第七話― 体育祭シリーズ② オトコとオトコの熱き闘い(1)
『これよりー、二年男子による、ソフトボール投げを行いまーす』
放送席のスピーカー越しに、ウグイス嬢ばりの透き通る声が鳴り響いた。それは、拳悟にとって二つ目の種目となるソフトボール投げの開始を知らせるものだ。
彼がのんびりと順番待ちしている頃、グラウンド上のすべての人たちの度肝を抜く、高校生のレベルを超越したハイパワーな投てきを誇る男子生徒がいた。
その男子生徒こと須太郎は、インディアンのごとく雄たけびを上げて、自分にとってピンポン球ぐらいの大きさのボールを目一杯放り投げた。
上空で大きくアーチを描きグラウンドに自然落下したそのボールの着地距離に、どのチームの応援席も驚きのあまりどよめきとざわめきの声に包まれる。
「ただいまの記録、百二十六メートル四十五です」
記録係の発表により、応援席の至るところから津波が押し寄せるかのような大きな歓声が巻き起こった。正直なところ、ソフトボールを百メートル以上放ることそのものがもう人間業とは言い難い。
「……まあ、こんなところだろう」
須太郎は右腕を軽く回しながら余裕に満ちた笑みを浮かべている。彼の記録を超える者など、この学校内のみならず人間界にすら存在しないかも知れない。
投てきの順番を次に控える拳悟は、超人的な記録を打ち出したスーパーマンに崇めるような目線を送って助言を仰ごうとした。
「しかし、すごいな。どうやったらあんなに飛ばせるの? ぜひともアドバイスを」
「……容易いことだ。手榴弾を投げる要領でやってみろ」
「いや、あのさ。俺、軍隊でもテロリストでもないんだけど?」
たいした助言も得られないままに、いよいよ拳悟の投てきの順番がやってきた。
彼はおもむろに、野球同好会からくすねてきた野球帽とグローブを取り出して、気合を注入しながらそれらをちゃっかりと身に着ける。
「……それは何のマネだ?」
「フッフッフ。この俺の凄まじい波動のオーラをまとった黄金の投球を、その目にしっかりと焼き付けるんだな」
わけがわからんと首を捻る須太郎が見据える中、七組チームの応援席からの声援を背中に受けて、今まさに、拳悟の右腕が振り下ろされようとしていた。
「いくぜっ。目指すは百五十メートルじゃー!」
威勢のいい声を張り上げて、拳悟は握り締めたソフトボールを天高く放り投げる。ボールは大きな弧を描いて、それはもうはるか遠くまで飛んでいく――はずだったが。
拳悟の右手からすっぽ抜けたボールは、思った以上の飛行時間もないままに地上へポトリと落下してしまう。
「ただいまの記録、二メートル十五センチです」
記録係の発表と同時に、応援席の生徒たちが椅子から転げ落ちてしまうほどにズッコけた。普段から感情が豊かではない須太郎ですらも、とんでもない記録を樹立した拳悟に冷静なツッコミを入れずにはいられなかった。
「……ケンゴ。おまえは百メートル競走だけではなく、この種目までも茶番劇で終わらせる気か?」
「いや、そういうわけじゃねーんだけど、さっきのバトルの疲労のせいか急に力が抜けちまってさ」
自らの情けなさを嘆きつつ、ヘナヘナとグラウンドの上にへたれ込んでしまう拳悟であった。
あえて触れるまでもなかったが、このソフトボール投げ、栄えある最高記録を打ち立てた須太郎よりも、汚点と言うべき最低記録を打ち出した拳悟の方が誰よりも目立つという辱めを受ける結末となってしまった。
応援してくれたみんなに合わす顔がなく、すごすごと七組の応援席まで帰還してきた拳悟。こんな哀れで惨めな思い、彼にとってはこれが本日二回目のこと。
当然ながらそんな彼に待っていたものとは、これ見よがしにネチネチと罵ってくる勝の叱責の声であった。
「バッカヤロウ、七組チームは最下位じゃねーか。どれも、それも、これも、あれも、みーんなテメェのせいだぞ!」
「言ってくれるなぁ、おい。そういうおまえだって、百メートル競走失格になったじゃねーか」
勝や拓郎がやかましく怒鳴っている最中、いろいろな意味で勇姿を見せた拳悟のことを擁護する男女二人組がいた。その二人はこの場を静めようと、今にも喧嘩に発展しそうなハチャメチャトリオの仲裁に入ってくる。
「スグルー、そうカッカすんなって。ケンゴも悪気があったわけじゃないんだろうし」
「そうそう、楽しい体育祭も、まだ始まったばっかりだしね~」
この二人組の正体はハチャメチャトリオを窘めたり咎めたりもできる、彼らと同年代の三年七組の生徒たちだった。ちなみに付け足すが、ハチャメチャトリオの三人は留年しているため本来は三年生である。
同年代とはいえ先輩二人から宥められてしまった勝だが、一向におとなしくなる様子もなく、余計な口出しをするなとばかりに眉間にしわを寄せてすぐさま反論した。
「うるせー、おめーたちはだまってろや。だいたいコイツはな、ちょっと悪ふざけが過ぎるんだよ」
勝は三年生にまで当り散らし、どうにも収まりがつかなくなっていた。これ以上、険悪な雰囲気にしてはマズいだろうとクラスメイトの勘造がモヒカンの髪を揺らしながら割って入ってきた。
「スグルさん、怒ってる場合じゃないっスよ。もうすぐパン食い競争の集合時間ですよ」
次なる競技種目は、勝にとって二つ目の種目となるパン食い競争だった。ルールはその名の通り、コースの途中に吊るされたアンパンを口にくわえたままいかに早くゴールできるかを競うもの。
勘造だけではなく親友である拓郎や三年生の先輩二人、さらには槍玉に挙げられた拳悟からも急かされてしまった勝は、納得がいかない舌打ちをしながらも肩で風を切ってグラウンドの集合場所へと与太っていった。
「ねーねー、いくら何でもひどくない? アイツのあの横暴さ、もうヤクザ顔負けだと思わん?」
拳悟は勝の背中を指差しながら、自分勝手かつ傍若無人な振る舞いをしたクラス委員長を非難した。同情を求める彼であったが、味方らしい味方はどうやらここにはいなかったようだ。
「ケンゴ。はっきり言っておく。今回ばかりはおまえがみんな悪い」
冷たく言い放つ拓郎に続いて、三年生二人も呆れたような顔で拳悟のことを諌める。
「ケンゴー。あんまりスグルを怒らせるなよ。アイツ、責任感だけは人一倍あるからさ、黙ってられなかったんだろうな」
「そうだよ~、ケンちゃん。スグルくんだって、あなたのこと、それなりに期待してるんだと思うよ」
チームメイトからの小言もわからなくもないが、四面楚歌とも言うべきこの状況に、拳悟は耳の痛い思いからか頬を膨らませて憮然とするしかなかった。
『これよりー、二年男子による、パン食い競争を行いまーす』
放送席のスピーカーから、パン食い競争のスタートを告げるアナウンスがグラウンド内にこだました。
ウグイス嬢の声に弾かれるように、出走する選手たちが一同にスタート地点へと集合していく。その群集の中には、七組チームの勝機の命運を背負った勝の姿もあった。
出走の時を今か今かと待ちわびる最中、勝は一緒に出走する顔馴染みの生徒を目撃する。その人物とは、二年四組に在籍するあの暴力少女の流子のお目付け役でもあるサン坊だった。
「おお、サン坊。おまえもこれに出るのか」
「ええ。お互いにがんばりましょう」
沸き立つグラウンド上では、アンパンをくわえたり落としたり、まるで小学生のような駆けっこが繰り広げられていた。そしていよいよ、七組チームの勝と四組チームのサン坊が競い合う順番がやってきた。
『――パン!』
スターターピストルの轟音が空気を切り裂くなり、勝とサン坊の二人は勢いのままにスタートダッシュを切る。二人とも他の選手に遅れを取らない好調な滑り出しだった。
一位と二位を争う勝とサン坊は、お互いの足の速さを称えながらもパンがぶらぶらと吊るされたコースの中間地点へと差し掛かる。そこへ一番乗りに辿り着いたのは僅差で先頭に立っていた勝の方であった。
「よっしゃあ! アンパンだろうが、カレーパンだろうが、この俺様がいただくぜぇ!」
勝は大声を張り上げながら、顎を外さんばかりに大きく口を開いた。ところがあまりにも気合を入れ過ぎたせいか、彼はその言葉通りガキッという鈍い音とともに本当に顎を外してしまった。
「グォォォ、ア、アゴがぁ……」
「よし! 今がチャンスだっ!」
サン坊はこの好機を逃すまいと、涙目になって苦悶している勝との差を一気に詰めようとした。そして、吊るされたアンパンをくわえようとあんぐりと口を開ける。
『チョッキン――』
それは一瞬の出来事であった。目の前にあったアンパンがフッと視界から消えて、口を開けっ放しのままで硬直してしまうサン坊。
彼が恐る恐る顔を下へ向けると、そこには、切断された糸と一緒に落下したアンパンが。さらに顔を横へ向けてみると、そこには、ハサミをチョキチョキと動かしている顎を外したままの勝が立っていた。
「な、何をしてくれるんだよ!」
「うるへー。オエはえったい、いしいをとうんあーい」
顎が外れているため、勝は何を言っているのかさっぱりわからない。ちなみに訳してみると、”うるせー。俺は絶対、一位を取るんだーい”となる。
先に顎を直してください!とサン坊から怒鳴られてしまった彼は、それもそうだなと納得し両手を器用に動かしながらガッチンと顎の関節を元に戻した。
「とにかく、俺は一位を取るんだ。だから邪魔すんないっ!」
「俺だって一位を狙ってるんです。そっちこそ邪魔しないで!」
これしきのことでへこたれるわけにはいかない。サン坊は気を取り直して、地面に落ちているアンパンを手で拾おうとした。だがその直後、それを制止しようとする勝の怒号が轟いた。
「まだ邪魔する気!? もういい加減にしてくださいよ!」
あからさまに不快感を示すサン坊に、ニヤリと不敵な笑みを向けている勝。彼から言わせると、これは邪魔ではなく先輩からの優しい忠告なのだという。
それはなぜかというと、これから勝が語るべくこのパン食い競争の細かいルールにその答えがあったようだ。
「この競技はな、パンに手を触れた時点で失格なんだよ。それでもいいんなら遠慮なく手で拾いな。ニヒヒヒ」
勝の姑息かつ卑劣な妨害行為に、サン坊ははらわたが煮えくり返るぐらい憤慨する。彼は後輩であることも忘れて、自己中心的な先輩の振る舞いを厳しく糾弾した。
「あんたって人はとんでもなく最悪な人だな! いずれ、天罰が下るからね!」
「へっへっへ、何とでも言いやがれ。勝つためにはな、それなりな手段を選ばなきゃいけねーんだよ」
いざ勝負事になると、厚顔無恥を絵に描いたような人格となる勝。それを物語るように、彼はサン坊のアンパンだけではなく他の選手たちのアンパンまでハサミで切り落としていたのだ。
「ひ、ひどい! いくら何でも、これはむご過ぎるよ!」
怒り心頭のサン坊を嘲笑しながら、勝は自分のアンパンを臆面もなく口にくわえ込んだ。そして、あばよと捨て台詞を一つ残して彼はゴールを目指してのんびりと駆け出していった。
あくどい非情な先輩のことを小刻みに体を震わせながら睨み付けるサン坊。彼は一位という称号よりも、勝に一泡吹かせることで頭がいっぱいだった。
「完全にアッタマ来たぁ! 絶対にスグルさんには負けられねー!」
サン坊はその場にひざまずき落ちているアンパンにかじりついた。パンを食い千切らんばかりに口に挟み込むと、先頭を走る勝の背中を死に物狂いで猛追していく。
鬼気迫る彼の殺気を背後に感じて、さすがの勝も動揺をごまかし切れない様子だった。
(やべぇ。サン坊のヤツ、マジになってやがる。ちょっと挑発し過ぎちまったかな)
今頃反省しても時すでに遅し。サン坊はもの凄い勢いで勝のもとに迫ってきていた。脱落させられた生徒たちの憎しみが、ここまで彼をスピードアップさせていたのかも知れない。
――ここで勝にとってまさかのアクシデントが起こった。
彼は背後にばかり気を取られていたせいか、足をもたつかせてしまいグキッと左足を捻ってしまったのだ。それはまさに、サン坊が言っていた通り天罰が下った瞬間でもあった。
バランスを大きく崩してしまい、滑り込むようにして地面に倒れていく勝。そんな無様な先輩のことをお先に~と嘲笑って、にやけ顔で追い抜いていくサン坊。
それは予想だにしなかったピンチ――。七組の応援席から不穏などよめきが巻き起こる。クラスメイトの由美も、勝の追っかけであるさやかも口元を両手で塞いでショックを隠し切れなかった。
(グッ、いってぇ――!)
挫いた左足の激痛に表情を歪める勝。それでも彼はうつ伏せていた体を気合とともに起こして、諦めることのできない勝利への執念を燃やしていた。
「これぐらいのことで、負けるわけにはいかねーんだよ!」
勝は口から投げ出したアンパンを手で拾い上げるなり、負傷した左足のことなどお構いもなしに、一位という賞のためにサン坊のことを追走していく。
お互いの意地とプライドがぶつかり合うパン食い競争。盛り上がっていく熾烈な争いに、応援席からの歓声も次第に大きくなっていった。
「スグルくーん、がんばってぇぇ!」
勝のことを慕うさやかの掠れるような黄色い声が鳴り響く。それに触発されて、七組チームの声援が止め処なく飛んでいった。
はやし立てる声で沸き立つグラウンドの中、競い合う勝とサン坊の距離はゴールに近づくほどにどんどん狭まっていった。
(いっくぞぉぉ、抜いたるわぁぁ!)
(そ、そんなバカな! まさか、追いつけるなんて!)
果たして、白いテープを一番に切った選手はどちらか――?
グラウンドにいる生徒たちが皆、緊張の息を呑み込んで見守るこの壮絶なる競争の結末とは、左足のハンデをものともしない、まさに気迫のこもった勝の逆転勝利であった。
ゴールの瞬間、七組チームが怒涛のごとく一斉に盛り上がる。クラス委員長の健闘を称賛する声はそれはもう凄まじく、二位に甘んじた四組チームの声援すらもかき消してしまうほどだ。
由美とさやかの二人も、勝の大活躍を祝福しながらお互いの手を取り合って大喜びしていた。
「やったね、スグルくん、一位だよー」
「うんうん! やっぱ、スグルくんはすっごい、カッコいい!」
七組チームの誰もが勝の奇跡の逆転勝利に酔いしれていたが、その一方のゴール付近では、一等賞のリボンを掲げるはずの彼に詰め寄ってくるヤクザのような強面をした一人の教師がいた。
「スグル、残念ながら、おめーは失格だ」
ぶしつけに言い放たれた突然の宣告に、勝は納得できずに教師の反之宮に突っ掛かっていく。
「お、おい、そりゃ、どういうことだ!?」
「おまえ転んだ時、落としたパンを手で拾い上げただろ? それがルール違反なのは、もちろん知っているよな?」
「あっ――!」
その時、勝のおぼろげな記憶の中に、焦っていたあまりにパンを手で掴んでいたシーンが蘇ってきた。
そのルールを逆手にとって、他の選手たちを蹴落としてまで勝利にこだわった勝。それがきっかけで失格となった彼の心境は、言葉では言い表せないぐらいの失望だったであろう。
* ◇ *
捻挫してしまった左足をかばいながら、サン坊の肩を借りて七組チームの応援席まで帰ってきた勝。もちろん、彼の表情は空しさを映すほどに意気消沈としていた。
彼が失格になったことを知る由もないさやか。無邪気なままに褒め称えながら彼を出迎えたが、そのはしゃぎっぷりがむしろ彼の焦燥感をさらに刺激してしまうのだった。
彼女のことなど目も暮れず、彼は哀愁を漂わせながら自分の席へ戻っていく。そのただならぬ雰囲気に、彼女は戸惑いを浮かべて唖然とするしかなかった。
「ちょっと、スグルくん、どうしたっていうの!?」
動揺を隠し切れないさやかに声を掛けるのは、勝と名勝負を演じた挙句、一等賞の赤いリボンを胸に飾ることになったサン坊だ。
「スグルさん、失格になってしまったんだよ」
「えっ、失格――?」
落ちたパンを手で触れるというルール違反により、不本意にも失格という結果に終わった勝。そのせいで、繰り上げで自分が一位になってしまったとサン坊は困惑めいた表情でそう説明した。
「そ、そんな……」
さやかのやり切れない視線の先では、勝のことを心配そうに迎え入れた拓郎たちクラスメイトが集まっていた。彼らが心配していたのはレース中に転倒したことによる足首の具合であった。
「おい、スグル。おまえ、足引きずってるけど大丈夫なのか?」
「ああ、たいしたことねーよ。ちょっと挫いただけだ」
勝は口角を吊り上げて余裕を見せていたが、ミラーグラスで隠した目には苦痛の色が映っていた。彼は仲間たちを不安にさせまいと無理やり強がっていたのだろう。
『ただいまのレースの順位について、訂正のお知らせがあります』
放送席のスピーカーから流れてきた事務的なメッセージ。訂正というキーワードに、七組の応援席全体が異様な緊張感に包まれる。
アナウンスされたその内容とは、先ほどサン坊の口から語られた内容そのものだった。事の真相を知らない応援席から、不穏などよめきが起こったことは言うまでもない。
「こりゃ、どういうことなんだよ、スグル!?」
上擦った声を上げる拓郎のみならず、クラスメイトや三年生たちにも囲まれてしまう勝。それでも彼は動じる様子も見せず椅子の背もたれにどっかりと腰を据えたままだ。
「どうもこうも、放送された通り、俺が失格になっただけのことさ」
「おいおい、そういうこと臆面もなく言えることかよ?」
拓郎から何があったのか問われても、勝はしばらく放っておいてくれと頑なに口を閉ざし続けていた。あれだけカッコつけた挙句の失格だっただけに、彼の心情は愚かさに満ち溢れていたに違いない。
その時、たった一人黄昏ていた勝のことをどうにもけなしてやりたくなる人物がいた。ついさっきのソフトボール投げの結果で、彼から散々罵声を浴びせられた拳悟であった。
それなりの疲労感があったのだろう、彼は重たそうなまぶたをパチパチさせてフラフラしながら勝の傍へと歩み寄ってくる。
「へっへっへ。大見得切っていた割りには、二種目連続で失格とはずいぶんとおめでたい結末だったじゃねーの?」
しゃしゃり出てきた嫌みったらしい拳悟に、勝は内心憤りを覚えながらも悔しさを堪えるようにグッと唇を噛み締めた。
「うるせぇ、何とでも言いやがれ。どうせ俺はろくに一位も取れない情けない男だ」
すっかり拗ねてしまっている勝。言い返してこないことをいいことに、拳悟はこれ見よがしに嘲笑しながらあげつらう。だらしない、みっともない、根性なし。その悪口は留まるところを知らない。
これには、さすがのクラス委員長も我慢の限界。ワナワナと全身を身震いさせて、歯ぎしりしながら怒りを露にする。冗談では済まないであろう勝の形相に、周囲にいる仲間たちは恐怖のあまり戦慄が走った。
「お、おい、ケンゴ! おまえ、いくら何でも言い過ぎだぞっ」
「言い過ぎ? 冗談じゃねーよ。すべてホントのことだろうが」
拓郎の忠告など聞く耳持たず、拳悟は謝る様子も反省する仕草も見せない。むしろ、勝に対する悪口をエスカレートさせる始末であった。
「てめぇ、このやろぉ! もういっぺん言ってみろ!」
勝はついに堪忍袋の緒が切れてしまい、痛めた左足などお構いなしに拳悟のもとに突っ掛かっていこうとする。ところが、いきり立つ彼を踏み止まらせる甲高い声が轟いた。
その声の正体とは、拳悟と勝がいざこざを起こすことを何よりも恐れていた彼らと同じクラスの由美だった。
「スグルくん、お願いだから喧嘩なんかしないで」
由美の切なる訴えに続いて仲裁に入ってきたのは、勝のことを誰よりも心配していたさやかだ。
「そうだよ、スグルくん。とにかく落ち着いてよ!」
女子二人から宥められても、一度点いた怒りの炎は消えることはない。もともと怒りっぽい性格なだけに、勝は握り締めた拳を震わせて今にも殴り掛からんばかりの様相だ。
まさに一触即発の事態――。仲間たちが鼓動をバクバクさせる中でも、拳悟だけはおもしろがって挑発を止めようとはしなかった。
「おいおい、喧嘩はオススメしないぜ。どうせ、この俺が勝つんだからな」
「何だと、このやろぉぉー! ぶっ飛ばしてやるぅ!」
「スグル、ダメだ、やめろって!」
耳をつんざく怒鳴り声とともに拳悟に襲い掛かろうとする勝。それを羽交い絞めにして必死になって制止させようとする拓郎。七組チームの応援席のど真ん中で、ハチャメチャトリオのドタバタ劇が今にも始まろうとしていた。
拳悟の度重なる挑発的な言動に、由美とさやかの二人も黙ってはいられなかった。ヘラヘラ笑っている彼に向けて、彼女たちは眉を吊り上げてそれぞれの思いを口にする。
「ひどいです、ケンゴさん。スグルくんはお友達なのに、あんまりです」
「ケンゴくんがそんな人だなんて思わなかった。もうバカ、バカ、バカ!」
女子二人が何を言っても、呆れるように首を横に振ってまったく自省する様子がない拳悟。
「二人とも、いらない同情はしない方がいいよ。コイツはアホだから、それだけ調子に乗っちまうからね」
その非礼に値する態度が勝の怒りにますます拍車をかけてしまう。
彼はついに拓郎の腕を振り解くと、まるでエサに食らいつく猛獣のごとく拳悟に向かって尖った牙を剥き出してきた。
勝の憎しみがこもった渾身の一撃を身を翻してさらりとかわす拳悟。次なるパンチ攻撃さえも、彼は余裕の笑みを浮かべて手のひらでガッチリと受け止めて見せた。
「何だよ、そんなに元気があるんじゃねーか」
「ど、どういう意味だ!?」
「俺に向かってくる闘志があるんなら、二回の失格ぐらいでいじけてんじゃねーよ、このアホが」
それは親友に対する慰めだったのか?それとも励ましだったのか?ガッツを次の種目まで残しておけと、拳悟は疲れた表情から一変して若者らしくさわやかに笑った。
この事態がよく飲み込めず、シーンと静まり返ってしまう七組チームの生徒たち。みんながみんな固唾を飲んで見守る中、拳悟は顔でも洗ってくるとたった一人で校舎の方へと歩いていく。
勝は拍子抜けしてしまったのか、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。さやかから慰むような声を掛けられても、彼はそれに応えることなく険しい表情のまま自分の座席へと戻っていった。
校舎の方へ消えていく拳悟の後ろ姿を戸惑いながらもじっと見つめていた由美。しばらく考え込んでいた彼女だったが、何かを悟ったのか小さくなっていく彼の背中を追い掛けていくのだった。