燃え盛る怒り
「‥‥冗談」
土御門は冷や汗が流れるのを鮮明に感じた。
阿修羅は現代日本においても様々な熟語に使われるほど、有名な神だ。戦闘の神であり、荒々しいイメージが強い存在だが、実際には正義を司る神であった。娘を巡り帝釈天と争い、天界を追われることになったとされている。
出自から逸話に至るまで、神である。
一片の疑いもなく、神である。
それが目の前にいる。ただの人形と一蹴してしまうのは簡単だが、目前の阿修羅にはそれを許さない圧があった。
ただの怪異や人間には到達できない、超次元の重さだ。
対魔官として様々な存在と相対してきた土御門だからこそ分かる。それは土地神が宿す神性、そのさらに向こう側にあるものだ。
理屈としては理解できる。
神は現実の世界には顕現できない。何故ならそれは既に古びた神話の存在であり、架空なのだ。誰も本気でそれが現れるなど、想像していない。
逆に言えば、創作の中でなら存在している。
この領域内だからこそ顕現できる限定的な存在。裏技のようなものだ。
「それにしたって、ずるいだろう」
もはやこれは反則だ。
阿修羅からではなく、ロビー全体に無機質な機会音声が響いた。
『理解した? これが沁霊術式、『私たちの物語』の力。あり得ないものたちの世界。よかったね、真の神とまみえることなんて、そうそうできない』
「今の状況でなければ、素直に喜べたのかもしれないけどね。まさか、勇輔君が来られないのも、こういうことかい?」
『正解。あちらにはエキドナを当てた。山本勇輔でも、この世界に囚われた時点で、勝ち目はない』
――エキドナか。
ギリシャ神話最恐格の怪物。阿修羅に負けず劣らずのビッグネームだ。
現実に現れれば、国どころか大陸を滅ぼしかねない災厄である。
それは助けには来られないだろう。
土御門と勇輔は今、ゲームマスターから絶対に勝てないボスをあてがわれているようなものだ。
この世界に囚われた時点で勝ち目はない。榊はそう言ったが、それは間違いではなかった。彼女を倒すのであれば、『私たちの物語』が発動される前に叩かなければならなかったのだ。
人間では真の神には勝てない。
これは真理だ。絶対の真実だ。
蟻とライオンを比べるような話ですらない。紙に描かれたキャラクターでは、人は殺せない。この場合、キャラクターが土御門だ。そもそも存在の次元が違う。
では諦めるのか。
土御門は野太刀を担いだ。
「ああ、まさしく魔術師冥利に尽きる。真なる神と刃を交える人間など、世界広し、歴史長きといえど、そうそういるものじゃない」
胸を借りるつもりなど毛頭ない。やるのであればその首を落とす。
まっとうな魔術師であれば、見ただけで失神するであろう阿修羅を前に、土御門は心底楽しそうに笑みを浮かべた。
◇ ◇ ◇
月子が実家に到着した時、そこで何かが起きていることはすぐに分かった。
何故なら広い屋敷は煌々と鮮烈な明かりに包まれていたからだ。
それが立ち上る炎だと気付くのに、時間はそうかからなかった。
「っ‥‥‼」
月子は大破した門を駆け抜け、屋敷へと走る。
風雅に整えられた庭は見るも無残に焼け焦げ、屋敷は今なお黒煙を吐き出しながら燃えていた。
「誰か! 誰かいないの!」
炎の中に飛び込みながら叫ぶが、返ってくる声はない。伊澄本家は大きい。そこにはお手伝いさんも含め、常に多くの人が暮らしていた。
避難できたのか、あるいは。
最悪の予想が頭を過り、槍を握る手に力がこもる。
落ちてくる家の破片を電撃で弾き飛ばしながら、月子は奥に進んだ。すでに部屋は煙に包まれ、視界の確保も容易ではない。
「どうして、姉様や兄様は何をしているの」
伊澄本家にいる魔術師たちは、実力者ばかりだ。いくら襲撃を受けようと、そうそう負けるはずがない。
ここは対魔特戦本部に次いで、安全な場所のはずなのだ。
しかし現実の光景はそれを否定する。
崩れ落ちていく部屋を見ながら、月子は不思議な思いになった。
この家にあるのは美しい思い出ではない。厳しさと、敵意と、孤独に満ちた家だ。
血反吐を吐く訓練の後、本家の兄弟から嫌がらせを受けた時、何度もこんな家壊れてしまえと願っていた。
誰かヒーローが助けに来てくれるのではない。大きな怪物が来て、全て踏みつぶしてしまえと本気で思っていた。
そんな家のはずなのに、こうして炎に包まれている光景を見ると、胸が締め付けられる。
自分にも真っ当な人間らしい感傷が残っていたのか、それとも哀れみか。
月子は自分の部屋に通りがかった。すでに炎に巻かれ、部屋には赤い光しか見えなかった。
「‥‥」
それに足を止めることはなく、月子は進んだ。
襲撃者の狙いはおそらく伊澄本家の長、伊澄天涯だろう。
あの人はいつも一番奥の間にいる。
そして天涯は元、第一位階の対魔官。月子の魔術の師であり、その実力は折り紙付きだ。
どんな襲撃者であろうと、天涯にはそう簡単には勝てない。
敵にも屋敷の人間にも会うことはなく、月子はそこに辿り着いた。ついこの間、天涯と話をした場所だ。ここにも炎が回り、部屋の中は真っ赤に染まっていた。
そこで月子は二つのものを見た。
一つ目は、血だまりの中に沈む小さな何かだった。十二単のような着物が覆いかぶさり、その中身は見えない。ただ色鮮やかなはずの着物は、光の中にあってもどす黒かった。
そして二つ目は、二人の人影だった。一人の男が、誰かの首を掴んでいる。
掴まれている側は火と血にまみれ、抵抗する様子は見られなかった。
掴まれているのは、伊澄天涯だった。
小さな何かは、伊澄甘楽だろう。
この地獄の炎の中で、ただ一人立つ襲撃者は、天涯をつるし上げたままこちらを見た。
金髪をオールバックにした、若い男だった。耳にジャラジャラとつけたピアスが、火の光を乱反射して、輝いている。
「あ? まだ生き残りがいたのか?」
そしてゴミでも捨てるかのように無造作に、天涯を床に落とした。
その瞬間、月子の中で何かが弾けた。
「貴様ぁぁあああああ‼」
金雷槍が二又の矛を咢のように開き、雷を嚙み合わせる。
炎をかき消す閃光が、月子の怒りを示すように咆哮を上げた。




