孤狼の遺影
まずは一体。
そう思ったのも束の間、たった今倒したはずの声が近づいてきた。
『キハハハ、やってくれるじゃねえか。見事に釣られちまったよ』
馬に乗ったロゼが暗がりの中から現れた。
彼女は頭上からイリアルを見下ろす。鴉が壊されたというのに、その表情は平静そのものだ。
そんな彼女の代わりに馬の口がかぱりと開き、そこからがなり声が発せられる。
『甘く見てたぜ、危うく死ぬこところだ』
「そんな簡単に乗り移れるということは、フィフィというのは、あくまで御者というわけね」
『正解に近いが、満点じゃあねえな。俺たちは意志ある傀儡、死した者の影から生まれたロゼの僕さあ。別段俺が全てを操っているわけじゃねえ』
まさか答えが返ってくるとは思わなかったが、フィフィは躊躇なく種を明かした。
『影を鍛え、育て、忠実な戦士とする魔術。それこそが『影に潜む者』だ。ややこしいからよぉ、一体一体に個別の名前がついてるわけだがな』
「随分高度な魔術」
意志ある存在を複数生み出し、使役するなど聞いたことがない。尋常ではない魔術だ。
恐らくフィフィが操作をした方が精度がよいのだろう。だから彼は状況を見て影を乗り換える。鴉を倒したところでフィフィが死ぬわけではない。
それまで黙っていたロゼが口を開いた。
「お褒め頂き恐縮ですが、まさか私たちが何の意味もなく話をしていると?」
「心配せずとも、何をしようと勝つのは私だもの」
イリアルとてロゼの唐突な行動に違和感を感じていた。
わざわざ自分の身を晒してまで時間を稼ごうというのなら、それなりの理由があるはずだ。
魔術を相手に教えることで己に縛りを課す術式であったり、あるいは単純に準備に時間がかかる魔術であったり。
「分かっていながら話に乗っていたと?」
「お互い様ということよ」
ただ無為に話をしていたわけではない。
イリアルもまた次の動きに向けて準備を整えていた。翼がゆっくりと形を変え、普段使っている汎用術式から、攻撃に特化したものへと切り替える。
互いに間合いの内側。あとはどちらから、どう仕掛けるかという選択の奪い合い。
先に動いたのはロゼの方だった。
厳密に言えば動いたのはロゼではなく、夜そのもの。
イリアルの真横から、夜が津波の様に襲い掛かった。
『なるほどなぁ。しかしそりゃ判断ミスだったな』
木々を圧し潰して迫る黒い奔流から距離を取ろうとする間にフィフィの声が聞こえた。
『こいつは元の我が強すぎてな、いくら調教しても言うこと聞かねえわ俺を拒否するわの問題児なんだよ』
ただ荒れ狂うだけだった津波は、まるで意志を持っているかのようにイリアルを追い、腕を振った。
防御術式の上から殴られたにも拘わらず、イリアルは身体が爆発するような衝撃と共に吹き飛ばされた。
森を一直線に粉砕しながら、何とか体勢を立て直す。
それを見下ろすように現れたのは、一頭の狼だった。
狼というにはあまりに大きく、丸太のように隆起した筋肉と硬質化した毛の鎧を纏う姿は重戦車もかくやというもの。
アステリスでは『ヤラール』と呼ばれる魔物が世界各地を飛び回っている。『風呼び』の魔術で高速飛行をし、群れで動く。強さではなく、殺されないことに特化した害鳥だ。硬いくちばしで地面を掘り起こし、虫も植物も根こそぎ食い尽くす。
たった一日で三国を跨ぐヤラールは、あらゆる生き物にとって厄介な存在だが、彼らは常に滅びの危機に瀕している。
何故なら、地上にはヤラールの天敵が存在するからだ。
孤狼『エイジュウ』。
たった一頭でヤラールの群れを虐殺する暴力の王。その性質は極めて残忍で執念深く、獲物と決めた物は殺すまで追い続ける。
もしもこの闇がエイジュウの影から生み出されたものだとしたら、まずい。
イリアルは即座に上に逃げようとしたが、それより早くエイジュウが吠えた。
魔力がその咆哮に応え、発現する。
「くっ!」
全身に纏わりつく重さに、イリアルは膝を着いた。
まるで自分の体重が何倍にでもなったかのような重圧だ。
これがエイジュウの使う魔術、咆哮によって周囲の重力を一時的に強める『嚇る楔』。
これによってエイジュウの間合いに入った獲物は、逃げることも叶わず一方的に嬲り殺される。
『キハハハ、重いだろう。そいつはエイジュウの影から生まれた怪物、猟狼! 鴉と同じだと思ったら痛い目見るぜ!』
フィフィの言葉通り、その魔術は魔物のものとは比較にならない。狼の遺影は生前のそれよりも更に濃いのだ。
「そこをどきなさい」
距離を取れないというのなら、立ち退かせる。
攻撃に特化させた『白輳の翼』は、荒々しく光槍を撃ち出した。
猟狼は巨体に似合わぬしなやかな動きで槍を避けると、再び爪を叩きつけてくる。
「っ⁉︎」
重い。
一発一発が大地を砕き山を平らげる威力。『白輳の翼』の形を変えたせいで、防御が間に合わない。骨身に染みる衝撃で内側から軋む音が聞こえた。
槍の射出が追い付かない。迅速で滑らかな挙動は、夜の中にあってあまりに自由だった。
イリアルはあえて高く飛ばず、木々の間を縫うようにして移動した。
いくら速かろうとあの巨体。この林の中では追いかけるのもそう容易くはない。
猟狼もそれが分かったのだろう。煩わしそうに咆哮をあげた。
同時に大きく跳躍し、一気に林を超える。
「なにを──」
そして四肢に黒い鎖を巻き付け、落ちてくる。
イリアルはその威容に得も言われぬ恐怖を感じた。あれは止められない。
とにかく離脱を。
そう思った時にはベリアがすぐ近くに落下した。
鎖が大地をのたうち回り、地面が波打った。
地震などという生易しいものではない。跳ね上がった地面に殴りつけられ、そこに鎖が襲い掛かる。
天地がひっくり返り、イリアルはまともに受け身も取れず地面を何度もバウンドした。
『キハハハハ! さっきの大口はどうしたよ!』
駿馬と一体化したフィフィが揺れる大地を駆け抜け、光弾で畳みかける。
連続して炸裂する光と衝撃。内臓が捩じれ、至る所から弾けた血が銀髪に染みた。
痛みで頭が馬鹿になる。魔術を維持することさえ難しい。
それでもイリアルは白槍を地面に突き刺して立ち上がった。
「‥‥」
これまでなら絶望的な戦況に心が折れていたかもしれない。
イリアルは自分に経験が足りないことをよく理解している。この神魔大戦に参加している勇士に比べれば、あまりにちっぽけな存在だということも。
しかし理解したのだ。
ユネアのために戦うという信念の強さ。それだけはどんな英雄にも負けることはない。だから選ばれた。だからここにいるのだ。
この背には今ユネアと勇輔がいる。
たとえ肉が潰れ骨が砕けようと、この翼だけは輝きを失わない。
猟狼がとどめを刺そうと寄ってくる。ひたひたと歩み寄る死の足音を聞きながら、イリアルは翼に魔力を流して更に形を変えた。
もはや届きもしない、耳を汚したと裁きを与えられるかもしれない。それでも歌おう、この信念が間違いではなかったと。
「ぁあ、我らが母。創世の母よ。穢れた魂であろうとも、この想いだけは真であることを証明しましょう。血潮よりも熱き魔力を、純潔よりも白き羽根を、どうか遥か天の頂よりご覧ください」
はらはらと翼から羽が舞い、その一つ一つがまるで天使のように小さな人型を取る。それらは手と手を取り合い、いずれ優美なオブジェを作った。
まるで破城槌のようなランス。『白輳の翼』の構成をこの魔術だけのためだけに作り替えたのだ。
遠くでそれを見ていたロゼが鋭い一声を発した。
「猟狼! 退きなさい!」
その判断は正しい。しかし猟狼はそれを無視した。
自らの力に絶対の自信を持っている故に、狩人は臆さない。もしも生前のエイジュウであれば、追い詰められた獲物こそ慎重に仕留めにかかっただろうが、既に遺影と化した猟狼は恐れなかった。
恐れを忘れていた。
「聖あれ、聖あれ、今ここに信の証を奉らん」
『嚇る楔』を纏った爪が目前に迫る中、イリアルの魔術は完成した。
どこか歪で不完全なのに、神々しさすら感じる白亜の輝き。
私の使命を狼風情が阻むな。
「影は影らしく、光に道を開けなさい」
そして天使の槍は翼を広げ、獣へと放たれる。
『裁定告げる真槍』。
白き槍は、理性と知恵を失った獣を貫いた。
不遜にもイリアルを縛り付けようとしていた鎖は焼き切れ、影は光に祓われる。
――グルラァアアアアァァアァアアア‼
それでも尚猟狼は身をよじって前に進もうとした。抉り取られた体が夜に散るのも構わず、イリアルを噛み砕かんとする。それこそが彼の影に染み付いた唯一の本能だった。
「無駄よ」
しかし槍は猟狼を逃さなかった。
影を貫いた『裁定告げる真槍』は手を解き、数多の槍へと姿を変え舞った。猟狼どころか空間そのものを制圧する美しい幾何学模様。
さながら真昼の如き輝きに照らされる槍の間合いでは、猟狼に逃げ場はなかった。
四章、年内の完結ができず申し訳ございません。年末年始に進められるところまでは頑張ろうかと思っています。
本年も読者の皆様方には大変お世話になりました。この作品が続いていられるのも皆さんのご愛読あってのものでございます。どうかよいお年をお迎えください。
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