくない現実として心を打ち付けていたであろう。

 この驚くべき由々しき事態に、さやか一人だけはキョトンと呆けていた。顎を人差し指でつんつんと突きながら素っ頓狂な独り言を呟き始める。

「えー、スグルくんとケンゴくんが一緒に走るんだぁ。ということは、応援する機会が一回で済むから楽チンだね」

 天然とも言うべき空気の読めない発言のせいで、この場の空気が冷たくなるほどに白けてしまった。あえて付け加えるが、さやか本人に悪気があるわけではない。

 いずれにせよ、ここにいるクラスメイトのみならず七組チーム全員に暗雲が垂れ込める中、拳悟と勝の二人の最終決戦がいよいよ始まろうとしていた。

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