漏れ出す縁の下
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
ん、体重がまた増えたかな。
ここ数ヶ月、食事から運動まで、筋肉をつける方向で気をつかっているからね。体重増に関しては、ありがたく思うようになっているよ。
人生の時期によっては、身体の数値って重みが違ってくるよねえ。昔は毎年の身体測定で、右肩上がりに伸びていく数値を手放しでよろこんだものだけど、今は血圧とか体脂肪率とか、並べば並ぶほど、頭を悩ませるものが多くなる。良いものも悪いものも、小さい頃とは比べ物にならないほど、いっぱいだ。
そうやって長く生きてきた、己の身体。支えてくれているものには、常日頃、感謝をするべきなんじゃないかと、私は感じている。
食べ物から得るエネルギーや趣味、人間関係ばかりじゃないよ。普段は存在すら感知し得ない要素こそ、大事なんじゃないかと思うんだ。
それに関する話、少し聞いてみないかい?
私はこの世に生を受けた時、未熟児だった。聞いたところによると、出産前には母子ともに危険な状況で、父は苦渋の選択を迫られる恐れがあることを、お医者さんから説明されたらしい。
幸い、心配されていたような事態には陥らず、母も私も無事、この世に留まることができた。お医者様が診た限りでも、異状は発見されなかったとのことだ。
その経緯あってか、両親は私によく構ったくれたんだが、幼稚園にあがる前の話。
両親と旅行に出た私は、とある海岸へ来ていた。砂浜がない、岩壁の海岸線を持つ場所で、観光客は岩壁の上を歩き、つり橋を渡っていったことを覚えている。
つり橋の両端は崖になっている。安全のための柵はあったものの、縁から一メートル足らずしかなくて、多くの人が柵越しに、崖の下をのぞき込んで感嘆の声をあげていたよ。
父や母もがけ下を眺めていたんだが、まだ背丈の低い私は、父に肩車をしてもらって、ようやく景色を目にした……はずだったんだ。
私が父の肩から見つめる、崖の下。そこは真っ黒い空間だった。
一瞬、自分が目をつむってしまったのかと思ったが、しっかりと双眸は見開いている。この時私は、着ている服がはためくほどの海風にさらされていたのだが、眼下に広がる黒い景色は、いささかもぶれる様子を見せない。大きい旗や、それに類するものが、私の視界を覆い隠さんと、広がっているわけではなさそうだ。
まだ幼い私は、てっきり他の皆にも同じ景色が見えていると思い、肩車から降ろしてもらった後も、両親に特に言及することはなかった。
私が下ろされた後、父はそのつり橋下の写真を撮り、現像へ出したんだ。
だが、そこに映っていたのは、青い肌のところどころに白い筋とあぶくを浮かべ、入江深くまで入り込んでいくさま。私が目にした黒いものの断片は、こそりとものぞいていない。
ようやく私はあの時の異状を知り、両親に話をしたんだが、まともに取り合ってもらえなかったよ。「はじめてのつり橋だもんね〜。怖かったんだよね〜」と的外れな心配までされる。
あまりに両親が認めないものだから、私も、「あれが見えたのは、たまたまなんだ」と自分に言い聞かせるようになっちゃったよ。
けれど、幼稚園にあがった後のお遊戯会の時。
私たちの組は演劇だった。そして、私は最後にひとりで舞台端に立ち、モノローグを語って締める役を仰せつかっていたんだ。劇は滞りなく進み、私の出番がやって来る。
幼稚園ということで、立派な照明器具はなく、昼間のことでもある。客席はせいぜい遮光カーテンに囲まれてできる暗さ。うすぼんやりと、パイプ椅子に座る観客の顔を見ることもできた。
私は肝が据わっているらしく、人前ではあまり緊張しない。今まで練習してきたように、よどみなく、しかし重々しい足取りで、舞台端へと立った。
あとは十秒程のセリフを、情感込めて訴えかける。それが私の役目だったが、客席へ視線を向けた時、思わず息をのんでしまったよ。
視界の下部。舞台側から見て、手前側に座っている観客の顔が、消えてしまった。代わりに、そこにいるのはあの崖下をのぞいた時と同じ、目を閉じたかと思う暗闇だった。
その上、グラスに入った水に、新たにつぎ足されていくかのごとく、暗いふちはじわじわとそのかさを増し、一列、また一列と私の視界に映る観客たちを、せりあがる漆黒の身体の向こうへ隠していく。
――もたもたしていたら、何も見えなくされてしまう。
私は鼓動が早まるままに、練習の時の倍近い早さで、一息にセリフを言い切り、さっさと袖へと引き返す。
拍手はあったものの、みんなからは「どうして、練習通りに読まなかったの? あっちの方がずっと良かったのに」と、首を傾げられたけど、帰る直前になって、私は先生に呼び止められたんだ。
「あの時、何が君には見えていた?」
二人きりになった教室で、先生が開口一番にたずねてきたことは、それだった。
両親でさえも、してこなかった質問。もしかしたら、この先生は、何か知っているかもしれない。私はつり橋下で見た光景も含めて、先生に話したところ、「それは、『縁の下の力持ち』だよ」と答えてくれた。
「言葉で聞いたことはあるかな。普段は目立たないところにいて、明るいところにいる人を支えてくれる存在のことだ。彼らがいることで、私たちは平和に暮らすことができているんだよ。
けれども縁の下に居続けるのは、非常に辛いことだ。何を成してもほめられることなく、それでいて上にいる者たちは、光に当たるのが当然のごとく振る舞う。それが溜まって漏れてしまうんだ。
そして、特別な人であるほど、長く生きる人であるほど、支えるものは多くなる。先生はお母さんのお腹から出る時、へその緒がのどに巻き付いてしまったらしくてね。下手すると窒息して、そのままぽっくりいくところだった。こうして生き延びてはいるが、一度、ひどい目に遭ったんだよ」
私は先生の話に背筋を凍らせながらも、時が経つにつれて、その冷たさを忘れて行ってしまった。それがあの事態につながったんじゃないか、と思う。
高校にあがる頃、私は近所に新しくできた靴屋さんを見て回っていた。長年履いていた靴の底がすり減ってしまってね、いいかげん取り換えようと思ったのさ。
ビルに挟まれるように立つ、小さな空き地に店が構えられていたためか、ところ狭しと靴たちが陳列してあって、手を伸ばしたら靴に当たるという、いかにも雑多なジャングルのごとき作りだったよ。
幸い、客は少なくて、先生はじっくりと物色。ようやくお眼鏡にかなうものを確保し、部屋の隅に寄ると、靴を履き替えにかかる。バナナの房が垂れさがるように、ひもを帽子掛けに引っ掛けて靴が垂れさがるこの密林では、腰を下ろす丸椅子を見つけるのも、簡単じゃない。
新品ならではの、ごわごわした感触がかかとをなでるが、それも履き慣れるまでの辛抱だろう。私はとんとんとつま先を床について、足の詰まり具合を確認。試しに何歩か歩いてみようと思ったんだ。
ところが一歩目で、靴のすそが引っ張られて、満足に前へ踏み出せなかった。
靴を履く時に巻き込んだか、と思わず足元に視線を落として、ぎょっとしたんだ。
あの黒い景色だ。今までとは違い、間近。私の足元から円状に広がっている。
先ほどまで、汚れが目立ちにくい、ザクロ色のじゅうたんが敷いてあったはずなのに、それが完全に塗りつぶされてしまっている。そして私の足先は、すでにその中へ溶け込んでおり、先が見えなかった。
抜かないと。そう思って力を入れたとたん、平べったい黒円は、一気に湧き上がって、私のもも、腰、胸、顔にまで至る。
そう思った時には、周りの景色が変わっていた。彼らはさかむけのように、下から上へべろりと色がはぎ取られ、セピア色へと脱皮を遂げたんだ。
色だけを失った、先ほどまでと同じ空間。そして当の私は、黒円に取り込まれた、足を含めた身体はあったものの、不可視の風船にはさまれたように動けない。
風船とたとえたのは、刻一刻と、私の身体にかかる圧が、増していくからだ。
まったく抵抗ができないわけじゃなく、私が暴れるのを面白がるようで、すべてを受け止めながら、一向に横への移動を許そうとしない。
無慈悲に力を跳ね返す壁にはできない、寛容で残酷な仕打ちが、膨らみ続ける風船に挟まれている印象を覚えたからだ。
私は、物理的に肩身が狭い思いをしつつも、同じような体験をした先生の話を思い出す。
先生曰く、ここは縁の下なのだ。世界を認識しながらも、大きく動かずに支えることを求められ、それ以外は必要とされない、「褪せた」世界だと。
――横には進めない。縦を行け。ひたすらに上り続けるんだ。
私は両手両足を広げる。かの見えない風船は、先生の突っ張りを深く深く受け入れながらも、落とそうとしない。ゴムのような弾力を持つ壁を、私は両手両足開きのままで、上っていく。
店の天井に、頭がついた。しかし、がっしりとした木組みの外見に反し、その感触はやはりゴムのように、ぬるりとしている。
――そこにぶつかったら、遠慮なくぶち破れ。躊躇するなよ。
私は構わずに突っ込んだ。
ぐぐっと、頭を押さえつけるやわさを受けつつ、それを頭で突いて突いて……パスン、と音がした。
とたんに顔へ向かって、生暖かい風が吹きつける。寒い雪道を歩いて、ようやく転がり込んだ一軒の食事店。その戸を開けた瞬間のような、閉じ込めたぬくもりの、弾けだった。
気づくと、私は件の靴屋に立ち尽くしていた。
すっかり色を取り戻し、店員さんが店の中を歩いているのが見える。
助かった、と思って歩き出そうとすると、また靴が引っかかる感触。けれども今度は引き込まれる感じでなく、そのまますっぽ抜けた。
私が視線を落とした先には、目をつけた例の靴がある。ただそいつは、履き口と靴ひもを除いて、そのほとんどを、木の床の中に溶け込むように、うずめてしまっていたんだ。