表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

242/428

伊澄本家

     ◇   ◇   ◇




 話は勇輔が四辻と仕事へ(おもむ)く少し前に遡る。


 ――シン、とした空気に身が引き締まる。


 毎日いたはずの場所は、ほんの少し離れただけで、これまで当たり前にあった緊張感が際立っていた。


 音を鳴らさないように床を踏んで歩く。誰かに教えられたわけでもなく、物心ついたころからそう歩くことが日常となっていた。


 伊澄月子が幼いころから暮らし続けた伊澄本家。


 失礼のないようにと久しぶりに袖を通した着物は、嫌になるほど肌に馴染(なじ)んだ。


 加賀見の策略? 作戦? によって勇輔たちと一緒に暮らすことになった月子だが、筋は通さなければならない。


 すなわち、伊澄家の当主に報告をする必要があった。


 あまり気は進まなかったが、月子はこの家に戻ってきたのだ。


 元々月子は伊澄本家の出身ではない。分家の両親から生まれたのが彼女なのだが、神はいたずらにも月子に類まれな魔術の才能を与えた。


 結果、月子は物心つくころから、この本家で暮らし、魔術師としての英才教育を与えられてきたのだ。


 両親に会っていないわけではないが、いつからか、彼らを親として見ることはなくなっていた。


 血のつながった実の妹や弟とも、まともに話したことはない。


 勇輔に告げることをためらった伊澄という家は、そういう家なのだ。


 着替えた自室から目的の部屋までの道のりはひどく遠かった。元々お屋敷と言う他ない大きな日本家屋で、横に広いのだ。更に足取りは重く、その場に着くのには相応の時間を要した。


「月子です。参りました」


 部屋の前まで来ると、月子は呼吸を整えてからそう言った。


 ほんの少しの静寂。


 その短い時間に、ゆっくりと肺が押し潰れていく感覚がする。


 自分の育った家で、幾度となく入る部屋なのに、どうしてもこの緊張からは逃れられない。


「おお、入れ」


 答えが返ってきて、月子は(ふすま)を開けた。


「失礼いたします」


 部屋の中には、二人の人間が座っていた。

 パチン、と駒を打つ乾いた音が響く。


 将棋盤を挟んで座るのは、対照的な二人だった。


 まず目に入るのは、十二単もかくやという色鮮やかな着物を重ね着した、小さな姿。それは幼子の小ささではなく、長い人生の重さに耐え忍んできた故のものだった。


 顔は目が見えない程に深いしわが刻まれ、生気のない白髪は団子にまとめられている。


 伊澄家の最長老、(よわい)二七九歳になる伊澄甘楽(いすみかんら)だ。


 いつも眠っているように座って、子供たちの声に小さく頷くだけの、小さなおばあ様だ。


 月子も例外ではなく、伊澄の子供たちからはもれなく甘楽婆(かんらばあ)と呼ばれて親しまれる彼女だが、こうして成長した今は、その恐ろしくも不可思議な存在に、どう声をかけるべきか迷う。


 そしてその対面に座る老年の男。


 月子が何かを言うよりも早く、弱弱しい駒の音が鳴った。


 甘楽婆の打ったそれは、どうやら会心の一手だったらしく、男は熊のように唸った。


 それから暫く盤面を睨み、泣きそうな顔になると、頭を下げた。


「負けました」

「‥‥」


 男の投了の言葉を聞き、甘楽婆は分からない程に小さく頷いた。


「あー、負けた負けたわ。まったく、甘楽婆にはいつまで経っても敵わんなあ」


 男はそう言いながら、胡坐(あぐら)をかき、月子の方を向いた。


「すまん、待たせたな月子。手持ち無沙汰に将棋など打ち始めたらこの有様よ」


 荒波に削られた巌のような彫りの深い顔に、いたずらっ子のような笑みを浮かべる男の名は、伊澄天涯(いすみてんがい)


 この伊澄本家の現当主にして、元第一位階(だいいちいかい)の対魔官、最強の魔術師の一角

である。


「いえ、こちらこそ報告が遅くなり申し訳ありません」

「よいよい、またあの加賀見の孫娘が無茶を通したのだろう。まったくあのじゃじゃ馬は、いつまでも変わらなんなあ」


 天涯はそう言いながら頬杖をついた。齢八十二にして、この活力に満ち溢れた体と顔。第一線を退(しりぞ)いてから相当経つが、その力は衰えを見せない。甘楽とは比べるべくもないが、この当主も規格外である。


 当然、月子とも遠いが血のつながりがある。ここまで生きてきて、彼とのそれを実感するような日は、ほとんどなかったが。


 月子にとっての天涯は、魔術の師匠にして、越えられない壁だ。魔族や鬼との戦いで腕が上がった自負はあったが、こうして天涯を目の前にすると理解する。理解せざるを得ない。


「まあ座れ。せっかく久しぶりの団欒(だんらん)だ。色々と聞きたいこともある」

「はい」


 自分と天涯の間にある途方もない距離。今までは蜃気楼のように捉えられなかった差が、今の月子には明確に感じられた。


 だから緊張するのだ。


 月子が座ると、天涯は口を開いた。


「それで、大体の話は聞いているが、なんだったか、異世界の連中とやらが関わっている案件なのだよな」

「はい、そうです」


 月子は慎重に言葉を選んだ。


 大体の話などと言うが、天涯は現役を退いたとはいえ、元第一位階対魔官。そして魔術の名家、伊澄家の当主である。彼を信奉する対魔官も対魔特戦部には多くいる。


 本部に通しているような話は、全て筒抜けだろう。


 今月子たちが秘匿している情報は、銀の騎士『白銀(シロガネ)』の正体が山本勇輔であるということ、そして土御門からもたらされた新世界(トライオーダー)のことだ。


 土御門の話がどこまで真実かは分からないが、対魔特戦部にも新世界(トライオーダ―)の人間がいる可能性がある以上、下手なことは言えない。


 目の前の伊澄天涯が、その可能性もあるのだから。


 月子はそんな疑惑と不安を胸中にしまい込み、いつもと変わらない表情を作る。


 突然本家で暮らし、当主から直々に手ほどきを受けることになった分家の少女。まともに頼れる人もおらず、嫉妬と敵意の中で生きてきた彼女にとって、それは難しい話ではなかった。


 天涯はそんな月子の様子を見て、目を細めた。


「月子、いつも言っているだろう。今は修行中じゃないんだ、そんな(かしこ)まって話す必要はない。儂はなあ、いつもいつも加賀見のとこの孫自慢ばかり聞かされているんだぞ」

「すいま──そうね、ごめんなさい」

「謝ることはない。今日は他に人もいないから、誰に気兼ねすることもないぞ」


 天涯の言う通り、今日の伊澄家はいつにも増して静かだった。


 この家には当然、本物の本家筋の人間が暮らしている。大きな括りでいえば、月子の兄弟たちだ。


 その関係性は、言うに及ばない。


「あいつらにはいつも言っているんだがなあ。魔術師は才能の世界だ。まだまだそこに固執してしまってな」

「姉様も兄様も、才能に溢れているわ。魔術師として高みを目指したいのは、みんな同じよ」

「ほう──」


 月子が答えると、天涯は目を丸くさせた。


「あの月子がそんなことを言うとは、驚きだ」

「‥‥」


 笑う天涯に、月子は唇を結んだ。確かに今まで魔術の腕を磨いてきたのは、それが自分の身を守る一番の方法だったからだ。どれだけ呼吸のし辛い場所でも、強さという()り所があれば、生きていけた。


 しかし今は違う。ジルザック・ルイードや鬼、フィン、バイズ。そして、勇輔。


 彼らの登場によって、月子の価値観は粉々に打ち砕かれた。


 勇輔が白銀であるという事実によって、今まで彼女が疑問に思っていたことのほとんどに納得がいった。


 鍛え抜かれた肉体と立ち振る舞い、(むご)い傷跡、空白の期間。


 彼が置かれた環境は、自分よりも更に過酷で、非情だ。


 彼を助けたいと、救いたいと願うのなら、今のままでは駄目だ。


 力がいる。


 自分が生きていくためではない。彼を救うために、これまでの常識を打ち破るような力が。


「良い顔をするようになったな」

「いえ、そんなことは‥‥」

「ふむ。色々と魔族とやらの話も聞きたかったが、それよりも聞きたいことができたぞ」

「聞きたいこと?」


 反射的に問い返すと、天涯は笑みをいやらしく歪めた。


「いやなに、なんでも今一緒に暮らしている男、山本勇輔くんだったかのぉ。元々は恋人であったのだろう」

「──は?」


 月子は言われた意味が分からず、ポカンと口を広げた。


 それから言われた意味を理解し、白い肌は瞬く間に朱に浸かる。


「あっはっはっは。加賀見のがあれやこれやと話していったぞ。それがこんな形で一つ屋根の下とは、合縁奇縁もあったものだ」

「む、昔の話です!」


 思わず敬語で強く否定する月子。天涯はそれを見て更に笑った。


「良い良い。もう男女七歳にして席を同じうせずなどという時代でもない。本家筋であればそうも言ってられんが、幸い月子は違うしの。好きにしたら良い」

「ですから、もうそういう関係ではないと」

「ならば、なぜ強くなろうとする?」


 天涯の問いに、月子は答えにつまった。


 他の誰でもない、彼のためなのだから。


「まあ理由はどうあれ、そういう気持ちがあるのであればちょうど良い」

「どういうこと?」

「何、昔金雷槍を打った刀鍛冶に一緒に作ってもらったものがあってな。月子にその気がなければ渡す気もなかったのだが、今ならいいだろう」


 天涯はそう言いながら、(かたわら)に置いてあった巾着を取って月子に渡した。


「少し早いが、じいちゃんからのクリスマスプレゼントだ。これで加賀見の奴にも孫エピソードができる」

「あ、ありがとうございます」


 渡された巾着は、それなりの重さがあった。天涯に目で促され、月子は中身を取り出す。


「知恵の輪?」


 それは複数の輪や棒が組み合わさった知恵の輪だった。誰でも一度は遊んだことがあるだろう、正しい手順で動かせば分解できる知育玩具だ。


「ただの知恵の輪じゃないぞ。正しい順序で正確に魔力を流しながら輪を動かせば外せる代物だ。それを五秒以内に解くのを目指してみなさい」

「どうして五秒以内に?」


 言いながら、軽く動かして魔力を流してみる。どうやら複数の通り道が用意されているらしく、それも途中で分岐していた。


 動かし方によって回路も組み変わる。しかも回路は細く、多くの魔力を流せばすぐに飽和して全体に溢れてしまう。


 解き方を覚えたとしても、これを五秒以内に解くのは至難の技だ。


「金雷槍の封印、今の月子じゃ第二辺りが限界か。最後の第四までを解くには、どんな激情にかられようと、繊細な魔力操作を続けなければならない」

「そのための訓練道具ということね」

「もちろん、そいつだけでどうこうなるものではないがな。目安だよ、それが五秒以内に解ければ、可能性はある」


 可能性。


 この輪を勇輔に渡せば、五秒以内に解くだろう。シャーラも、カナミも、あるいはリーシャさえも、可能性はある。


 あの家にいるのは、そういう世界で生きてきた人間たちなのだ。


 月子は知恵の輪を大切に巾着にしまいながら、天涯へ頭を下げた。


「ありがとうございます」

「儂も渡せて良かった。解けるようになったら見せに来なさい」


 今までの月子なら、これを解けるようになるまでどれ程の時間がかかるだろうかと、頭の中で考えただろう。


 しかし今はそんなことを考えている余裕はない。


 一週間だ。


 一週間でこれを解き、金雷槍への訓練に切り替える。


 月子はまだ理解していなかった。第一位階、天涯が無理を押してでも手元に置いた麒麟児。勇輔をして三本の指に入るとされた魔力操作は、彼女の才能の片鱗そのものだ。


 本物の天才が、自分の才と向き合い、自らの足で歩き始めた時、その歩みはいかほどの速さになるのか。


 天涯は月子が部屋を出ていくのを、静かに見守っていた。


「さて、どうなるかね甘楽婆」

「‥‥」


 ただそこに居続けた甘楽は、天涯からの問いかけに、小さく頷いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
R15 残酷な描写あり 異世界転生 異世界転移 キーワード男主人公 ギャグ 主人公最強 勇者
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ