伊澄本家
◇ ◇ ◇
話は勇輔が四辻と仕事へ赴く少し前に遡る。
――シン、とした空気に身が引き締まる。
毎日いたはずの場所は、ほんの少し離れただけで、これまで当たり前にあった緊張感が際立っていた。
音を鳴らさないように床を踏んで歩く。誰かに教えられたわけでもなく、物心ついたころからそう歩くことが日常となっていた。
伊澄月子が幼いころから暮らし続けた伊澄本家。
失礼のないようにと久しぶりに袖を通した着物は、嫌になるほど肌に馴染んだ。
加賀見の策略? 作戦? によって勇輔たちと一緒に暮らすことになった月子だが、筋は通さなければならない。
すなわち、伊澄家の当主に報告をする必要があった。
あまり気は進まなかったが、月子はこの家に戻ってきたのだ。
元々月子は伊澄本家の出身ではない。分家の両親から生まれたのが彼女なのだが、神はいたずらにも月子に類まれな魔術の才能を与えた。
結果、月子は物心つくころから、この本家で暮らし、魔術師としての英才教育を与えられてきたのだ。
両親に会っていないわけではないが、いつからか、彼らを親として見ることはなくなっていた。
血のつながった実の妹や弟とも、まともに話したことはない。
勇輔に告げることをためらった伊澄という家は、そういう家なのだ。
着替えた自室から目的の部屋までの道のりはひどく遠かった。元々お屋敷と言う他ない大きな日本家屋で、横に広いのだ。更に足取りは重く、その場に着くのには相応の時間を要した。
「月子です。参りました」
部屋の前まで来ると、月子は呼吸を整えてからそう言った。
ほんの少しの静寂。
その短い時間に、ゆっくりと肺が押し潰れていく感覚がする。
自分の育った家で、幾度となく入る部屋なのに、どうしてもこの緊張からは逃れられない。
「おお、入れ」
答えが返ってきて、月子は襖を開けた。
「失礼いたします」
部屋の中には、二人の人間が座っていた。
パチン、と駒を打つ乾いた音が響く。
将棋盤を挟んで座るのは、対照的な二人だった。
まず目に入るのは、十二単もかくやという色鮮やかな着物を重ね着した、小さな姿。それは幼子の小ささではなく、長い人生の重さに耐え忍んできた故のものだった。
顔は目が見えない程に深いしわが刻まれ、生気のない白髪は団子にまとめられている。
伊澄家の最長老、齢二七九歳になる伊澄甘楽だ。
いつも眠っているように座って、子供たちの声に小さく頷くだけの、小さなおばあ様だ。
月子も例外ではなく、伊澄の子供たちからはもれなく甘楽婆と呼ばれて親しまれる彼女だが、こうして成長した今は、その恐ろしくも不可思議な存在に、どう声をかけるべきか迷う。
そしてその対面に座る老年の男。
月子が何かを言うよりも早く、弱弱しい駒の音が鳴った。
甘楽婆の打ったそれは、どうやら会心の一手だったらしく、男は熊のように唸った。
それから暫く盤面を睨み、泣きそうな顔になると、頭を下げた。
「負けました」
「‥‥」
男の投了の言葉を聞き、甘楽婆は分からない程に小さく頷いた。
「あー、負けた負けたわ。まったく、甘楽婆にはいつまで経っても敵わんなあ」
男はそう言いながら、胡坐をかき、月子の方を向いた。
「すまん、待たせたな月子。手持ち無沙汰に将棋など打ち始めたらこの有様よ」
荒波に削られた巌のような彫りの深い顔に、いたずらっ子のような笑みを浮かべる男の名は、伊澄天涯。
この伊澄本家の現当主にして、元第一位階の対魔官、最強の魔術師の一角
である。
「いえ、こちらこそ報告が遅くなり申し訳ありません」
「よいよい、またあの加賀見の孫娘が無茶を通したのだろう。まったくあのじゃじゃ馬は、いつまでも変わらなんなあ」
天涯はそう言いながら頬杖をついた。齢八十二にして、この活力に満ち溢れた体と顔。第一線を退いてから相当経つが、その力は衰えを見せない。甘楽とは比べるべくもないが、この当主も規格外である。
当然、月子とも遠いが血のつながりがある。ここまで生きてきて、彼とのそれを実感するような日は、ほとんどなかったが。
月子にとっての天涯は、魔術の師匠にして、越えられない壁だ。魔族や鬼との戦いで腕が上がった自負はあったが、こうして天涯を目の前にすると理解する。理解せざるを得ない。
「まあ座れ。せっかく久しぶりの団欒だ。色々と聞きたいこともある」
「はい」
自分と天涯の間にある途方もない距離。今までは蜃気楼のように捉えられなかった差が、今の月子には明確に感じられた。
だから緊張するのだ。
月子が座ると、天涯は口を開いた。
「それで、大体の話は聞いているが、なんだったか、異世界の連中とやらが関わっている案件なのだよな」
「はい、そうです」
月子は慎重に言葉を選んだ。
大体の話などと言うが、天涯は現役を退いたとはいえ、元第一位階対魔官。そして魔術の名家、伊澄家の当主である。彼を信奉する対魔官も対魔特戦部には多くいる。
本部に通しているような話は、全て筒抜けだろう。
今月子たちが秘匿している情報は、銀の騎士『白銀』の正体が山本勇輔であるということ、そして土御門からもたらされた新世界のことだ。
土御門の話がどこまで真実かは分からないが、対魔特戦部にも新世界の人間がいる可能性がある以上、下手なことは言えない。
目の前の伊澄天涯が、その可能性もあるのだから。
月子はそんな疑惑と不安を胸中にしまい込み、いつもと変わらない表情を作る。
突然本家で暮らし、当主から直々に手ほどきを受けることになった分家の少女。まともに頼れる人もおらず、嫉妬と敵意の中で生きてきた彼女にとって、それは難しい話ではなかった。
天涯はそんな月子の様子を見て、目を細めた。
「月子、いつも言っているだろう。今は修行中じゃないんだ、そんな畏まって話す必要はない。儂はなあ、いつもいつも加賀見のとこの孫自慢ばかり聞かされているんだぞ」
「すいま──そうね、ごめんなさい」
「謝ることはない。今日は他に人もいないから、誰に気兼ねすることもないぞ」
天涯の言う通り、今日の伊澄家はいつにも増して静かだった。
この家には当然、本物の本家筋の人間が暮らしている。大きな括りでいえば、月子の兄弟たちだ。
その関係性は、言うに及ばない。
「あいつらにはいつも言っているんだがなあ。魔術師は才能の世界だ。まだまだそこに固執してしまってな」
「姉様も兄様も、才能に溢れているわ。魔術師として高みを目指したいのは、みんな同じよ」
「ほう──」
月子が答えると、天涯は目を丸くさせた。
「あの月子がそんなことを言うとは、驚きだ」
「‥‥」
笑う天涯に、月子は唇を結んだ。確かに今まで魔術の腕を磨いてきたのは、それが自分の身を守る一番の方法だったからだ。どれだけ呼吸のし辛い場所でも、強さという拠り所があれば、生きていけた。
しかし今は違う。ジルザック・ルイードや鬼、フィン、バイズ。そして、勇輔。
彼らの登場によって、月子の価値観は粉々に打ち砕かれた。
勇輔が白銀であるという事実によって、今まで彼女が疑問に思っていたことのほとんどに納得がいった。
鍛え抜かれた肉体と立ち振る舞い、惨い傷跡、空白の期間。
彼が置かれた環境は、自分よりも更に過酷で、非情だ。
彼を助けたいと、救いたいと願うのなら、今のままでは駄目だ。
力がいる。
自分が生きていくためではない。彼を救うために、これまでの常識を打ち破るような力が。
「良い顔をするようになったな」
「いえ、そんなことは‥‥」
「ふむ。色々と魔族とやらの話も聞きたかったが、それよりも聞きたいことができたぞ」
「聞きたいこと?」
反射的に問い返すと、天涯は笑みをいやらしく歪めた。
「いやなに、なんでも今一緒に暮らしている男、山本勇輔くんだったかのぉ。元々は恋人であったのだろう」
「──は?」
月子は言われた意味が分からず、ポカンと口を広げた。
それから言われた意味を理解し、白い肌は瞬く間に朱に浸かる。
「あっはっはっは。加賀見のがあれやこれやと話していったぞ。それがこんな形で一つ屋根の下とは、合縁奇縁もあったものだ」
「む、昔の話です!」
思わず敬語で強く否定する月子。天涯はそれを見て更に笑った。
「良い良い。もう男女七歳にして席を同じうせずなどという時代でもない。本家筋であればそうも言ってられんが、幸い月子は違うしの。好きにしたら良い」
「ですから、もうそういう関係ではないと」
「ならば、なぜ強くなろうとする?」
天涯の問いに、月子は答えにつまった。
他の誰でもない、彼のためなのだから。
「まあ理由はどうあれ、そういう気持ちがあるのであればちょうど良い」
「どういうこと?」
「何、昔金雷槍を打った刀鍛冶に一緒に作ってもらったものがあってな。月子にその気がなければ渡す気もなかったのだが、今ならいいだろう」
天涯はそう言いながら、傍に置いてあった巾着を取って月子に渡した。
「少し早いが、じいちゃんからのクリスマスプレゼントだ。これで加賀見の奴にも孫エピソードができる」
「あ、ありがとうございます」
渡された巾着は、それなりの重さがあった。天涯に目で促され、月子は中身を取り出す。
「知恵の輪?」
それは複数の輪や棒が組み合わさった知恵の輪だった。誰でも一度は遊んだことがあるだろう、正しい手順で動かせば分解できる知育玩具だ。
「ただの知恵の輪じゃないぞ。正しい順序で正確に魔力を流しながら輪を動かせば外せる代物だ。それを五秒以内に解くのを目指してみなさい」
「どうして五秒以内に?」
言いながら、軽く動かして魔力を流してみる。どうやら複数の通り道が用意されているらしく、それも途中で分岐していた。
動かし方によって回路も組み変わる。しかも回路は細く、多くの魔力を流せばすぐに飽和して全体に溢れてしまう。
解き方を覚えたとしても、これを五秒以内に解くのは至難の技だ。
「金雷槍の封印、今の月子じゃ第二辺りが限界か。最後の第四までを解くには、どんな激情にかられようと、繊細な魔力操作を続けなければならない」
「そのための訓練道具ということね」
「もちろん、そいつだけでどうこうなるものではないがな。目安だよ、それが五秒以内に解ければ、可能性はある」
可能性。
この輪を勇輔に渡せば、五秒以内に解くだろう。シャーラも、カナミも、あるいはリーシャさえも、可能性はある。
あの家にいるのは、そういう世界で生きてきた人間たちなのだ。
月子は知恵の輪を大切に巾着にしまいながら、天涯へ頭を下げた。
「ありがとうございます」
「儂も渡せて良かった。解けるようになったら見せに来なさい」
今までの月子なら、これを解けるようになるまでどれ程の時間がかかるだろうかと、頭の中で考えただろう。
しかし今はそんなことを考えている余裕はない。
一週間だ。
一週間でこれを解き、金雷槍への訓練に切り替える。
月子はまだ理解していなかった。第一位階、天涯が無理を押してでも手元に置いた麒麟児。勇輔をして三本の指に入るとされた魔力操作は、彼女の才能の片鱗そのものだ。
本物の天才が、自分の才と向き合い、自らの足で歩き始めた時、その歩みはいかほどの速さになるのか。
天涯は月子が部屋を出ていくのを、静かに見守っていた。
「さて、どうなるかね甘楽婆」
「‥‥」
ただそこに居続けた甘楽は、天涯からの問いかけに、小さく頷いた。




