扉の先で
◇ ◇ ◇
月子が扉を潜った瞬間、世界が色を失った。自分という感覚さえ曖昧になる道は、どれだけ続くのか想像もつかなかった。
しかしその恐怖は、地面に足が触れた瞬間には、夢のように霧消して、余韻すら掴むことはできなくなった。
そこは広く石畳の広がる場所だった。砕けた柱が至る所に転がり壁があったと思われる場所は軒並み崩壊している。そして空と、壁の奥には黒が広がっていた。ゆらりと光のヴェールを揺らす黒い空間は、宇宙のようにも見えた。
同時に左右に感じる人の気配。
魔術に覚醒した今、視線を向けなくても誰がそこに立っているのか分かった。
ネスト・アンガイズ。
イリアル。
エリス・フィルン・セントライズ。
コウガルゥ・エフィトーナ。
四人だ。
何度数えても、どれだけ魔力探知を広げても、四人だ。
心のどこかで、「まだ来ていないだけだ」と天使が甘い言葉を囁く。
そんなことあるはずがないと、分かっているのに。
これまでの月子であれば、左右に視線を振り、いない者を数え、涙と共に膝を着いていただろう。
しかしそうはならなかった。
そうすることはできなかった。
許されなかったと、言うべきかもしれない。
何故なら月子の視線の先には、敵がいたからだ。
触れたものを何もかも飲み込んでしまいそうな黒のマントを羽織り、その上をオーロラのような髪が流れ落ちる。
端正な顔立ちは女性にも男性にも、幼くも老いているようにも見えた。
目が悲しそうに伏せられた。
「――」
その美しさに危機感を覚えた。
この世の者ではないと判断した。
これは敵だ。
自分たちが戦うべき新世界の主なのだと、そう直感した。
魔力の紫電が体内で迸り、意識が槍となる。
しかし彼女が駆け出すよりも先に、声を発する者たちがいた。
「――ユリアス‼」
「魔王ぉぉおおお‼」
左右で爆発が起きたのかと錯覚した。
それだけの勢いで、エリスとコウガルゥの魔力が膨れ上がったのだ。
ユリアス。魔王。
その言葉で思い起こされるのは、勇輔の語った話だ。
異世界アステリスで勇輔が戦った魔族の王、ユリアス・ローデスト。
彼がそうだと言うのだろうか。もう、勇輔に殺されたはずなのに、どうしてここに。
様々な疑念が頭を過るが、月子はそれを無視する。
相手が誰であれ、自分がすべきことは変わらない。
ユリアスは伏せていた目を上げ、すっと口元に笑みを浮かべた。
「やあエリス・フィルン・セントライズ、コウガルゥ・エフィトーナ。それに初めましてになるね、イリアル、ネスト・アンガイズ」
まるで旧友に語り掛けるかのような、落ち着いた声色。
空間ごと押し潰さんばかりの魔力の圧が叩きつけられているにもかかわらず、陽だまりを歩くか如く、その立ち姿は軽やかだ。
「エリスとコウガルゥは裁定を潜り抜けてくるだろうと思っていたけれど、まさか導書たちが誰一人来ないとは思わなかった。もはや祷りのできる立場ではないけれど、少しだけ時間を取らせてもらったよ」
「お前の感傷など知ったことではないわ」
ピシリとレイピアが鋭い音を立ててユリアスへ向けられた。
「ユースケはどこにいるの?」
その問いは全員のものだった。
勇輔は間違いなく自分たちよりも先にここに来ていたはずだ。
しかし、いくら魔力探知を広げても、彼の魔力が見つからない。
「ああ――」
ユリアスはひどく不思議そうな顔で月子たちを見た。
何故気付かないのかと、その目が雄弁に語っていた。
「ユースケなら、ここにいるよ」
ここ。
それが意味するところを考え、まさかという思いでユリアスの足元を見た。
人が倒れていた。
ゾッと血の気が引き、体温が急激に低下する。
どうして気付かなかった。
どうして誰も気付かなった。
彼は最初からそこにいた。
月子たちがこの空間に入った瞬間から、ユリアスの足元に横たわっていたのだ。
しかし圧倒的なユリアスの存在感が、全ての視線を奪ってしまった。
否、それはまやかしだ。
倒れた勇輔からは、魔力を感じない。
あの計り知れない密度を持った魔力が、微塵も、感じられない。
あらゆる生命は魔力を持つ。
どれだけ巧みに魔力を隠しても、生きている限り微弱な魔力が常に発せられる。
それがないのだ。
そこに思考が至った瞬間、月子も、エリスも、コウガルゥも、同じ行動を取った。
「「「ッ――‼」」」
三人は示し合わせたようにユリアスの眼前へと踏み込み、槍と剣と、拳を振るった。
一発ではない。
温度の違う海流が混じり合うように、互いの隙を補うようにして攻撃が渦を巻いた。
それでも。
――手応えが、ない⁉
攻撃を止めた月子たちが奥を見ると、そこには平然とした様子でユリアスが立っていた。
傷一つなく、移動すらしていないような体で、こちらを見ていた。
「ユースケは君たちよりも少し前にここに来た。強かったよ、昔よりも遥かにね」
「勇輔‼」
ユリアスの言葉を無視して月子は勇輔を見た。
そこにいるのは紛れもなく山本勇輔だった。鎧はなく、生身の状態で目を閉じている。
全身から血を流し、多くの部分が裂け、折れ、砕けていた。
何よりも、胸が動いていない。
呼吸を、していない。
「――⁉」
月子は即座に右手を勇輔の胸に起き、電流を流した。外部からの電流で強引に心臓を、身体の各部を動かして血を巡らせる。
同時に左手で頭を押さえると、その唇に自分の口を付けた。
胸が膨らむほどに、空気を入れる。
心臓マッサージと人工呼吸。魔術的な回復手段を持たない月子が取れる手段は、これだけだった。
そこに上から黄金の蜜が降ってきた。
エリスの回復魔術だ。
それでも勇輔は目を開けなかった。もしも月子が治療を止めれば、その瞬間この身体は本当に物言わぬ骸になるだろう。
あるいは、既に――。
「月子さん、ユースケはあなたに任せるわ」
「悪いな。そういう回復系は専門外だ」
涙を流しながら治療を続ける月子に声が降ってきた。
魔王と戦った四英雄の二人。
エリスとコウガルゥは倒れた勇輔に一瞬目をくれただけで、すぐにユリアスの方を見た。
それが今の自分たちがすべきことだと、判断した。
「代わりにあいつの頭、殴り飛ばしてくるからよ」
「同感ね。串刺しにして森に埋めれば、蘇って来られないかしら」
動揺がないはずがない。
新世界の主が死んだはずのユリアス・ローデストであるということ。
勇輔が倒れていたこと。
しかしそれら全てを飲み下し、英雄たちは魔術を構える。
「君たちはどうしてこの戦いが起きたのか、聞かないのかい?」
「話したがりか? 興味ねーよ」
「幾百幾千の理由があったとして、この剣が止まる理由にはならないわ」
「そうか、流石だね」
ユリアスはそう言うと両手を緩く持ち上げた。
「それなら、勇輔と同じ運命を辿ることになる」
――世界が、緊張した。
ただ両手を持ち上げるという所作だけで、この場だけではなく、遥か広大なこの空間そのものが、硬直した。
魔力の発露とか、覇気とか、そういうものではない。
まるで嵐の前の空を、津波の前の海を見てしまったような、得体の知れない悪寒。
自分たちは何を相手にしようとしているのか、月子が身を震わせる前で、エリスとコウガルゥはほぼ同時に言い放った。
「ユースケの運命を」
「お前が勝手に決めるなよ」
『願い届く王庭』。
『暴駆』。
暗天の見守る下。朽ちた魔王と、二人の英雄が激突した。
平素よりご愛読ありがとうございます。秋道通です。
次回以降は、準備が整い次第投稿したいと思います。今しばらくお時間をいただくかと思いますが、お待ちいただければ幸いです。
どうか皆様と最後の時を迎えられることを願っております。




