正しさの先に
それから暫くしてユネアは再起動し、俺は変わらず動くことができずにいた。ちなみにユネアには呼び捨てで敬語も一切使わないで欲しいと、まるで下女のように扱ってほしいと涙ながらに頼まれてしまった。
流石に年下の女の子にそこまで言われると複雑な心境である。修霊女って聖女候補みたいなものだし、仕方ないんだろう。
中には聖女でも教会の教えなんざ知ったこっちゃないっていう特異な奴もいたけど。そうそういないから特異なのである。
イリアルさんは見回りをすると言っていなくなった。ここはどうやらどこかの東家のような場所らしく、俺とラルカンが戦った場所からはそれなりに離れているらしい。
意識を失っていたのは一時間程だろうか。夜は深く川のせせらぎと虫の鳴く声だけが聞こえた。
集中して循環式呼吸を行い、魔力を全身に回して治癒力を高める。ユネアも定期的に魔術を使って回復してくれているので、夜明け前には動けるようになるだろう。
「‥‥」
だが、動けるようになったからといってどうする。
ラルカンと実際に戦って理解した。理解せざるを得なかった。
あいつは強い。昔俺が戦った時よりも更に強くなっている。
俺に負けてからの数年間、きっと弛まず鍛錬を続けてきたはずだ。決着をつけるというシンプルで強固な目的のために。
それに比べて俺はエリスに捨てられ、何もやる気が起きないまま怠惰な日常を貪っていた。ここ最近でなんとか勘戻りつつあるが、そのブランクは大きい。
──いや、違うな。
それは言い訳だ。丁度いい理由があるからそれを使って自分を納得させようとしている。
問題はもっと根本的なところにある。
目を閉じれば、横たわる俺の身体を引き摺り込もうとする死者たちの手が見えた。
戦いに戻った今、彼らの存在は俺にとって身近になっていた。本当に呪いがあるわけじゃない、そんなことは自分でも分かっている。
これは所詮俺が勝手に抱いている幻想だった。
しかし今俺の目前にその内の一人が現れた。己の過去が実体を持ち、因縁を手繰り寄せ冥府の底から甦ったのだ。
リーシャが捕らえられたのも、カナミが大怪我を負ったのも、全ては俺が招いたことだ。
俺は何のために戦っていたんだろう。
考えないようにしていた疑問が頭をもたげた。
前回の戦いは──エリスの真意こそ分からないが──結果的に全てを失い地球へと帰還した。再会した家族とは上手く接することができず、それでもアステリスが平和になったならと自分を慰めていた。
結局それも俺のせいで第二次神魔大戦が始まったわけだ。辛くも輝かしかったはずの日々が、色褪せる。
そして第二次神魔大戦ではリーシャを助けるために参加したにもかかわらず、俺の過去が危機を招く始末だ。
まるで疫病神だな。いっそこの手の導くまま冥府に落ちた方が周囲にとってはよっぽどいいのかもしれない。
その迷いが、剣を鈍らせた。
魔術は感情の励起によって起こる。その思いに迷いがあれば、当然その力は弱くなる。
リーシャを助けるという思いで心中蠢く毒を塗りつぶそうとしたが、そんな不完全な技でラルカンに勝てるはずがなかったのだ。
「‥‥どうかしましたか?」
「ん?」
おもむろにユネアが声をかけてきた。
彼女は未だに俺に膝枕をしてくれている。正直年下の女の子に膝枕をされるというのはリーシャを除けばなんとも言えない罪悪感を感じるので辞退しようとしたのだが、やはり泣きそうな顔をされるので断りきれなかった。
「何か悩んでいるような顔をされていたので、私でよければお聞かせください。何か助言ができるわけでもありませんが、話すだけで楽になることもあるかとは思います」
「そっか。なんだか似てるな、そういうところ」
「似てる? どなたにですか?」
「知り合いに、少しさ」
頭を過ったのはリーシャの顔だった。どこまでも純粋で献身的。俺のような人間とはまるで違う、赤ん坊がそのまま大きくなったような真っ白な性格。
あいつは何をするにもきっと迷ったりしないだろう。それが正しいと信じれば、そのために全力を尽くす。
だからリーシャの使う『聖域』は何よりも強固なのだ。俺の魔術でさえ破壊できないくらい。
「‥‥少し疲れたんだ。やるべきことだと、正しいことだと信じてきたものが、本当は誰のためにもなってなかったんじゃないかって」
エリスが、月子が、グレイブが、ラルカンが、入れ替わり立ち替わり現れては消えていく。突きつけられる現実は俺の正義を否定する。
リーシャもきっと俺が勇者だということを知っただろう。
もし彼女を救えたとして、俺は今まで通りリーシャと共にいられるのだろうか。あの真っ直ぐな瞳を畏怖と崇拝で曇らせたくなかった。リーシャの隣に立つには勇者の過去はあまりにも重すぎる。
彼女が俺から離れて行った時、本当に俺は剣を握る理由を失う。
すべきことが見えているはずなのに、身体が動いてくれない。
ユネアは考え込むように首を捻った。
「私などにその気持ちが全て分かるはずはありませんが、少しだけ同じ思いを感じたことがあります」
「君が?」
「はい」
ユネアは頷くと、ポツポツと己の身の上を語り始めた。静かな夜の中、少女の声だけが響く。
物心ついた時から両親の顔を知らず、姉と共に暮らした教会での生活。決して豊かではなかったが、満ち足りた日々。
そんな彼女たちに転機が訪れたのは、ユネアの魔術が発覚した時だった。
「私が聖女様候補など、あまりに恐れ多い話でした。修霊女になってしまえば姉と共に暮らすこともできなくなってしまいます。私は正しいことだと信じて修霊女となりましたが、その判断が姉にとって正解だったのかは分かりません」
それはそうだろう。
見たところイリアルにとってユネアはこの世で最も大切な人だ。だからこそ種を、恩を、信仰を裏切って魔族に与した。
そんな彼女にとって妹と会えなくなるというのは筆舌に尽くし難い苦悩であったはずだ。
「けれど姉が神殿騎士となって私の前に現れた時気づいたんです」
「気づいた?」
「はい、確かに私の行動が他の方から見て正しいかどうかは分かりません。けれど私の正しさの先に姉はいてくれたのです。故に気づいたのです。大事なのは正しいかどうかではなく、正しくあろうとする心なのではないかと」
「正しく、あろうとする‥‥」
意図せずユネアの言葉を繰り返した。
俺は正しくあろうとしてきただろうか。
「人と人です。どこかですれ違うことも、衝突することもあるでしょう。けれど互いが互いを思いやり、正しいと思う道を進み続ければ、必ずどこかでまた巡り会えるはずです」
その言葉にどこか救われた気がしたことに、自分でも驚いた。
失敗だらけの人生だった。思い通りにいったことなんてほとんどない。
けれど投げ出すことだけはしなかった。
大いに悩み、選択の間違いを幾度となく悔やみ、それでも俺は自分が信じる道を選んできたはずだ。
正しくあろうと、してきたはずだ。
「ですから安心してください。ユースケ様の行いは、必ず誰かの救いとなるはずです。私たちがあの時救われたように」
「‥‥そうか、ありがとう」
ユネアのキラキラとした瞳を見つめ返し、そう答えた。
正しくあろうとする心。
では今の俺にとっての正しさとは何なのか。
俺は目を閉じる。改めて問い直し、考え、答えを見つけるべきものが、どこかにあるはずだ。
「眠るのですか?」
「いや、少し考えたいことができた」
「そうですか、少しでもお役に立てたのなら私も嬉しいです」
それからユネアも口を閉じた。いい子だ、イリアルさんが溺愛するのもよく分かる。
改めて思索の海に潜ろうとした時、再びユネアの声が聞こえた。
いや、それは本当にユネアの声だったのか、目を閉じていた俺には確証が持てなかった。彼女以外にいるはずがないのに。
それ程までに、その声は神秘に満ちていたのだ。
「『最後にもう一つだけ、手伝ってあげましょう』」
反射的に目を開けようとしたが、それは叶わなかった。
その言葉を最後に何かに引っ張られるように、俺は黒い闇の中に沈んでいく。
凄まじい勢いで流れていく記憶と思考の波に抗う術はなく、いつしか全てが情報の渦に飲まれて消えていった。