もう一つの夜
小さな音を立てて、ドアが閉まる。
顔を上げると、さっき部屋を出ていったはずのリーシャが、入口でぼんやりと立っていた。
「‥‥どうしましたの?」
カナミは読んでいた本を閉じて置いた。
リーシャは声が耳に入っているのか入っていないのか、真っ直ぐに歩いてくると、ベッドにトスン、と腰かけた。
「‥‥」
カナミは緩く波打つ髪を耳にかけながら、ため息を隠す。
リーシャがこうなってしまった理由は、明白だった。カナミは全員の同意の元、この家にいる間、『シャイカの眼』で家の内部を常に監視している。
もちろん最低限のプライバシーには配慮しているが、誰がどの部屋にいるのか、彼女は全てを把握していた。
たった今、勇輔の部屋に月子がいることも知っていた。
そしてリーシャが勇輔の部屋を訪れようとし、戻ってきたことも。
彼女と勇輔の関係は知っている。大学に通っていれば、その手の情報はいくらでも集めることができた。
初めにカナミを襲ったのは、驚愕。ついで、行き場のない苛立ち、嫉妬。そして己への失望。
その気持ちに今折り合いがついているかと問われると、すぐに肯定する自信はない。
それ程までに、二人の間には特別なつながりがあった。自分たちでは決して触れることができない絆が。
リーシャが気付かないはずがないのだ。
「何か、気になることでも?」
カナミはリーシャの隣に座り、再度声を掛けた。
返答はしばらく経ってから返ってきた。
「‥‥分からないんです」
「何がですの?」
「私、ユースケさんには幸せでいてほしいと思っています」
前を向いたまま、リーシャは自分の思いを確かめるように言った。
「ええ、そうですわね。私もそう思いますわ」
「私はそのためなら、どんなこともできる自信があったんです」
そこまで言って、リーシャは後ろに倒れこんだ。布団がはずみ、白の中に彼女は沈んでいく。
自分を恥じるように、リーシャは顔を両手で隠したまま続けた。
「それなのに、私は‥‥今‥‥すごい我が儘を言いたい気分なんです」
声は震えていた。
「‥‥」
カナミにしては珍しく何を言っていいのか分からず、散らばった金髪を撫でる。リーシャはされるがままだった。
『歪曲の魔将』ラルカン・ミニエスとの戦い。
その中でリーシャは勇輔の正体を知ったという。その時何があったのか、カナミは詳しくは知らない。
それでも戻ってきた勇輔を見れば、推測するのは容易だった。あの人の特別であることを諦めた自分では、絶対に立てない場所に、リーシャは進んだのだろう。
過去にはエリス・フィルン・セントライズが、伊澄月子がいた場所の、最も近いところ。
もしもリーシャが聖女ではなく、一人の人間として成長することができれば、今胸の中で暴れる感情に名前を付けられるのかもしれない。
「大丈夫、何もおかしなことはありませんわ」
願わくば、その瞬間まで自分たちがここにいることができますように。
明かりに溶けて消えてしまいそうな祈りが届くのに、夜は待ってくれるのか。それは誰にも分からない。




