蠢く影
そこは住宅街の端。人通りが少なく、取り壊しが決まっているか、人の住んでいない廃墟紛いの家が散見される、そんな場所。普段は人々の視界に入っていながら、無意識のうちになかったものとして記憶から消えていく。
そんな廃墟の一室に、本来ならあるはずのない人の気配があった。
暗がりの中で尚美しく輝く銀髪に、冷たい瞳。早朝に勇輔たちの家へと強襲をしかけた魔術師だ。彼女は何かを探すように目を細くしながら部屋の中を歩き、その途中でふと足を止めた。
気配が、背中に現れた。
まるで彼女にもたれかかるように、あるいは後ろから華奢な体を抱きしめるように、その気配はすぐ近くにあった。
首筋に生暖かい感触と呼気当たり、到底人のものとは思えない長大な舌が彼女の眼前へと伸びた。
それでも彼女は微動だにしない。その存在が何か知りながら、あるいは知っているからこそ動かずにいた。
影の中で舌はゆっくりと蠢き女の頬を一舐めすると、中央から縦に裂けた。
そうして舌が歪な口を作り上げると、そこから耳ざわりな声が鳴った。
「んー、無様にも負けた戦士が、何のために戻ってきたのですか?」
「今回の戦いはあくまで敵の戦力を図るためのものです。その報告のために戻りました」
「それはそれは。物は言いようですね」
舌は小馬鹿にするように小さく揺れた。
女はそれを無機質な瞳で見つつ、端的に言葉を続けた。
「敵の戦力は想定していた守護者だけでなく、もう一人存在しました。全身鎧を着た、守護者と同格の戦士です。後は‥‥戦闘時にはいなくなっていましたが、一般人の男が一人。現状、私一人で彼ら二人を突破し、鍵を殺すのは難しい」
「…ふーむ、おかしいですねぇ。この辺りに守護者がいるという情報はなかったはずですが。あるいは鍵を殺されたはぐれですかねぇ」
そこで舌は喉奥から引きつくような笑い声をあげた。
「あなたと同じように」
女はそれに対して硬い声で答えた。
「まだユネアは死んでいません」
「同じことでしょう? あれは私の手の中にある。こうしてあなたが私の人形になった今、状況はより悪いと言ってもいいかもしれませんねぇ」
舌は再び笑い声を上げた。
女とて分かっている。死んでいないというだけで、自分が置かれた状況は既に八方塞がりの詰みなのだと。
それでも諦めるわけにはいかない。泥水をすすり背神者に身をやつし、それでも手放せないものが彼女にはあった。
「分かりました。ではあなたは予定通り銃の守護者を殺してください。私が鎧の人間を殺しましょう」
「…承知しました」
「いいですねぇ。もしまた鍵が手に入れば、新しい戦力が玩具になるかもしれない」
舌は笑う。心底楽しそうに、人間の脆さと愚かさをあざ笑うように。
「さあ頑張ってください、人類の守護者、清らかなる銀槍の乙女。あなたの妹が健やかに眠っていられるように。あなたもあの可愛い顔を異形にはしたくないでしょう?」
その言葉に女は無言で奥歯を砕かんばかりに嚙み締めた。
混の称号を与えられた魔族は、そんな様子すらも心底楽しそうに見つめていた。
人形に拒否権はない。
◇ ◇ ◇
俺たちが家に帰ると部屋は元の綺麗な形に戻っていた。窓の破片一つ落ちておらず、更には吹き飛んで割れていたはずの食器すら綺麗に復元されていた。流石に料理までは再現されていなかったが、戦闘の痕跡はきれいに消え去っていた。
すごいな日本の魔術師って。これ魔術だよね?
正直、敷金やら弁償費用やら頭を過っていたので大変助かった。
ちなみに加賀見さんには既に状況を説明してある。守護者が敵に回っているという情報は守護者全体のイメージダウンに繋がるので、説明しようか迷ったが、後でバレれば余計に信用を損なうためきちんと説明した。
ただ俺たちも状況を完全に把握しているわけではないので、余計な憶測は入れずに事実だけを伝えた。
加賀見さんも暫くは学校や家の付近に魔術師を配置してくれると言っていたし、奇襲を受ける可能性は減っただろう。
その日の夜も警戒していたが何も起こらず、そして翌日である。
「じゃ、学校行くぞリーシャ」
「分かりましたユースケさん」
敵がいようがなんだろうが、学生の本分は勉強である。勇者から大学生にジョブチェンジした僕の戦場は教室であり、なんなら魔族と戦うより分の状況は劣勢なのだ。
留年なんてことになったら、マザーがマオーになってしまう。第一次山本大戦の勃発だ。
「では、私は学校周辺の警戒に」
カナミは俺たちとは別行動になった。基本的にリーシャの護衛は俺がいれば事足りるため、自由に動ける立場についてもらったのだ。
本来なら学校に行っている場合ではないのかもしれない。
しかし俺たちの居場所が割れていたということは、大学も割れているということだろう。
人質、攪乱、大学を狙う理由は十分にある。
そんなわけで俺たちは学校に来たわけだが、
「えー、それ故に浮雲という作品は近代小説の始まりとして――」
いつも通りの教授の催眠術、隣の席で堂々と居眠りをしている松田。
そして明らかに注目されている俺たち。
スマホやら他教科の課題やら、ごく少数の真面目に授業を受けている生徒たち。しかしどの生徒たちも明らかに集中しきれていない。
ちらちらと隠し切れない視線の数々が俺――というよりリーシャに向けられている。
そりゃ至って普通の文系大学に人間離れした美少女とかいう矛盾の権化みたいなものが座っていたら、気になって仕方ないだろう。普段から会っている松田や総司はともかく、他の学生、特に男子は気が気じゃないはずだ。
しかし当の本人はそんな視線を気にも留めず、楽しそうに教授の講義を聞いている。
恐らく今最も真面目に授業を受けているのがリーシャだ。
まさか近代文学の教授も異世界人が文学の歴史を聞いているとは思うまい。
とはいえ敵意の籠った視線はないし、これは諦めるしかないだろう。俺だって突然講義にパツキン美少女が来たらガン見する自信がある。
リーシャは放っておいて、これから先どうするか。
襲ってきているのは混の魔族と、槍使いの守護者。
混の称号持ちと戦ったことはないが、カナミの話では搦め手が得意そうな相手だ。
初手の襲撃を守護者が来たことからも、直接的な戦闘力はそこまで高くないのかもしれない。守護者を前面において魔族は後衛に徹するか、あるいは搦め手で崩してから守護者を突貫させてくるか。
どうしても待ちの姿勢にならざるを得ないのが辛いところだ。
そんなことを考えていたら、クイクイと袖を引かれた。
「ユースケさんユースケさん」
「ん、どうした」
「このお話はなんのお話をされているんでしょうか?」
「ああ、うんそうだよね」
真面目に話を聞いていても、分かるかどうかは別の問題ですよね。
「簡単に言えば、文学が今の形になったのはどうしてかっていう話だよ。…たぶん」
「文学ですか?」
リーシャは少し考える素振りを見せてから首を傾げた。
「ユースケさんは作家を目指してらっしゃるのでしょうか? あ、もしかして司書でしょうか?」
「それは難しい問題だな」
「難しいのですか?」
心底不思議そうに聞いてくる天然不思議聖女。
アステリスでは基本的に自分の職に使う技術や知識しか学ばない。様々な学問を広く学び、自分の選択肢を増やすなんていう贅沢な学習が許されるのは、ほんの一握りの人間だけだ。
モラトリアムなんて言葉もあるはずがない。
「そうだな、あえて言えばこうしている間に俺たちは人生について考えてるんだよ」
「人生について…」
リーシャの視線がスッと俺の隣で爆睡している松田に移った。その幸せそうな寝顔は人生の思索にふける哲学者とは程遠い。
こいつ本当情操教育に悪いわー。小さい子には見せてはいけない類の妖怪だよ。
俺はそっと松田の頭を反対に向けた。
「そういえば、リーシャは夢とかあるのか?」
その疑問は大して何も考えずに口から突いて出た。
リーシャはきょとんとした顔をした後、当たり前のように言った。
「私は無事神魔大戦が終われば、また教会に戻りますよ」
「あー、まあ…そうだよな」
「はい、だからこうして学校に来られるのもとっても楽しいです」
キラキラした笑顔に俺はなんとも曖昧な笑みを浮かべて応えた。
そうだ。これでもリーシャは聖女。その権威と重要性は時に一国の王すら超える。
生涯を教会の中で祈りに捧げる神の愛し子。
俺と一緒に神魔大戦で戦っていた奇特な聖女もいたが、あれは聖女の中でも特別な人間で、特別な状況だったからに他ならない。
破天荒で型破りなあいつでさえ、街に入れば必ず教会に立ち寄っていた。
敬虔なリーシャの将来なんて、考えるまでもなかった。
「…そっか」
人の将来にとやかく口を出す権利なんて俺にはない。しかもアステリスの人間相手なら猶更だ。
明るく笑うリーシャとは対照的に胸の内はなんとも曇っていて、それを吐き出すようにため息が漏れた。
お久しぶりです。
大変お待たせして申し訳ありませんでした。
またぼちぼち再開していきたいと思います。
よろしければお付き合いいただければ幸いです。




