白対灰 二
◇ ◇ ◇
白く染まった書庫は全ての音が樹木に吸い込まれたようで、動く者は女王として君臨するエリス・フィルン・セントライズだけだった。
「早く出てきなさい。お互い、時間は掛けたくはないでしょう」
樹海の隙間から灰をこぼしながらバイズ・オーネットが現れた。
服の至る所から血が滲み、零れた赤が灰の上にまだら模様を作った。
エリスが使ったのは沁霊術式。この結果は当然と言えた。
しかしお互いに卓越した魔術師であるからこそ、二人には別の結果が見えていた。
エリスの沁霊術式は魔術として完成されている。
バイズのそれよりも遥かに高いレベルでだ。
これが四英雄かとバイズは内心で舌を巻く。
サーノルド帝国には彼女を超える魔術師はいないだろう。
「見事だ、エリス・フィルン・セントライズ」
「そう、ありがとう」
言葉と同時に振るわれた茨を、バイズは灰の盾で防ぐ。しかし茨はそれを易々と貫き、バイズの肩と足を貫通した。
「軍がなければ沁霊術式は使えないのかしら。どちらでも結果は変わらないけど」
バイズの『灰の将』は自軍を強化するのに特化した魔術だ。一人で戦うタイプではない。
今の状態で沁霊術式を発動したとしても、結果は目に見えている。
完成された『願い届く王庭』が相手では、灰の武器で突破は不可能。
バイズとエリスの間には、それだけの差があった。
それでもバイズは退くわけにはいかない。
戦士としての矜持ではない。エリスと戦うのは、もっと別の理由だ。
「確かに、貴様の魔術は美しく強固だ。私が真っ当に挑んだところで、勝ち目はない」
「では将軍らしく、潔く負けを認めてはどうかしら。私が用があるのは、あなたではないから」
「そういうわけにはいかない。エリス・フィルン・セントライズ、貴様にだけは、負けを認めるわけにはいかないのだ」
エリスは訝し気に目を細めた。
確かにエリスの師であるグレイブとバイズは長年の仇敵だ。敵視されても仕方ないとは思うが、バイズの目の中で濁った感情は、それだけでは説明がつかない。
バイズは口を笑みの形に歪めた。
エリスが考えていることが手に取るように分かった。
語ったところで理解はされないだろう。
バイズ自身、この思いが身勝手なものであると自覚している。
エリス・フィルン・セントライズは呪いだ。
◇ ◇ ◇
バイズの主であるフィン・カナティーリャ・サーノルドが生まれた時に与えられた本当の名は、フィオナだった。
『見てバイズ、可愛いでしょう。私の愛しい愛しい天使よ』
そう言って、あの女性はフィオナを抱いて笑っていた。真っ赤な髪はいつもきれいに梳かされ、よく自作の子守唄を歌っていた。
フィオナの母親は平民の出だった。裕福な資産家の娘として生まれ、劇場の歌手として活躍していたところを、皇帝に見初められたのである。
見初められたというのは、あまりに甘やかな表現だ。
実際には一夜を弄ばれ、たまたま妊娠した。それだけだ。
彼女は劇場のマドンナであり、一部の貴族からも人気が高かった。醜聞が悪くなるのを嫌った皇帝が、形ばかりに城に住まわせたのである。
広い部屋に贅沢な食事、侍女たちに護衛の騎士。形ばかりとはいえ、彼女には多くの物が与えられた。
彼女は聡明だった。その幸運をよく理解し、出しゃばらず、フィオナと共に静かに生活していた。
フィオナは母の愛を一身に受け、よく笑う天真爛漫な娘に成長した。
彼女たちの護衛はバイズに任された仕事の一つであった。平民の生まれ故に、ちょうどよかろうと、嘲笑と共に押し付けられた仕事だ。
しかしバイズは二人の幸せそうな顔を見るのが好きだった。
自分が守っている国が平和であると、象徴しているようだから。
『バイズ、バイズ、外の話が聞きたいわ! 今日は忙しくないわよね!』
可憐なドレスに身を包み、母とは似ても似つかない金色の髪を揺らすフィオナは、誰の目にも愛らしかった。
話をせがむフィオナに、バイズはよく街や、国の外に広がる自然の話をした。
何より彼女は、『勇者』の話を聞きたがった。
母が寝物語に聞かせた英雄譚が、フィオナには眩しく見えたのだ。
バイズの話を興味津々で聞くフィオナと、それを見守るあの人。
それは夢のように穏やかな時間だった。
そう、あの時が来るまでは。
『――あの娘が、空間を操る魔術を手にしたというのは本当か』
皇帝が近衛兵を連れてバイズの下を訪れた。
誰が情報を漏らしたのかは分からない。それが誰の、どんな琴線に触れたのかも。
大事なのは、その事実が皇帝を動かす程の代物であったということだ。
その時のバイズは知る由もない。
フィオナの外見と魔術が、教会が秘する聖女の特徴に当てはまっていたのだ。本来教会だけが知るはずの情報を、サーノルド帝国は知っていた。
そして聖女の存在は、圧倒的な権威を持つ教会に対して、ジョーカーになりうる。
皇帝はあの女性を連れて行った。
新たな聖女候補を産む可能性がある彼女が、それからどんな扱いを受けたのか、バイズはしたくもない予想をした。
一目でいいから会わせて欲しいと何度も嘆願し、数年が経った時、彼に渡されたのは一つの木箱だった。
木箱の中に収められていたのは、一房の赤い髪。
彼はそれを一人で抱え込むことができなかった。真実は隠し通せない。
せめて豪奢な箱に入れ、病に倒れたと嘘を添え、バイズはフィオナに髪を渡した。
しかしフィオナは母に似て聡明だった。
帰って来ない母と、城に閉じ込められるようになった自分。運命が変わったことに、彼女はすぐに気付いた。
そしてある時から、バイズが会いに行くと、彼女は決まって聞くのだ。
『勇者様は‥‥いつ私を助けに来てくれるのかしら』
母の残してくれた英雄譚。
その勇者が神魔大戦のために現れたことは、城の中でも話題になっていた。
そう、フィオナの聞いてきた勇者であれば、きっと城に幽閉された姫を助けに現れただろう。
しかし現実は違う。
勇者が呼ばれたのは敵国であるセントライズ王国であり、その近くには大陸きっての才媛、エリス・フィルン・セントライズがいる。
勇者がサーノルド帝国の地を踏むことは絶対にない。
それでもその事実を伝えることはできなった。
『ええ、いずれ』
『そう。楽しみだわ』
その時だけは、フィオナが笑ってくれるから。この絶望の中にあって、勇者の登場は希望の光だった。
希望が潰えた時、その後に残されるのがより深い暗闇だったとしても、バイズは嘘を吐き続けた。
そして神魔大戦が終わり、勇者が天界へと招かれたという噂がフィオナの耳に入った時、彼女は壊れた。
『どうして⁉ どうして⁉ どうして私のことは助けに来てくれないの⁉ お母様、どうしてどうしてどうしてどうして‼』
長い幽閉生活は、彼女の精神を確実に蝕み、勇者の消失は決定打となった。
その時からフィオナはフィン・カナティーリャ・サーノルドに名前を変え、己の魔術と才覚をもって、城の中枢にまで昇り詰めた。
ありとあらゆるものを犠牲にして、自分も、サーノルド帝国も、勇者も、何もかもを破滅させるために。
バイズは改めてエリスを見た。
生粋の王族で、勇者と共に旅をし、偉業を成し遂げた英雄。
その力は美しく洗練されている。
一つでも運命のボタンがかけ違っていれば、フィオナにもあったかもしれない未来。
「貴様は、私には勝てない」
「何を言っているのかしら? もう満身創痍に見えるけど」
バイズは血まみれの腕を上げた。
今の言葉は本当だ。
エリス・フィルン・セントライズではバイズ・オーネットと、フィオナには勝てない。
何故なら、
「狂っていないからだ」
バイズから零れた血が灰の中に染み、幾何学模様を描き出す。彼の沁霊術式は本来軍隊の強化だ。
しかしフィオナと共に狂ったバイズは、魔術の本質すらも捻じ曲げた。
これは怒りと憎悪の発現。
救われた者へと囁く、救われなかった者たちの怨嗟だ。
「沁霊顕現――『負灰の将』」
バイズの背後に現れたそれは、巨大な髑髏だった。
しかしそれが形を成したのは一瞬。青黒い灰がエリスへと吹いた。
「将軍とは思えない沁霊ね」
魔術の極致、沁霊顕現を前にしてもエリスは怯まなかった。己が魔術への絶対的信頼。
それが仇となる。
どれ程完璧な魔術であっても、狂った魔術には勝てない。
同じ土俵ではないのだ。
エリスは『迷いの精森』を使い、万全の防御を展開する。
決して術者に届かない迷宮に、『負灰の将』がゆるりと吹きつけた。
勢いだけで言えばこれまでのものより遥かに脆弱な攻撃だ。
しかしこの灰はただの灰ではない。
終わりの象徴らしく、触れたもの全てを終焉へと引きずる破滅の御手。
『迷いの精森』が枯れた。
茨の森が灰に侵され、青黒く変色して崩れていく。
そして崩れた植物たちは、全てが新たな負灰となって浮かび上がる。
こんな技は、戦争では使えない。自軍すらも巻き込み、最後には汚染された灰の大地だけが残る。
戦いとさえ言えない、無慈悲な虐殺の沁霊だ。
真っ当な道徳心と倫理観を持って育った人間には絶対に辿り着けない答え。
故に狂った人間に真っ当な人間は勝てないのだ。
エリスがレイピアを振るい、直接バイズを狙って茨を放った。
しかしそれが届くことはない。触れる前にボロボロと崩れて灰になる。
「死ねエリス・フィルン・セントライズ。どれ程美しい物も、いずれ腐り果てるものだ」
白い森も、書庫も、負灰は何もかもを覆い隠し、沈黙の帳を下ろした。
「フィオナ様、共に行きましょう。それが破滅の道であっても、私は――」
その瞬間、バイズの視界に赤い髪が見えた。
それはあまりにも懐かしい、あの女性のものだ。
「ああ、ヘレナ様」
彼女は微笑んだ。あの時と何ら変わらない、陽だまりのような笑顔で。
「どうか、お許しください。私は、私は、フィオナ様を正しき道へと導くことができなかった」
だからせめて、最後まで共に歩きます。
それが彼女たちを救えなかった、自分にできる唯一の償いだから。
『いいのよバイズ。もう、いいの』
ヘレナの声が頭の奥に響く。
それに応えようとして、バイズはあることに気付いた。
ヘレナの赤い髪が、緋色に変わっていた。
そして顔も、身体も、ノイズが走るようにして現実へと回帰する。
「いい夢が見られたかしら、バイズ・オーネット」
目の前にエリスが立っていた。
そして彼女の握るレイピアが、バイズの心臓を正確に貫いている。
青黒く浸食されたはずの大地は、真白のままだ。
それを見た瞬間、バイズは自分が何をされたのか察した。
「‥‥‥‥毒を‥‥盛ったのか‥‥」
「ええ。私の『願い届く王庭』は、毒の生成も可能なの。『座』クラスとなると耐久力も桁違いだから、いい夢が見られる成分も配合してあるわ。皮肉なものよね、理想に貪欲な魔術師ほど仮初の楽園に、溺れてしまう」
つまり最初から、勝敗は決していた。傷を付けられた時か、あるいは初めからばら撒かれていたのか。
バイズは沁霊すら呼べておらず、自分が負けていることにさえ気付かなかった。
喉を鳴らして、血の塊と言葉が吐き出される。
「‥‥一国の王女が‥‥外道に、手を‥‥」
アステリスの人族同士の戦争には、ルールがある。
毒や疫病といった魔術の使用は強く制限されているのだ。簡単に、無差別に多くの命を奪うそれらの魔術は、不必要な被害を産む。
それは神魔大戦において大きな枷となる。
故にそれらの魔術を研究する人間は、魔術師の中でも外道として忌避されるのだ。
エリスとてそんなことは百も承知だ。
外道として見られ、非難を受ける。場合によっては、国際的な処罰も考えられる。
その程度が、デメリットか?
「あなたは魔将と戦ったことはあるかしら? 病魔の王は? 災は? 魔王は?」
「‥‥」
「ないでしょう。奴らと戦うのに、真っ当な倫理観では戦い続けられない」
エリスが手を染めたのは毒の魔術だけではない。魔王を討伐するために、数々の汚れ仕事を負ってきた。
「教えてあげるわ」
グッ、と胸に刺さったレイピアに引き寄せられ、エリスの顔がすぐ近くにくる。
その目はそう、何度も見てきた、フィオナと同じ光を宿していた。
「勇者の隣にいる女が、狂っていないわけないでしょう」
レイピアが引き抜かれ、血が噴き出す。
支えを失ったバイズの身体が、灰に倒れ込んだ。
「ヘレナ‥‥様‥‥」
「未練たらしい男は嫌われる、なんて‥‥私が言えたものではないわね」
バイズの身体を茨が包み、灰の中に引きずり込んだ。
 




