木道楽
「え‥‥」
違う。鬼に見間違えたのはそれが鬼の面を被っていたからだ。赤い二つの角を伸ばし、憤怒に染まった面を。
身長は二メートル近いだろう。しかし全体的に華奢な体躯のせいか、より高く見えた。身体には黒い甲冑を身に纏い、腰には長い野太刀を帯びている。
仮面の奥で揺れる長い白髪に、肩にかかった牡丹の着物も相まって、どこか中性的な印象を受ける姿だった。
あの気配からはまるで想像できない端麗な見た目。それ自体も不気味だが、真に恐るるべきは、あれ程の魔力がまるで感じられなくなっているということだ。あの鬼の身体に、全てが圧縮されている。
月子は改めて槍を握り直した。
「どうしますか伊澄さん。どうにも逃がしてくれなさそうな気配ですけど」
「‥‥後ろでサポートをしてもらってもいいですか? 私が祓います」
「分かりました。私の魔術は『木道楽』。見ての通り木の根や枝を成長させて操作する魔術なんですが、大した力は出せません」
そうか、さっきの魔術はそういう仕組みかと月子は納得する。恐らく五行思想に基づいた、水もって木を育む理、水生木の魔術だろう。
あのレベルで木を操ることができれば、直接的な攻撃力はなくとも十分支援は可能なはずだ。
なら是澤の魔術で相手の脚を止め、そこに自分が魔術を叩き込めばいい。どれだけ強力な相手でも、金雷槍を直接打ち込めれば倒せる自信があった。
「なら隙を見て相手の拘束を――」
言葉は最後まで続かなかった。
腕に伝わる重い衝撃と、頬にかかる生暖かい感触。何が起こったのか理解が追い付かない。月子は気配を感じて顔を上げ、目を大きく見開いた。
目の前に鬼が立っていた。
肩を斬られたのだと理解した時、傷口が焼かれたように熱くなる。
「伊澄さん⁉」
「っ‼」
痛む腕で強引に槍を振るうと、鬼は緩やかな動きで後ろに下がった。
斬られたのは右肩。金雷槍が反応して割り込んでくれたおかげで、まだ傷は浅い。
左手で右肩を抑えながら月子は槍を構え直した。今は傷よりも驚くべきことがある。
全く反応できなかった。
いつ接近されて、どう斬られた?
怪異の中には相手の認識をだまして姿を隠すものもいるが、それとはまた違う。
「伊澄さん下がって止血してください! それまでは私が食い止めます!」
是澤はそう言いながら袖を捲ると、手首に巻かれたブレスレットを外した。それは月子も見覚えがある。綾香も魔術の媒介によく使う琥珀のブレスレットだ。生命と神秘を宿した特異な宝石からは淡い灯が揺れる。
是澤はそれを引き千切ると、鬼の周囲にばらまき、両手を地面に着いた。
「木道楽――『蜿蜒樹々』」
魔力が地面を伝ってばらけた琥珀に結びつき、光が瞬いた。
普段の生活から長い時間をかけて魔力を込めた琥珀は、魔術の力を何倍にも増大させる。
地中から出現したのは巨人の手と見紛う程の大木。それはよく見れば数えきれない程の根が寄り集
まってできたものだ。
鬼はそれを一瞥すると、滑るようにして後ろに下がった。
「まだです」
その背後から更に現れる巨腕。
それは鬼の身体を掴むと、もう一本もその上から覆いかぶさる。すぐさま指と指が絡み合い、根は丹念に編み込まれていく。そうしてできた牢獄はまるで木の繭だ。繭は動き続け、そのまま鬼を圧殺せんばかりに小さくなっていく。
「すごい‥‥」
補佐がメインだとは言うが、この威力は相当なものだ。月子は手早く粘着式の止血シートで傷を覆い、呼吸を落ち着けて魔力を回復させた。
是澤が拘束してくれている今なら、天穿神槍で貫けるかもしれない。
それが甘い考えだと気付いたのは直後のことだった。
黒い波動がすぐ横を駆け抜ける。
続け様、繭に何本もの線が走った。その延長線上の地面にも亀裂が走り、空気が裂ける音が鼓膜を揺らす。音だけで分かる、これは触れたもの全てを両断する剣閃だと。
斬られた繭の内側から、鬼は何事もなかったかのように現れた。傷もなく、少しの動揺もない。それを横で見ていた是澤が震えを押し殺した声で呟いた。
「結構奥の手だったんですけど、時間稼ぎにもなりませんか‥‥」
「いえ、時間は十分もらいました」
攻撃まではできなかったが、止血ができただけでも御の字。月子は金雷槍の穂先を鬼に向けながら前に出た。
応援は絶望的、退路は既に断たれた。ならばすべきことはたった一つ。
目の前の敵を打ち倒す。
その揺るぎない戦意を示すように、金色の魔力が月子の周囲で爆ぜた。