第七話― 体育祭シリーズ② オトコとオトコの熱き闘い(2)
校舎の出入口付近にある水飲み場。体育祭の喧騒から離れているここは、異様なほどに物静かでひっそりとした場所だ。
水道の蛇口をいっぱいに捻り、流れ出る水を思い切り顔に浴びせる拳悟。この凛とした冷たさが、疲れや火照った顔に心地良い爽快感を与えてくれた。
びしょ濡れの顔面を拭おうと、彼は濡れた手でポケットの中をまさぐる。しかし、ポケットの中には夢や希望どころかハンカチすらも入ってはいなかった。
こうなったら自然乾燥だ。そんなことを心に思いながら振り返ると、彼の視界の先には真っ白いフカフカのタオルを持った由美が立っていた。
「ユミちゃん。どうしてここに?」
「トイレに行ってこようと思って。ついでといったら失礼ですけど、ケンゴさんが心配になって追い掛けてきました」
照れ笑いを零した由美からタオルを手渡された拳悟。一瞬だけ躊躇ったものの、ありがとうとお礼をいいつつ苦笑しながらそれを受け取った。
先程の勝とのいざこざの後ということもあり、この二人の間には何ともいえない気まずい空気が漂っていた。しばらく押し黙っていた二人だが先に口を開いたのは控え目な彼女の方だった。
「ケンゴさんは、やっぱりお友達思いのいい人なんですね」
由美からの思ってもみない一言に、拳悟は顔を拭う手を休めて唖然としてしまう。どういうこと?とすぐさま問い返してみると、彼女は頬をほのかに赤らめてその意味を打ち明けてくれた。
「スグルくんを怒らせるようなことを言ったのは、落ち込んでたスグルくんを元気付けるためだったんですよね?」
拳悟が言い放ったいくつもの暴言、それは意図的なものであり無二の親友のことを貶めたり傷付けたりするものではない。由美の目にはそう映っていたようだ。
それを否定することも肯定することもなかった拳悟。仕返し半分、励まし半分という気持ちでの発言だったと強調する彼だが、ふて腐れている親友の姿を見たくなかったこともまた本音だったのかも知れない。
「ほら、アイツがイジけてるとさ、他の連中まで暗くなっちまうでしょ」
「そうですね。スグルくん、チームのみんなからの信頼も厚いですもんね」
クラス委員長であり、かつ七組チームのリーダー役を担う勝にチームを引っ張ってほしいという思いは、拳悟だけではなくここにいる由美も同じだったはずだ。
この二人から期待を寄せられていた勝――。彼が今どうしているかというと、椅子にどっかりと腰掛けたまま、まだ空虚感の中を彷徨っているようだった。
「スグル、次のムカデ競争、そろそろ集合だぞ。行けるか?」
「ああ、心配すんな。すぐに行く」
拓郎から呼び掛けられても、勝は受け答えはするもののどうにも気合が乗っていない様子だ。それを傍から見たら、パン食い競争の失格が尾を引いているようにしか見えないだろう。
七組の応援席の片隅で、同じクラスの主要のメンバーたちが一同に集まる。その理由はもちろん、へこんでいる勝についての耳打ちな協議である。
「参ったなぁ。やっぱりスグルさん、ぜんぜんノッテくれないっスね」
「ただでさえ、プライドが高いスグルさんだもん。引きずってるよね」
こめかみの辺りをポリポリと掻いて困惑した表情を浮かべている勘造。そして、彼の腰巾着である志奈竹も不安そうな表情で勝のことを見つめていた。
彼ら二人から相談されても、どうしてみようもない拓郎は落胆するように深い溜め息を漏らした。
「失格だけの問題じゃねーだろ。ケンゴからあれだけボロクソに言われたら、あれも仕方がねぇだろうな」
クラスメイトたちは慎重に協議を重ねた結果、この事態の一因を作った拳悟へ謝罪を要求することで大筋の話がまとまった。
彼らが意を決して立ち上がろうとした矢先、拳悟がポツンと一人きりで校舎の方から応援席まで帰ってくるところだった。どうやら一緒だった由美は校舎のトイレに行ってしまったらしい。
クラスの仲間たちの密談など知る由もない拳悟。いつの間にか彼は、拓郎を中心としたクラスメイトたちに取り囲まれてしまっていた。
「な、何だよ、おまえら。そんなに血相を変えて。何かトラブルでもあったのか?」
慌てふためいた拳悟に、そのトラブルの根源がおまえだと人差し指をビシッと突き立てる拓郎。何が何だかわからない拳悟は立ち竦んだまま顔をキョロキョロさせている。
「ケンゴ。今すぐにでもスグルに謝るんだ」
七組チームの士気を失わないためにも、勝にきちんと頭を下げるよう促した拓郎はいつになく真面目な顔つきだ。他の生徒たちもうんうんと頷いて拳悟に反省をするよう目線を鋭くしていた。
「おい、冗談じゃないぜ。なぜ俺が謝る必要がある? 何アホなことを言い出すんだ、おのれらは」
「アホなことじゃねーだろ? スグルがあーなっちまったのはすべておまえのせいなんだぞ」
クラスメイトたちからどんなに責められても、拳悟は憮然とした顔で詫びる仕草すら見せようとはしない。あれはほんの序の口だと、彼はまたしても勝の悪口をうだうだとしゃべくり始めた。
だらしない、みっともない、根性なし。そこに輪をかけるように甲斐性なしでどスケベだと、拳悟は嘲笑しながらそう付け加える始末だった。
『ドッスーン!』
――ここで突然、大きな木槌が拳悟の頭上に振り下ろされた。その凶行に及んだ人物こそ、勝のことをひたむきに慕っており怒りが頂点を極めていたさやかであった。
「スグルくんはそんな人じゃないもん!!」
頭に大きなたんこぶを作り、さらに額からも大量の血を滴らせている拳悟は、それでも強がって勝に謝罪することを頑固なまでに拒んでいた。ここまで来るともう意地の張り合いである。
拒否するよりもまず頭からの出血を止めるのが先だろうと、拓郎が冷や汗をかきながらそうツッコンでいたところ、その騒ぎ立つ輪の中にどこか冷たくて荒ぶる声がこだました。
「たとえ謝ったとしても、俺は許すつもりはない」
「――スグル!?」
唖然としている拓郎を押し退けて、勝は取り囲まれている拳悟のもとへと近寄っていく。彼はミラーグラスの奥にある視線を悠然と構えている拳悟に突き刺した。
「だがこのままじゃ、ウチのチームにも良くない。だからケンゴ、俺と一つ勝負をしねーか?」
「勝負? 何をおっぱじめる気だ?」
勝から申し出てきた勝負とはいったい――?拳悟はあからさまに怪訝そうな顔つきをしている。
事前に計画していたかのように、勝はその勝負の詳細について触れていく。
彼ら二人が一緒に出場する種目は残り四つ。ルールは至って単純で、その四種目の総合順位が高かった方が勝ちとなるというものだ。
さらに総合順位が高かった方、つまり勝利を収めた方が負けた方に対して一つだけ命令できることにする。無論、負けた方はその命令から逃れることはできない。
そのルールを黙って聞いていた拳悟は表情をより一層険しくしていた。そんな彼を差し置いて、こんなバカげた話はないと拓郎がこの勝負に異論を唱える。
「ちょっと待てよ、俺は反対だ! それはあまりにも不公平じゃないか」
拳悟は残り六種目で勝より二種目も多いし、しかも体力の消耗も著しく激しい。拓郎がそう主張するも、勝は冷め切った表情のままで自分も左足を挫いているハンデがあることを主張した。
それでも拓郎はどうにも納得できなかった。今は七組チームが最下位から浮上するために、こんなつまらない内輪揉めをしている時ではない。クラスメイトたちもみんな、言葉こそなかったが彼の意見と同意であった。
胸糞悪い煩わしさに、ブルブルと全身を震わせていた勝。彼はいきなり暴力という行為に出た。
「部外者は引っ込んでろっ!」
『バコッ――!』
骨に響くような轟音が響き渡り、勝の苛立ちがこもった鉄拳が拓郎の顔面に激しく打ち込まれた。
殴られた彼はうめき声を上げて、後方へと勢いよく吹っ飛ばされる。砂ぼこりに巻かれながら彼は背中からグラウンド上に倒れてしまった。
目を疑うようなショッキングな光景に、水を打ったように静まり返った七組の応援席。ここにいる誰もが言葉を失って、緊迫のあまり表情が強張りその場で足を竦ませることしかできない。
拓郎はすぐに腫れぼったい顔を上げるなり、拳を握り締めた勝のことを睨み付ける。そんな拓郎の眼光すら打ち消すほど、勝は鬼のような気迫を放ち誰も寄せ付けない威圧感を滲み出していた。
「タクロウ。すまねーが、これは俺とヤツ二人だけの問題だ。口を挟まんでくれ」
拳悟はただ一人怖気づく様子もなく、暴挙という行動に出た勝のことを真剣な目で見据えていた。売られた勝負は買ってこそなんぼ。それが男らしさにこだわる彼の誇り高き信念でもあったのだ。
「その勝負、おまえの望み通りに乗ってやるよ」
「おし、おまえなら、そう言ってくれると思ったぜ」
口角を吊り上げて不敵に笑っている勝。そんな彼のただならぬ不気味さに、手練れで名を通した拳悟でも身の毛がよだつ思いに駆られていた。
同じクラスメイトであり同じチーム同士。その男子二人が袂を分かち合い、たった一つの命令のために火花を散らす。プライドをかけた熾烈なる闘いが、体育祭というイベントの中で幕を開けようとしていた。
* ◇ *
「へぇ~、あたしがトイレで休憩してた時に、そーんなことがあったんだぁ」
「関心してる場合じゃないよ、アサミさん。もう本当に大変だったんだから」
校舎のトイレで用事を済ませて、応援席へと戻る途中の麻未と由美の二人。彼女たちの話題といったら、つい先程の拳悟と勝が大喧嘩しそうになったあの出来事のことだった。
「スグルくんもケンちゃんも懲りないわね~。喧嘩するほど仲が良いとはよく言ったもんだけど、あの二人の場合いっつも冗談じゃ済まないんだよ」
麻未は呆れ果てた台詞と一緒に溜め息を吐いた。付き合いも長いだけに、彼らのつまらない小競り合いを幾度となく眺めてきたのだろう。
平和主義者の由美は、クラスメイト同士の乱闘騒ぎに困惑しながらも今は内心ホッとしていた。拳悟がまだ冷静だったこともあり、勝との取っ組み合いの喧嘩を回避することができたからだ。
そんな女子二人が七組チームの応援席まで近づくと、そこからでも異変と気付くぐらい周囲が慌しく騒然としていた。
不穏な佇まいを不思議に思い、彼女たちはコクリと首を捻ってざわついている集団のもとまで足を速めた。その集団の中には他校の女子学生のさやかや、クラスメイトの勘造といった顔見知りの姿もあった。
「さやかちゃん。みんなで集まってどうかしたの?」
「あ、ユミさん!」
由美から声を掛けられて青ざめた表情で振り返るさやか。彼女からつぶさに語られた事実を目の当たりにして、由美は背筋が凍りつくような衝撃を受けた。
拳悟と勝が同じ種目で対決し、勝った方が負けた方へ一つだけ命令できる――。それは聞こえのよいライバル同士の競い合いと言えなくもないが、由美の胸中はさざ波が押し寄せるような動揺に苛まれていた。
拓郎が必死になって訴えていたことと同じく、クラスメイト同士がいがみ合って闘うことなどあまりにも空虚でそれこそ不和なしこりを残すだけではないかと。
無益な男同士の内紛を知り、麻未も小さく舌打ちをして不快感を示さんばかりに眉根をギュッと寄せていた。
「……で、肝心のバカ二人はどこにいるの?」
凄みの入った貫禄のある麻未の声にシャキッと姿勢を正して即座に答えたのは、彼女と同じクラスで同じ歳のはずの勘造だった。
「あ、ケンゴさんとスグルさんは、ムカデ競争に出場するためにグラウンドの集合場所へ向かいましたです、はい!」
麻未や由美が遠目に見つめる先には、ただいま競争の真っ只中のムカデ競争で出走待ちをしているクラスメイトたちの勇姿があった。
拳悟と勝が対決する最初の種目となるムカデ競争。一組五人でグループを構成し、紐で繋がれた足をリズムよく動かして、いかに転ばずにゴールできるかを競うものである。
同じチーム同士ゆえ一緒に出走することができない二人。まず先行で出走するのは拓郎をメンバーに従えた勝の方で、その次に志奈竹をメンバーに従えた拳悟が出走する順番となっていた。
勝と同じグループに所属する拓郎は、勝利にこだわる観点からもグループの先頭を走るリーダーの左足のことを危惧していた。
「スグル。何度も聞くけど左足は本当に大丈夫なのか?」
「心配すんなって何度も言わせるな。俺の足はそんなに柔じゃねぇよ」
捻挫という負傷を引きずったまま、拳悟とのプライドをかけた闘いに身を投じる勝。取り繕っているその笑顔は、苦痛をはぐらかしているように見えなくもない。
拓郎も当然ながらある程度事情を察してはいたものの、この意固地な男に今更何を言っても無駄だろうと思い必要以上に口を挟むことはなかった。
グループ全員がしっかりと足に紐を結いスタート前の臨戦態勢を整えた。その中のリーダーである勝は、次の出走に控えていた拳悟のことをチラッと一瞥した。
一瞬だけ目が合うライバル二人。お互い言葉を交わすこともなく、しのぎを削る勝負の火蓋が今まさに切られようとしていた。
「よし、おまえら。俺たちが狙うのは一着だけだ。死に物狂いで走れよ!」
勝はグループのメンバーたちに気合を注入した。一着しかない、それ以外では拳悟に勝つことはできない。彼の言葉の裏側には、負けられない焦燥感が見え隠れしている。
毅然としている拳悟だけではなく、応援席にいるクラスメイトたちが固唾を飲んで見守る中、スターターピストルの破裂音に背中を押されて勝たちグループは勢いよくスタートした。
勝に拓郎、そして他のメンバーたちは息をピッタリ合わせて順調な滑り出しを見せる。その抜群のコンビネーションで彼らはどんどん順位を上げていった。
もうまもなく一位へ躍り出ようとした矢先、グループの中でただ一人、鈍痛に表情を歪めるリーダーの姿があった。
(クソッ、左足が――! だが、ケンゴには絶対に負けられねぇ!)
勝は痛みを一切表に出さずに、踏ん張る両足をリズミカルに動かし続ける。後ろにいるメンバーたちも、その闘志に応えるように無我夢中で彼にしがみ付いていった。
勝利の女神はいったいどのグループに微笑むのか――?それは順当通り、いやお約束と言うべきか、最初にゴールの白いテープを切ったグループこそ勝が陣頭指揮を取った七組チームであった。
「よっしゃあ! 一等賞いただきだぜ!」
悲願の一等賞をもぎ取り、勝は雄たけびとともにガッツポーズを決め込んだ。協力してくれた仲間たちを労い、価値ある勝利の喜びを分かち合っていた。
拳悟との対決で一歩リードした格好となった勝は、誇らしげな顔をしながら拓郎を連れ立って次に出走する拳悟の陣中見舞いにやってきた。
「どうだ、ケンゴ。俺はしっかりと結果を出したぞ。おまえもせいぜい、がんばるこったな」
「ここで勝ったからって調子に乗るな。俺も一位だったら、この勝負は引き分けってわけだ」
勝の勝ち誇った顔など眼中なしに、拳悟は一緒に走る志奈竹たちとともにスタート地点に立つ。彼はいつになく厳しい表情で最後までしっかり付いてこいと、命令口調でグループのメンバーたちの気持ちを鼓舞した。
スターターを担当する生徒が、ピストルの銃口を高々と上空に突き立てる。
出走する選手たちの鼓動が早まる中、ピストルから鼓膜を震わせる高音が鳴り響いた。
それと同時に、もの凄いスピードでスタートダッシュを切る拳悟。それはあまりにも凄まじく、後ろにいる志奈竹たちを置いていってしまうぐらい猛烈であった。
――それはもう壮絶すら凌ぐ、びっくり仰天の光景であった。
拳悟は馬車を引く馬のごとく、砂煙を巻き上げながらメンバーたち全員を引きずりながら走っていたのだ。
お尻を地面に擦り付けている志奈竹の泣き叫ぶような悲鳴。それを耳にした拳悟は、ようやくそのとんでもない異常事態に気付いた。
「うわっ、おまえら、何してんだよ!? どうりで重かったわけだ」
「ひどいですよ、ケンゴさん。お尻が擦り剥けちゃいましたよ~」
地べたで絡まっているメンバーたちに、ケンゴは照れ笑いしながら詫びの台詞を口にした。彼はすぐさま一等賞を目指そうとメンバーたちに急いで立ち上がるよう要求する。
その心配はいりませんと、かつらを直しながら呆れた声で呟く志奈竹。それはなぜかというと……。
「……敵なんてもういませんよ。スタート地点で振り乱されたボクたちにみんな引きずり込まれちゃったから」
拳悟たちグループの走破してきたわだちには、巻き添えを食ってしまった砂ぼこりにまみれた他のチームの亡骸が横たわっていた。こうなってしまうと、どのチームも戦闘不能といっても過言ではないだろう。
「あらら……。コイツらまで引っ張っちゃったんだ。俺ってもしかしてハイパー高校生?」
対戦相手をある意味本当に蹴落とすことで、拳悟もこの種目で念願の一等賞をゲットすることができた。それを遠巻きに見ていた勝と拓郎は、勝利に浮かれている彼に祝福というよりも驚異の眼差しを送るしかなかった。
「敵まで引っ張り込んでまったく気付かなかったとは。やっぱりアイツ、バカが付くぐらい只者じゃねーな」
「しかも後ろのメンバーまで引きずって走るなんてな。ケンゴのヤツ、まさか体力全快してんじゃないの?」
勝と拳悟の対決の第一ラウンド、このムカデ競争はお互いが同着となり引き分けとなった。とはいえ、二人の勝負はまだまだ始まったばかりである。
最下位をぶっちぎっていた七組チームだったが、この二人の奮闘のおかげでにわかにやる気と活気が戻りつつあった。
果たして、七組チームは優勝できるのだろうか?そして、勝と拳悟の勝負の行方とは?その結末はもちろん神のみぞ知るといったところだ。