夜の街で若い女の子に声をかけられたら、当然こうなる
別の世界でも、夜空の光景はさほど変わらないらしい。
黒の外套に身を包んだ男は、ビルの屋上でフェンスに腰かけて空を見上げていた。
そして男、対魔特戦部からは『フレイム』と称される彼は、冷たい目で視線を下に落とした。
そこには、騒々しささえ感じる程の光が乱舞し、冷たく巨大な建造物の間を鉄の車が絶えず動き回っている。
活気を失った無機質な繁栄だ。
これが、魔術の発達しなかった世界。
フレイムの生きてきたアステリスとは全く別の進化を遂げた世界。
この世界は、あまりにも技術が発達し過ぎている。人類の利己的な技術が、世界の摂理を置き去りにして、歪みを引き起こしている。フレイムにとってはそう見えた。
「――ああ、シシー。あまりにも醜いじゃないか。人族の営みというのは、どうしてこうも生き汚いのだろう。世界があげている悲鳴に、誰も気づかないとは」
フレイムの声に合わせ、フードの下で義眼がギョロリと蠢いた。
魔族は、生まれながらに世界に満ちるエーテルとの親和性が高い。
そのため、アステリスでも人族以上に魔術の扱いに長けている者がほとんどだ。
魔術とは世界との調和であり、世界を改革することでもある。それ故に魔族は自然を愛し、また己の魔術を極めんとする、究極的な個人主義者ばかりだ。
別人格を所持し、その『シシー』と日常的に会話をするフレイムの在り方も、長い年月を一人で過ごした結果出来上がったものだった。
だからこそ、短い生を必死に生きあがき、そのために世界を平然と破壊する人類の在り方が、フレイムには認められない。
「ここは汚いものが多すぎて目が曇る。‥‥だが、いるな。間違いなくいる。――そうさ、私の猟犬も大鬼も、どちらも強大な力で蹴散らされた。私たちが追っていた鍵たちにそんな芸当は出来ないはずだが、間違いなくアステリスの人間だろう。――分かっているよシシー。たとえなにが現れようと、私の障害にはなり得ない」
フレイムはブツブツと呟く。
そして、徐に立ち上がった。外套が風に揺れ、皺の刻まれた顔が夜に浮ぶ。
立ち上がった理由は単純、何者かの気配が屋上に現れたからだ。
フレイムの背中に、声がかけられる。それは夜空に響き渡る凛とした声だった。
「ねえ、あなたは一体何者なの?」
フレイムは、ゆっくりと振り返った。その所作は、背後の存在がまるで脅威でないと言っているようだ。
「不躾だな。それとも、人族に最低限の礼儀を求めること自体が間違っているのかね」
その言葉に、声をかけた女――伊澄月子は表情を変えることなく返した。
「礼儀というものは礼を尽くす相手ならば自然と出る物。少なくとも、貴方には必要ないだけ」
「そうか。確かに獣の礼は獣同士でしか理解出来ない。そう考えれば必要ないというのも頷ける」
フレイムは突如として現れた月子に動揺することもなく、淡々と言った。
月光を受けて優美に輝く黒い髪に、対照的な白い肌。小さな体躯を包むのは、袴を模した魔術戦闘用の衣装である。対魔特戦部の戦闘服ではなく、今回の戦いのために、月子が実家から持ち出した魔道具だ。
フレイムも、彼女たちがどういった存在かは分かっている。この世界の奇跡を忘れた無知蒙昧な掃き溜めにおいて、魔術という神秘を扱う魔術師たち。
しかし、それでも魔族たるフレイムには遠く及ばない存在だ。所詮、劣等種であることに変わりはない。
アステリスとは大きく異なる魔術方式に、フレイムも最初は興味を惹かれたが、既にその興味も失せていた。彼らの魔術では、フレイムにかすり傷すらつけることは出来ない。
フレイムが警戒しないのは、当然だった。
しかし、月子が次に口にした言葉は、大きくフレイムの感情を揺さぶった。
「あなたも、今はどうあれ元は人間ではないの?」
問われ、フレイムは一度黙り、それから大声で笑った。
しゃがれているのに、芯の通った声が屋上全体に満ちた。
「聞いたかシシー! これは傑作だ! 私が、このジルザック・ルイードが人間だと!? これ程までの侮辱は生まれて初めてだ! いっそ笑うしかあるまい!」
「‥‥」
月子は突然のフレイムの大笑に、目を細めた。
月子たちは、てっきりフレイムはどこかの魔術組織から抜け出したはぐれ魔術師だと考えていた。
フレイムの見た目は相当インパクトのあるものだが、見た目は人から大きく逸脱していないし、会話が可能な知能もある。何より妖怪や怪異独特の雰囲気というものがなかった。
しかし、もしかたしたら自分たちは何か大きな勘違いをしているんじゃないかと、月子は笑うフレイムを見て思った。
フレイムの言葉を信じるのであれば、この男の正体は人間ではないということだ。
ジルザック・ルイード。フレイムは今そう名乗った。
月子はジルザック・ルイードという名に聞き覚えがないか記憶を掘り起こすが、まるで覚えがない。人でないとすれば怪異か悪魔の類かとも考えたが、やはり聞いたことがなかった。
――いや、今はいい。
月子はそこで思考を中断させた。
これからの戦いに、この考察は意味がない。相手の正体が分かれば有利になれる場面というのは多いが、今回は情報が少なすぎる。
どうせ分からないのなら、思考のリソースをそちらに割くのは無駄だ。
月子は腕を軽く上げつつ魔力を全身に流す。
瞬間、服の内側に仕込まれた金雷槍が音を立てて月子の手の中に展開された。
「今更投降しろと言う必要はない?」
月子の言葉に、笑いも収まってきたフレイムが改めて向き直る。
「愚問しか吐き出せぬ口は閉じておくべきだ。人類が唯一行える正しき行いは沈黙だけなのだからな」
「‥‥そう」
綾香に倣って会話を試みたわけだが、やはり和解することは出来なかった。
月子は金雷槍を振るい、構えた。鋭い風切り音の後で、穂先がピタリとフレイムに向けられる。
人間どころか、今いるビルすら屋上から地上まで貫通出来る兵器を前に、だがフレイムは悠然と立ったままだ。
「その玩具で私をどうにも出来ないことは、既に知っているはずだが?」
「‥‥前回と同じかどうか、自分で確かめてみればいい」
穂先から金の雷を迸らせながら、月子はフレイムを睨み付けた。
確かに前回月子が放った『天穿神槍』は容易く防がれた。
あの魔術は間違いなく月子が個人で使える魔術の中でもトップクラスの火力を誇る。
あれでかすり傷一つつけられないのでは、現状月子がフレイムに有効打を与えられる術はない。
だが現代魔術の神髄は、そんな道理を容易く飛び越える。
「第一、第二封印、解」
月子の言葉と同時、金雷槍がその機構を発動する。
魔法陣を展開しながら金雷槍の穂先が開き、二又に変わった。穂先の間で金雷が弾け、月子の魔力も膨れ上がっていく。
「‥‥ほう」
フレイムはその様子に声を漏らした。義眼もまたその思いを代弁するように忙しなく蠢く。
月子の持つ金雷槍は、現代において作成出来る最高峰の魔道具である。そのポテンシャルは神代に作られた伝説の武具にも引けを取らない。
当然、まだ魔術師としての経験が浅い月子では、その性能を全て引き出すことは出来ない。もし金雷槍の能力を全て開放させれば、雷は月子の身体ごと周囲の全てを吹き飛ばすだろう。
だからこそ、金雷槍にはいくつもの制限がかけられている。今回は、その内の二つを解いたのだ。
真の道具と使い手は共鳴し、互いの魔力を呼び水にして力を高め合う。
穂先で弾けていた金雷は、いつの間にか槍全体を覆い、月子自身も雷を纏った。自分の力だけでは完全に扱い切れない才が、金雷槍によって湧き上がるのが分かった。
夜空に溶け込むような黒髪が、金の閃光とともに浮かび上がる。
この解除に耐えるために、月子は今回様々な下準備をしてきた。全身に雷と親和性の高い魔道具を装着し、予め対魔特戦の魔術師たちによって、身体を強化するための儀式も行っている。
「‥‥」
月子の身体が、沈んだ。
瞬間、一条の雷がフレイムへと駆け抜けた。
それは槍から放たれた雷ではない。槍を構えた月子そのものが雷と同等の速度をもって、突進したのだ。
前回フレイムに簡単に止められた一撃とは、比にならない威力。
フレイムと月子の間に、ゴウッ! と火炎の壁が立ちふさがり、赤と金がビルの屋上で激突する。
火花が夜空を昼のように明るく染め上げ、衝撃が爆風を起こして撒き散らされる。
そして、押し勝ったのは月子の方だった。
火炎の壁を金雷槍が突き破り、炎を散らして穂先がフレイムの胸元へと迫る。
それに対し、フレイムは微かに目を開いて後ろへと跳んだ。
躊躇いなく夜へと身を投げ出したフレイムは、そのまま地面へと落下していく。そこに、これまであった車や人々の光はない。戦場になる前に、対魔特戦部の人間によって人払いが為されている。
「‥‥天穿神槍」
落ちていくフレイム目がけて、月子はビルの屋上から槍を投げた。
轟ッ! と金雷槍はフレイムに直撃し、そのまま地面に激突する。アスファルトを金雷が砕いて吹き飛ばし、ビルのガラスが衝撃で粉々になって落ちていった。